六日目・早朝




「………」


 その言葉を受けても、蒼は無言を貫いている。

 だが、絶えず行っていた素振りを止め、木刀を持つ腕を降ろして微動だにしなくなった様子を見るに、今の言葉は彼の心に大きな揺さぶりを与えたようだ。


 やはりか、という思いと共に更に蒼へと言葉を投げかける宗正。

 それが彼の心を抉るような痛みを与えることを理解していながらも、自分にしか出来ないことをするために、師としての責任を全うするための行動を取り続ける。


「お前は根本的にというものを信じていない。忌み嫌っているといっても過言ではないくらいだ。他者に対する信頼の感情はある、燈たちのような仲間に向ける友情の想いもある。だが、愛というものに関してのみ、お前はそれを認めることが出来ないのだろう?」


「………」


「お前が恐れているのは誰かを愛することではない。お前が愛した誰かを、お前自身の手で傷付けてしまうことだ。愛を信じぬ自分に誰かを愛する資格があるのかと、そう迷っている……違うか?」


「………」


「お前がそう考えるようになったのも……すべて、皐月のことが原因だな? お前の母の死を招いたのは、他ならぬお前の――」


 蒼の最も触れてほしくない過去にして、彼の今を形成した出来事を振り返りながら、彼へと語り続けていた宗正は、その言葉の途中で空気が凍り付くことを感じた。

 それは決して、緊迫した雰囲気に空気が張り詰めた……という、概念的な意味ではない。

 文字通り、本当に、急激に周囲の気温が氷点下まで凍え始めたのである。


 口から吐き出される息は白く染まり、空気中の水分が凝固して固まっていくようなぴしぴしという音が聞こえている。

 決して狭くはない修練場という空間が、まるで極寒の凍土のような雰囲気に変貌していく光景を目の当たりにする宗正は、今までとは違った目で自分に背を向ける蒼の姿を見やった。


 薄く、されど強く、彼の内側から漏れ出す膨大な量の気力の流れが見える。

 普段は抑え、変換しているそれを、感情の昂りと共に解放した彼の足元の床は、完全に凍り付いて氷を張っていた。


 何も知らぬ者が見れば、蒼の身に何かがあったのだと判断するだろう。

 今の蒼の姿からは、温もりも優しさも感じられない。普段の彼とは正反対の、とても恐ろしい存在として見る者の目に映るはずだ。


 だが、違う。そうではないということを、宗正は知っている。

 だ、逆なのだ。これこそが、今の蒼こそが、彼の本当の姿なのだ。


「……蒼」


「っ……!?」


 静かに、冷静に、宗正が蒼に声をかければ、自身が冷静さを失っていたことに気が付いた彼は一瞬にして溢れ出していた気力を抑え始めた。

 徐々に気温が元に戻り、至る所に出現していた氷が融けて消えていく中、彼の地雷を敢えて踏み抜いた宗正が口を開く。


「すまなかったな、蒼。お前の最も触れられたくない部分を穿り返してしまった」


「いえ……図星を突かれて、少しすっきりしました。むしろ、お礼を言わせてください」


 蒼は未だに宗正に背を向けたまま天井を見上げ、何かを考えるような素振りを見せている。

 その言葉に嘘偽りの色がないことを読み取った宗正は、蒼が多少なりとも自分自身と向き合っている今こそが好機であると判断して、彼に最も伝えたいことを告げた。


「恐れるな、蒼。お前は自分が思っているような人間ではない。決して、お前の母の身に起きた悲劇を繰り返させるような男ではないはずだ」


「……わかりませんよ、そんなの。情けないことに、僕自身も自分のことがよくわからないんです」


「ならばわしを信じろ。お主のことを誰よりも知るわしが、お前をそう評していることを信じるんだ」


「……酷い男ですよ、僕は。涼音さんの言った通りだ。本性も、過去も、仲間たちに隠し続けて、良い人間を装い続けているんですから」


 自嘲か、はたまた自責か。その言葉に含まれた感情の全てを読み取ることは、宗正にも出来ない。

 だが、それでも……彼が過去を乗り越えるためにも、新しい一歩を踏み出すためにも、この問題は避けては通れない道だ。


「……あまり自分を卑下するな。お前は、お前が許せないと思っている男とは違う人間だ。お前がどう思おうとも、それは紛れもない事実だ」


「血の呪いは揺るがない、それもまた事実のはずです。少なくとも、僕はあの男と自分が全く別の思考回路をしているとは思えません。だからこそ、僕は……」


 人を愛することを恐れるのだろう。

 あの男が、愛したはずの女性を見捨てたように。


 言葉にはならなかったが、蒼が何を言わんとしていたかは宗正にも理解出来ていた。

 蒼の背をじっと見つめ、それ以上彼の過去に踏み込むことを止めた宗正は、今の彼へと最後の助言を送る。


「お前は器用そうに見えて不器用な人間だ。だから、必ず本心が暴れ出す時が来る。心が叫ぶままにやってみろ、絶対に後悔するようなことにはならんだろうさ」


「……ご助言、痛み入ります。ありがとうございます、師匠」


 ようやく振り返り、自分へと頭を下げて感謝の言葉を述べた愛弟子の姿を見つめながら、宗正は蒼の抱える問題を解消してくれるかもしれない少女の姿を思い浮かべ、彼女と弟子との関係が深まることを、蒼の父親代わりの存在として、強く望むのであった。


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