演劇と毒殺事件 ~色褪せない薔薇~
湯月 宏希
第1話 毒殺、そして淡い出会い
ミルクがなくなった。
冷蔵庫から牛乳が消えたのではない。
人が殺されたのである。
被害者は、《青レンガ市》に所在する星都大学の女子学生、五月遊貴子。
犯行が行われたのは、五月が属する
そう、そのシャッタースピードによる公演は無事終了することができなかった。劇が最後まで行われなかったからである。
なぜならば、クライマックスシーン直前に五月扮するミルクが、アッサム(ミルク同様、役名)に呼ばれ再登場するはずが、彼女は舞台に姿を見せなかった。否、見せることができなかったから。
そう、その時には既に彼女は舞台袖で死んでいたのである。
死因は毒物による中毒死。毒は農薬の一種で、それは劇中に彼女の飲んだ紅茶から検出された。
そして、青レンガ市警捜査一課に所属する柚木宏樹は、その殺人事件の捜査にあたる一人となった。刑事になって一ヶ月弱、凡庸な容姿、平均点レベルの身体能力の柚木にとって初めての殺人事件である。
事件の一報を聞いたその時から、柚木は周囲に判る程やる気を漲らせていた。出来るところを見せなければ。しかし、若干の不安も持ち合わせていることも隠せない。その不安は絶対的な経験不足と若さからくるものだ。
一般的にはあまり知られていないが、本来刑事というのは警察に入ってすぐになれるものではない。普通は警察学校卒業後三~四年の交番や機動隊勤務などを経て、それから上の者に推薦され、書類審査に面接審査、さらには刑事になるためのいくつかの講習が義務づけられる。
ところが柚木の場合、警察学校を卒業して地域課に配属されて五ヶ月目で、いきなり刑事課に転属となった。大した手柄を挙げたわけではない。何気ない些事がきっかけとなった。なってしまっただけのことなのである。
それは、柚木が交番勤務をしていたある日のこと。彼は近所のお婆ちゃんに道を訊ねられたので、彼女の背負っていた荷物を持ってやり、案内がてら、もう大丈夫だろうという場所まで連れて行った。それから交番へ戻り、濃い目に淹れた日本茶を啜って外をぼんやりと眺めながら小休憩。日常のほのぼのとした一幕である。そんな中、いきなり一人の綺麗さと可愛らしさを併せ持つ若い女性が現れた。柚木は思わず見とれてしまう。
この出会いが彼の平穏な日常を変えるなどと、誰が想像できただろう。
彼女は不意に話し掛けてきた。
「君、紅茶は好き?」
「好きです」
思いがけない質問。けれども柚木は答えた。自然と即答になった。不思議な感覚。なぜだろう。そもそも何を訊かれたのか、瞬時に忘れてしまったのに。はっきりしているのは、これは一目惚れ。そう一目惚れだ。柚木の瞳は彼女を捉えて放さない。とにかく綺麗な人だ。齢は自分と同じ、いや落ち着いた物腰から察するに、きっと一つ二つ上だろう。
彼女は「そう。良かった」と頷くと、柚木の腕を掴み、交番の脇に止めた車へと引っ張った。どこか見慣れた感じのする車だ。すぐに思い出すことに成功する。そうだ、パトカーだ。
え?
気がつくと柚木は助手席に座っていた。パトカーはゆっくりと発進する。
連行された!
近くの幼稚園児や小学生に日頃、「知らないおじさんについて行っちゃダメだよ」と云っている自分が知らない人について行ってしまった。この場合、おじさんじゃなくて《お姉さん》だから良いよな、と心の中で云い訳する。まあ相手も警察関係者だろうから何とかなるだろう。何も悪いことしてないし。運転席の彼女は鼻歌を歌ってご機嫌の様子。
市警本部に連れられた柚木に、彼女から差し出されたものは温かくて美味しい紅茶だった。かつ丼やスタンドライトではなかったことにホッと胸を撫で下ろす。
そこで記憶を巻き戻した。――成功する確率は低いのだが奇跡的にもうまくいった。
『好き』の前に『紅茶は』があったことに思い当たる。何だ、ははは。何を早合点してたのだ、僕は。
気を緩めた柚木に対して、目の前の美人はマイペースに話を進めていく。
「君、名前は?」
「柚木宏樹です」
「柚木宏樹、良い名前ね。とこで柚木君、捜査一課に来ない?」
随分と唐突な誘いだ。だが、どうやら彼女は刑事部の力のある人だろうという予測はできた。しかし、例え彼女がキャリア組でどんなに偉かろうとも、警察官に成り立ての若造をいきなり刑事にする権力があるはずはないだろう。だが柚木自身、いつかは刑事になりたいという願望は持っていた。将来の事を考えると、ここは誘いに乗る態度をみせるのが得策であろう。そう思って、
「行ってみたいですね」と返事をしてみた。
その答えに彼女はにっこりと微笑んだ。
「良かった。じゃあ決まりね。上には私から話を通しておくから」
その明るい声に一瞬きょとんとした柚木だったが、冗談だと思い直し、笑顔を作って「お願いします」とだけ答えた。気まぐれの冗談だとしても、可憐でどこか想い惹かれるところがある人にこんなことを云われることは嬉しいことだ。
次の日、柚木は直属の上司である地域課の課長から「お前、来月から制服着なくていいから」と云われ、初めて彼女の言葉が冗談ではなかったことを知るのだった。
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