第2話

 

 つまり、まだ犯人は逮捕されていないと言うことだ。警察にしらせようか。……だが、あの女が犯人とは限らない。


「あなた。食べてからにして、新聞読むの」


 美耶子が顔をしかめた。


「あ、ごめん」


「パパ、おはなしして」


 ハンバーグを頬張った公太が無垢むくな目を向けた。


「お話?」


「ん」


「むかーし、むかーし。あるところに、公太という、とってもかわいい男の子がいました――」


「うふふ……」


「あなた、早く食べちゃって。味噌汁冷めちゃうわよ」


「公太のママは、とっても怖ーいのでした」


「うっふふ……」


「あなたっ」


「は~い」


「ふふふ……」


 公太が口を隠して笑った。



 ――その翌日だった。休日と言うこともあって文庫本をポケットに、ジロを伴って公園に行った。休日の午後は、平日の早朝と違って、家族連れが多かった。ベンチに腰掛けて文庫本を開くと、ジロが大人しくおすわりをした。


 歴史小説を読みながら、戦国時代に生まれなくて良かった、と頭に感想を浮かべ、次のページを捲ろうとした時だった。


「まあ、かわいい」


 女の声と共に、サンダル履きの爪先がずらした文庫本の端に見えた。急いで顔を上げると、そこにあったのは例の女の顔だった。俺は目を丸くしながら、女の顔を確認した。間違いない。あの女だ。……だが、犯人がどうして、こんな殺人現場の近くに現れ、大胆不敵にもジロに声をかける余裕があるんだ?普通なら身を隠すだろ。……やっぱり犯人じゃないのかな。ジロを見ると、尻尾を振って愛嬌を振りまいていた。年上でも美人には目がないのか?


「お名前は?」


 女が俺を見た。


「えっ?」


 泰然自若たいぜんじじゃくとしている女とは対照的に、俺のほうは狼狽うろたえていた。


「ワンちゃんの」


「あ、ジロです」


「ジローちゃん、かわいい」


「いえ、ジロです。じろじろ見るのジロです」


「まあ、ユニーク。ふふふ」


 女はクスクス笑った。


 ……笑ってるよ。スゲー度胸だな。「警察に追われてるかも知れないんですよ」と、俺は心の中で教えてやった。


「ジロちゃん」


 女は腰を曲げると、手を下から持っていきジロのあごの辺りを撫でた。


 ……犬を飼ったことがあるのだろうと思った。犬の習性を知らないと、直接頭を撫でようとする。これは危険な行為で犬に噛まれる恐れがある。


 ジロと戯れる女の横顔を見ながら、俺は思った。この女との繋がりをってはいけないと。それは、殺人事件の容疑者だという理由だけではなく、漠然とだが、何か別の理由も含まれていた。だがこの時はまだ、仕事がらみでこの女と関わるとは思いもしなかった。


「……犬、飼ってるんですか?」


「えっ?」


 俺の問いかけに女が正面を向けた。


「なんか、慣れてるみたいだから」


「ええ。……むかーし」


 ジロに戻した女の横顔は、どことなく寂しげに見えた。ジロを見ると、仰向けのだらしない格好で女に撫でられていた。同性として恥ずかしかった。


「……今度、お茶しませんか」


「えっ?」


 女は驚いた顔で俺を見た。


「……この近くに住んでる吉田という者です。よく、この公園に来ます。ジロと散歩で」


 女を安心させるかのように、大まかに身元を明かした。


「……ええ、いいですよ。私も近くですから」


 女はそう言って、横顔に笑みを浮かべた。



 翌日会う約束をしたものの、俺の中に不安があったのか、ジロに手を振って公園から出た女を尾行していた。


 女が商店街の角を路地に曲がった途端、俺は走った。八百屋の角から顔を出して見ると、女の背中があった。間もなくして、軒を連ねた古い一軒家に入った。


 小走りでそこまで行き、通りすがりに表札を瞥見べっけんすると、〈高見沢〉とあった。


 この家の持ち主だろうか。それとも嫁だろうか……。



 翌日の日曜。ジロを伴って、昨日のベンチで女を待った。本音を言うと一人で来たかったが、美耶子への口実と、近所の目を気にして、仕方なくジロを連れてきた。


 読書の振りをして視線を落としていたが、実は、ふせをしているジロの挙動を視界に入れていた。高見沢が来れば、ジロは尻尾を振るはずだ。


 ……さて、どこでお茶しようか。この辺じゃ気が引けるし。かと言って、ジロと一緒じゃ電車にも乗れないし……。


 と、その時。ジロが突然立ち上がり、尻尾を振った。


 ……来た~。


 俺は俯いたままでニヤッとした。ところが、


「パパ~」


 公太の声がした。咄嗟とっさに顔を上げると、走ってくる公太の後方には美耶子の姿があった。


 ……まじぃ。高見沢さん、どうか、今は声をかけないでください。


「買い物、行ってきます」


「ああ……」


 後ろめたさからか、美耶子の顔をまともに見ることができなかった。


「パパ、バイバイ」


 ジロの頭を擦っていた公太が手を振った。


「ああ、バイバイ」


 気づくと、親指を当てていたページが指の汗で反り返っていた。


 二人が立ち去ると、ホッと息を抜いた。ジロを連れてきて正解だった。もし、高見沢と二人だけで会っているところを見られたもんなら、大事おおごとになっていた。


 それにしても、なんだか、楽しみにしていた高見沢との淡いムードが一瞬にして壊れたな。ったく、邪魔しやがって。前触れもなく突然現れた美耶子と公太に俺は腹を立てた。


 辺りを見回したが、高見沢の姿はなかった。先刻の光景を目撃し、気を利かせて出現を断念したのか。それとも、急用で来られないのか……。


 30分ほど待ったものの、高見沢は現れなかった。仕方なく帰宅したが、二人はまだ帰っていなかった。

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