独白


 ――胸を締め付けられる苦しみを、栞桜は感じていた。


 それは鋭い刃物で斬り付けられたような、痛みを伴う苦しみではない。

 例えるならば、砂時計の中に閉じ込められてしまったような……じわじわと増していく苦しみに耐え続けるものだ。


 『人生』という名の逃げ場の無い檻に閉じ込められた栞桜の頭上から、数々の不幸が降り注ぐ。

 捨て子となった運命。数々の実験の果てに捺された失敗作の烙印。幾ら努力を重ねても思うような強さを得られないことへの絶望。


 それら全てが苦しみとなり、常に自分を押し潰そうとしている。

 脚が、胴が、肩までもがその苦しみにどっぷりと浸かってしまっても、栞桜は懸命に抗い続けた。


 いつかきっと、自分が報われる日が来るはずだ。

 こんな自分にも生まれてきてよかったと思えるような時が来るはずだ。


 そうでなければ……ただ苦しいだけの人生ではないか。

 無意味で無価値な、空虚な毎日を送っているだけじゃないか。


 ほんの僅かな矜持を胸に、自分自身を叱咤して、栞桜は今日まで生き続けてきた。

 必ず、自分が報われる日が来ることを信じてきた。


 だが……超人的な才能を持つ燈たちと出会い、彼女は知る。

 自分が積み重ねてきた努力など、圧倒的な才能を前にすれば何の価値もないということを。


 生まれつき持つ、膨大な量の気力。

 燈が超特級の気力量だとしても、彼と同時に召喚された同級生たちは、何の訓練もなしに英雄として相応しい力を身につけているという。


 自分たちを散々利用し、失敗作として放逐して、何の補填もしなかった幕府が、よその世界の素性も知れぬ若者たちを頼りにしている。

 その事実は、ぎりぎりのところで保っていた栞桜の精神を打ちのめすのに十分な悪報だった。


 誰も、誰も、誰も……自分のことを見てくれない。認めてくれない。


 栞桜を失敗作にした幕府は、一度ならず二度までも彼女の心を深く抉った。

 彼女たちの肉体を犠牲にして生み出された技術より、何も知らぬ異世界の若者たちを呼び寄せて戦わせた方が役に立つと、栞桜の過去を手酷く踏み躙った。


 桔梗もやよいも、自分よりも燈たちの方が武士団の中心役に相応しいと思っているだろう。

 彼は自分が今まで倒せなかった斑をあっさりと打ち倒した。自分の積み重ねてきた努力を、たった数か月の訓練だけで乗り越えてみせた。

 そんな燈が師匠たちから信頼を置かれるのは当たり前だ。彼は、自分よりも才能があり、強いのだから。


 もう、自分には何処にも居場所がない。

 この屋敷にも、これから作り上げる武士団の中にも、栞桜が望む居場所なんてありはしない。


 報われたいと、認められたいと、そう願い続けてきた。

 家族に捨てられたあの日から、自分の価値を証明するためだけに研鑽を積んできたはずだった。


 それでも、自分を取り巻く人々たちからの評価は変わらない。

 役立たずの失敗作……それが、栞桜に下された評価だ。


 所詮、そんなものだ。自分の必死の抵抗の価値だなんてものは。

 誰かから認められて、頼りにされたいという思いすらも、失敗作である自分には過ぎた願いだったらしい。


 降りしきる苦しみに全身が潰され、息が出来なくなったとしても、まだ運命は栞桜を苦しめ続ける。

 どれだけ壁を叩いても、檻を壊そうとしても、栞桜にはどうすることも出来なかった。


 この世界の何処にも、自分の居場所なんて存在していない。頭ではそう、理解している。

 だが、栞桜の心には、その事実を受け止めることが出来なかった。


 今、この世界の何処にも自分の居場所が存在していないのならば、自らの手で作り出すだけだ。

 誰の力も借りない。正真正銘、自分一人の力だけで運命を切り開いてみせる。


 誰かに頼ろうなんて思いは、弱さの証明だ。

 強くなるには、弱さを捨てなければならない。誰かに甘えたいだなんて思いも、消し去らなければならない。


 ……きっと、今は丁度良い機会なのだろう。

 全てを捨て去って、一人になるのには。


「………」


 『金剛』と洞窟までの地図を手に、栞桜は自室の扉を開ける。

 部屋の中には一枚の手紙。薄っぺらいこの紙切れ一つでこれまでの縁を断ち切ると思うと、何処か物悲しさが胸に去来する。


 それでも……自分は、立ち止まるわけにはいかないのだ。

 この悲しみも、苦しみも、弱さから生まれるものなのだから。それに負けて、足を止めるわけにはいかない。


 時刻は深夜。桔梗たちも寝静まった、屋敷中の人間が夢の中にいる頃。


 もう、ここには戻らない。そう決意を固め、部屋の扉を後ろ手に閉めた栞桜は、数歩廊下を歩いた後に振り返る。

 そして、昨夜にそこから自分へと語り掛けていた燈とこころの姿を想像し、拳を握り締めた。


 彼らは、悪い人間じゃない。

 こんな自分にも手を差し伸べてくれた、本当に良い人たちだ。


 その手を振り払い、拒絶したのは、他ならぬ栞桜自身。

 自分を救おうとして差し出された手を掴めなかったのも、自分自身の弱さ故のことなのだろう。


(矛盾しているな、私は。どう足掻いても、自分の弱さからは逃げられない、か……)


 ここから離れても、離れなくとも、栞桜自身の弱さは常に彼女に付きまとってくる。

 きっと、自分が望む未来を得ることなど、一生ないのだろう。


 それでも……もう、ここにはいられない。

 ここに自分が残り続けていれば、大好きな人たちに迷惑がかかってしまうから。


「……ありがとうございました」


 小さく、師や友人に届かぬ呟きを漏らし、栞桜は屋敷を後にする。

 月も見えない暗い夜の旅立ちが、自分の未来を暗示しているようだと思いながら……それでも、彼女は前に進むことしか出来なかった。

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