第2章 第25話「情熱」
折口が“神”の存在を前提にした話を聞いて、怖気づいたり疑わしいと思う素振りを見せなかったことに驚いた。それは折口のような感性の鋭い人間ならでこその抱擁力であり、かつ私が嘘を付いていないことを彼が悟ったのだろうか。
結局の所、折口に対して直接的な動きがあったということはなかった。神が本居に働きかけ、本居が折口や私に働きかけ、そして何かが動き出そうとしている。本居が神の模写をしたことについても神の導き通りの行動だろう。全ては神の意志のままに動いている。結果がどうなろうとは構わないが、その顛末だけは見逃したくない。恐らくはライターとしての立場を持つ私を巻き込んだ上での凄まじい展開が待ち受けている。
そんな風に考えていたが、彼らの急展開はそこでストップした。厳密に言えば本居の急展開が停滞の一途をたどることになった。停滞と言うよりも正しくは制作としての道に集中することになっていくと表現した方が良い。
一方で折口に大きな変化があった。国内外での成功が世界中に轟き、彼は一躍時の人になった。各国の劇団主催者が彼を自らの劇団に引きずり込もうと躍起になった。 しかし彼には束の間の休息が必要であったし、その後に講演会形式の本居との二人芝居を控えていた。主催者たちはその公演の終演を待ち望んだ。二人での公演の計画が一段落したところで大勢の演劇人が折口の元に殺到した。本居に目をくれる者は一人もいなかった。注目されるのはいつだってパンフレットの一番最初にやって来る人物名だ。国内では本居も対等な立場で扱われていたが、世界が相手となるとそんな忖度は一切なくなる。
プレイングに対して人々は、世界のどこでもヒット作を生み出すことのできる折口と「その仲間」という捉え方をした。折口円という人間が関わるだけでその作品は名作の仲間入りを果たすことができる。彼の名前がポスターやパッケージに刻まれる度にその熱狂は高まることになる。
本居はその現実に対して、どうすることもできず、誰からも声を掛けられることがなかった。プレイングとして活動したいという思いがあるのにも関わらず、折口ばかりに声がかかるようになった。
最初はそんなことは気にも留めていなかったが、どういう圧力がかかったのか、折口を手放さない限りはどの劇場も活動をさせてくれないということになった。劇場が使えないのは演劇を生業にする人間にとっては死活問題だ。評判を取り戻そうにもどうにもできない。業界を去る以外にプレイングに残された道はなくなった。
こうして二人の自由は奪われ、折口は一人で海を渡り、片や本居は日本に取り残されることになった。一人になった本居は圧力こそ掛けられなくなったものの、その余波のために本居が前に出て来る公演を打つことができなくなった。一体どれだけの圧力がかかったと言うのだろう。プレイングの歴史そのものが奪われるということはなかったが、今後プレイングの人間の名前を使う公演は悉く潰されることなった。プレイングに所属する、もしくはしていた、折口の公演は海外で称賛されはしたものの、本居の名はどこにも届かないようになった。こうして本居は一人芝居の道すらも絶たれることになり、ひたすらに制作としての活動と脚本の創作活動に専念せざるをえなくなった。
しかし制作もポスターやホームページに名前が載ることを恐れられたためにあくまでも補助要員としての扱いしか受けなくなった。前に出る制作として引っ張りだこであった彼をしてもその名前が出て来ることを恐れられている以上は裏の裏に引っ込んでいるしかあるまい。
創作活動も同じような理由で本名では書かせてもらえず、ペンネームで出してみても思うようにヒットしなかった。どの劇団も本居の名前を見るだけで逃げ出す始末であったし、ネット上の脚本投稿サイトに出してみても鳴かず飛ばすという風になっていた。あれだけのヒット作を生み出してきたのにも関わらず、名前が聴き慣れないものに変わった瞬間に見向きもされなくなる。活動を始めた当初は学生だったこともあり「学生にしてはすごい」という所を出発点として成り上がることができたが、今となっては無名の中年作家としてのスタートとなる。箔のついていないものは誰の目にも留まることはない。
本居翔は学生時代、コンビ解散後の一人芝居、コンビ復活後の海外公演から数えて四度目のスタートを切ることになるのだが、彼の元に神が現れることは二度となかったのではないだろうか。
今にして思えば全ては折口の為の神だったのかもしれない。一人ではのし上がる実力がなかったが天才本居と組ませることで徐々に名を轟かせるようになり、一度本居と離れることでどの劇団でも通用することを自ら証明した。そして今度は自力での海外公演を成功させる。それは本居の実力があってこその成功ではあるのだが、そういった事実を知りうるのは一部の人間だけである。毎回周囲にいたスタッフと、ずっと彼らを追いかけていたライターである私だけだ。他の人間からするとこれまでの功績は名演出の折口円の仕事のように映る。次々に成功を収め、世界でも通用するビッグネームと化したことで、折口円は一つのブランドに昇格した。そこに本居の名前はない。所詮は制作の人間だ。脚本も裏では本居が書いてはいたのだが、人々の目には折口によるオリジナルの作品だとしか映らない。折口が書き、折口が演出をつけた芝居であれば必ずヒットするし、皆が観たいと思うようになる。そういったセオリーが出来上がった。
実際のところ演出しかしてこなかった折口ではあるものの、脚本志望の人間は山のようにいる。「俺の手がけた脚本を是非折口に舞台化してもらいたい」そんな声が多かったようで、折口が脚本まで任されることは一度もなかった。
本居という操り人形を通して折口は大きく成長することになった。神を追いかけてきた私にしかわからない現象だ。折口もこのことには気が付いていないだろうし、本居からしてみれば神に中途半端なところで見捨てられたと思うだろう。
これまでに神が間接的に他の人間を祭り上げたことは私の知る範囲では一度もなかった。神が手を出すことでその人物の歴史に確変のようなものが発生し、これまで想像しえなかったような新しいルートに進み出す。本居はこのルートを一度も踏み外すことなく歩んでいた。そして折口がいなくても本居は似たような進路を選んでいった可能性すらある。一人で芝居の腕を上げ、一人で劇団活動を始め、一人で海外公演を行い、一人で日本一の脚本家に成り上がるルートは十分に考えられる。
しかし折口は本居抜きでは同じルートを進むことはなかった。学生サークルで適当に演出をするなりその他のスタッフをするなりたまに役者をやるなりして比較的平凡な学生生活を送り、そして周囲と同じように一般企業に就職をしてありきたりな人生を送る可能性があった。そう考えれば本居の存在ありきの折口の成功と言うことになる。
折口にとってのターニングポイントは確実に本居との邂逅だ。もしかするとこの辺りにも神の導きがあったのかもしれないが、その辺りについては触れないでおく。なにせ折口はずっと海外にいるのだし、本居は今となってはただの良い友人である。ここにライターとインタビュイーという関係は持ち込まないことにしている。神の話をすることもなければ、演劇の話も向こうからしてこない限りは応じることもなければ、深堀することもない。
本居は今も裏方の裏方として演劇業界を支え、私は相変わらず埋もれた才能を掘り起こす傍らで、奇跡の現場を先取りすることに情熱を費やしている。
プレイング 鷓鷺 @syaroku
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