第2章 第8話「痕跡」

 個人のライターは自由に記事を書くことができる。これまでは編集の傍らで記事の執筆までやっていたのだから、執筆に集中できるとなれば自ずと生産性も上がる。記事自体はこれまで書いてきた冊子や雑誌に加え、伝手を辿ればいくらでも書き口があった。インターンの学生たち同士のネットワークを使えばこれまで繋がりのなかった出版社とも繋がることができるし、いつしかインターンで働いていた学生が今や出版社で勤めていたり私と同じようなライター専門の立場になっていたりしてそういった関わりを利用することもできるようになってきた。そしてそれと同じように私がライターと出版社を繋ぐことも多々あった。こうして関わりが増えてくると出版社からも声が掛かるようになり、放っておいてもどんどん仕事が入ってくるようになった。


 学生の時から貯えを作ることができたというのも大きい。元手がなければ自由に記事を書くこともできなかったが、学生の身としては驚くほどの貯金があったので好まない記事を敢えて書く必要もなかった。書きたくなければ大手のオファーを断ることもできたし、書きたければ無報酬に近くても進んで取り組んだ。こういった姿勢が信頼を呼び寄せ、またしても仕事が増えるというサイクルが出来上がった。

 地理や若者文化が私の守備範囲ではあったものの、中小企業の情報誌を作る際に少なからずその企業の手がける専門分野の知識も拾い集めたので、未知の分野に手探りで入り込んでいくということには何の抵抗もなかった。ジャンルに縛られることのないスタイルが学生時代に醸成された。鉄工業、繊維から文化的なものまで何でも記事にしてきた。それでも人気ジャンルである文化的なものの執筆が多くなっていた。


 ある時に不思議な体験をした。

 最初の体験は若い落語家の取材をしている際に起こった。若者の間で落語ブームが起きている。私がライターを始める前からずっと言われていることなので長いことブームが続いているのか、はたまたそんなブームは元々ないのかどちらかはわからないけれど、依頼主からの要望なので仕方がない。私も特に落語に恨みがあるわけではなくむしろ興味のあるジャンルなので快く引き受けた。

 今回取り組んだのは密着取材のスタイルでの記事であったのだが、その落語家が途中で人が変わったかのように感じられる場面があった。ちょっと調子が悪かった程度の認識しかしていなかったが、そうではないことが後に判明する。


 ある本番直前にその落語家から覇気を感じられなくなった。当然その席の評判はいつもと比べてよろしくないものとして終わってしまうのだが、その後は大転換が訪れる。取材後の話にはなるが、その半年後からこれまでに挑戦したことのないような手法に取り掛かるようになり、これまでの以上の成功を収めるまでになる。

 スランプのようなものに陥った後にそれを克服して再起した結果、一皮も二皮も剥けたという解釈が最も適していそうだが、その落語家の起き上がり方にはどことなく神秘性が漂っている。密着取材をしたからこそ贔屓の目が入ってしまっているという可能性は捨てきれないのだが、その後も似たような場面を目撃することになる。


 これから伸びそうだと思った若者たちが一様に大きく羽ばたく光景を何度か目撃した。それも同じベクトルではなく異なるベクトルへ向かっていくのだ。若手落語家がその最初の例であった。話し方が今一ついつもと異なることに気が付いていたが、それはスランプのせいではなかった。取材前に何度も映像を見て予習をしてきたのでこの落語家の素振りは見慣れたものとなっていたが、本番はこれまで身に付けたものを全て落として臨んでいたかのように見えた。まるで色のついた布が真っ白になったかのようであった。台詞はとちっていないし動作もいつもと同じ風である。

 しかし一つ一つに肉薄した感じがなく、ただ読んでいるだけ、ただ動いているだけといった感じであった。直前の稽古の際にも変わった様子はなかったし、何ならいつもよりも気合いが入っていた雰囲気であったのに一体どういうことであろうか。


 他の例の場合もそうだった。お笑い芸人もYouTuberも小説家も、挙句の果てはピアノ教師にも同じような兆候が見られた。そのピアノ教師は独創的な授業を展開しているということで話題であったのだが、彼女が教師を辞め、個人の家庭教師になり、その活動の幅を広げることになった。家庭教師と並行してオンラインでの授業を受け持ちつつ、自身もコンクールへ出場するようになったりと、全ての面でより一層の成功を収めるようになっていった。

 方針の転換か、取り組みの拡大かは人によりけりではあったが、各々が大きな成長を遂げて行った。


 ライター仲間に聞いてみると同じような場面が散見されているようだったが、皆そこまでは気にしていないようだった。

 しかしこの裏には何かあるはずだ。神の痕跡のようなものに確信を得た私は文化的な活動で注目され始めていて、尚一層の伸びしろがありそうな人物を全てマークすることにした。

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