第8話「心配」
「今回の舞台は思うところが多すぎた」普段は俺に意気軒昂な振る舞いしかしない円が珍しく深刻な顔をして言う。
「演技の良し悪しではない。確かにお前は稽古の時とは異なる演技をした。しかし舞台なんていうのは本番でガラっと変わることなんて良くあるし、稽古と違うことをしたからって観客が気付くわけがないんだからそんなことはどうでも良い。お前の演技が本番に入ってから突然変わったことについては他の役者も何か思うところはあったかもしれないが、そんなことは役者の方が慣れっこだろう。修羅場をくぐってきたか、もしくはきちんとくぐれそうな役者を選んで舞台に上げている。初舞台になるお前が本番の魔物にやられてしまっても周りが全力でフォローできるようにオーディションで選考をした。もちろん、お前の脚本に対して百パーセント以上の答えを返せるというのも大きな評価基準だった。そういう意味ではお前も十分及第点は取っていた。忖度なんかじゃなく、演出としてお前を舞台の中心に持って来たかったから主役を張らせた。劇団に付いているファンの声の可能性もあるが、お前の演技自体も思った以上に好評で次回も是非と言うアンケートの声もたくさん頂いている」
円のフォローのような言葉が続く。他の奴の言葉なら完全なフォローなのだろうが、円の場合は違う。全てが本音だ。俺のことを含め、今回の公演を前向きに受け取っている部分は確かにある。しかし俺たちの関係のどこかに分岐点が隠れていて、その分岐点が音を立てずに現れたのだ。そのことを円は順序立てて話そうとしている。
「お前の演技が変わったことは別に良いんだ。他の役者が同じことをしてもそれはそれで面白いと心のどこかで褒めたと思う。本番で起こったことについてはあれこれ言いたくはないが、それもまた演劇の醍醐味だ」円が面映ゆそうに言う。
俺が円の立場になったと想定してみる。相棒の書き上げた脚本の登場人物に本人をはめ込む。そして稽古に参加させて他の役者たちとしっかり空気を共有させ本番に備える。しかしその本番で想定外の演技をし始める。これまでの稽古や他の役者たちとの連携が全てぶち壊される。それでもそういったことも含めての舞台なのだと胸を張る。つまり分岐点はそこにはない。
「俺が脚本を書き、お前が舞台の外側を準備する。そしてその準備された空間を俺が埋めていく。それが評価されて俺たちは演劇業界を生き延びることができる。未だ見たことのない世界に俺とお前と観客で進んでいく。お前とコンビを組めたことは奇跡だと思う。好きなやつと好きなことをして生計を立てられる人間がこの世に何人いるんだろうな」
ずっとやってきたからこそわかる。円の考えが読める。これまで素晴らしい時間を送ってこれて、それでいて食うことにちゃんと繋がっていた。でもこの劇団はそういうところにいてはいけないんだ。安心できるホームがあることはありがたい。でもそれじゃあ俺たちの目指しているステージにのし上がることはできない。
「舞台の醍醐味をお前と味わうことができた。じゃあ次はどこを目指すのか。お前の脚本は毎回ちゃんと面白い。だからこそ本気で役者を選んで、きちんと稽古をつけてステージの上に送り出すところまで責任を持って引き受けている。もちろんお前の制作としてのバックアップありきでな。最高だ。そして最高すぎた」
「ぬるま湯だって言いたいんだろう。そして前回のインパクトを超える舞台を作ることに責任を持てなくなったんだろう」俺は率直に口にする。
「その通りだ。この環境で最高のものを作り出してしまった。お前が稽古通りの演技をしていたらどんなに上手い演技をしていたってこれほど満足はしなかっただろうな。悪く言えばお前の想定外の裏切りがあってはじめて最後のワンピースが埋まったような気がした。初ステージを観て思ったよ。これが俺たちにとっての今駆け上がることのできる最高地点であり限界地点だってな」
「だからこそ俺たちは解散して新しい場所で力を発揮した方が良いってことなんだな」円にわかりきったことを聞く。
「俺はどんどん挑戦して行きたいし、お前にも挑戦してもらいたい。俺は演出としてどこかに雇われればどんな劇団だってきちんと公演を打って集客をしてというところまで責任を持って取り組む。まだ俺が到達していない点だ。自信はあるけれど現時点で実証はしていない。だったら演出としてここでさらに上を目指して再出発する必要がある。お前はどうだ」
「言いたいことはわかった。確かに挑戦しないという選択は俺たちのポリシーに反する。ここで別々の道を駆け上がっていくというのはむしろ筋が通った選択だと思う。だが一つ心配なのは、お前には脚本がないということだ」俺には脚本があり、制作としてのノウハウもある。それにこういった時が訪れることも少しは予測していた。次の一手は考えてある。しかし円には演出しか生きる術がない。
「お前は脚本家としても通っているから脚本の準備は避けて通れないんじゃないのか。」痛い所を突くようだが、ここで円の言葉が詰まるようなら今すぐに結論を出すべきではない。
「脚本家としての立場は捨て去って演出として特化することにする。本当ならお前の力を借りたいところだが、一旦一人になって演出としての感性を研ぎ澄ましていく。お前の脚本がベースにないのは不安で仕方がない。だがそれじゃあ挑戦にならない。どこかが雇ってくれるという確証はないけれど、これまでの伝手を使って這い上がれるところまで這い上がっていく。俺は演出一本で勝負していく。」円はすがすがしい顔をして言い切る。俺は円のこんな答えが聞きたかった。
「わかった。安心したよ。誰もお前の挑戦を邪魔しない」
「ありがとう。それで、お前はどうする」円は心配そうに俺に尋ねる。
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