角栓

フルトリ

第一章

 記憶とは押し寄せるものだと知ったのはつい最近のことだ。

 例えば風が吹いたりだとか、遠くでクラクションの音が聞こえたりだとか、そんな些細な、きっかけとも呼べないようなきっかけで、水底の泥が舞い上がるようにその記憶は私の中で広がろうとする。そしてその止め方を私は知らない。

 懐かしいと感じるにはまだ若いその記憶は、光や音や匂いや重さ、その他あらゆるものとなって私を包む。私がその記憶の中にいた、言い方を変えれば私がそれを体験していたその瞬間において、その記憶たち(その当時はまだ記憶ではないが)は光や音や匂いや重さやその他あらゆるものだなんて表現できるものではなかったはずだ。しかし今となってはそれらは断続的かつ局所的な情報となってしまった。

 記憶、というものは初めが最大値なのだと思う。思い返したり、人に話したり、つまり私の手が加わるたびに劣化し、削り取られ痩せていくのだろう。なぜなら、それらは私の持つ表現力や語彙や想像力が遥かに及ばない力を持っているからだ。それでも私は思い出さずにはいられない。

 悪質なのは、その記憶が何よりも、少なくとも私が知る何よりも心地良いものだったことだろうか。私はその刺激に包まれるたびに、言い知れぬ幸福感を覚え、そして後悔する。毎回だ。

 私が些細なきっかけ――つまり風だとかクラクションの音だとか――でその記憶を連想してしまうのは、その些細なものや、あるいはそれに似たものがその記憶の中に含まれているからだろう。そしてそのそれぞれが、私の記憶の中で何よりも優先されているらしい。

 再現性、と先輩はよく口にした。恐らく彼がこの世の中で何番目かに重要だと思っているものだった。

 先輩がそれを口にする文脈は決まって数学に関するものだったが、彼の人生において数学の占めるウエイトがどれほど大きいかを知っていたので、私は素直にその重要性を受け入れた。

 私がこの言葉について考えるのは、いつか私の手の中にあったものについて考える時だ。それらのほとんどが得ようと思わずに得たものだったし、そうでなくとも再現性のかけらもないものばかりだった。そしてそれでも構わなかった。何一つとして問題だとは思わなかった。

 それが今はどうだ、と私は手のひらを、そして指の間を見つめずにはいられない。




 先輩は、春と秋を大いに憎んでいた。

 先輩は花粉症を患っていたので「辛いでしょうね」と私が言うと、決まって首を横に振った。

「俺は鼻水が出るから春と秋が嫌いなんじゃないんだ。洟をすする馬鹿が蔓延するから嫌いなんだ」

 彼は自分以外の花粉症患者は皆、現代病に罹ってみせることで現代人であることをアピールしているのだと思っているようだった。そして自分がそういう人種ではないことと、その証拠にいかに花粉症対策を尽くしているかを語っていた。

 先輩は、他人が洟をすする音がとにかく嫌いなようで(それは私も共感するところではある)、その音が聞こえるたびにあからさまに顔をしかめていた。しかし、洟をすする風邪ひきたちが闊歩する冬には、先輩がそれに対して文句を言ったことはなく、たんに自分が花粉症で苛々しているだけなのだろうと私は半ば確信していた。それを口にしたことはないが。

 春と秋の先輩は、近くでその音が聞こえるたびに顔を歪めて、上書きするかのように耳を乱暴に擦っていた。そのくせ、自分もたびたび薬を飲み忘れては洟をすすり上げた。そして決まって「薬が悪いんだ」と言った。

「この薬があまりに効くもんだから、自分が花粉症だってことを忘れてしまうんだ」

「はあ」

「花粉症じゃないやつが、花粉症の薬を飲むか?」

「いえ、飲みませんけど」

「ほらな」

 そうやって、彼はいつも勝ち誇ったような顔をしてみせた。




 私と先輩が出会った、正確に言うと初めて会話したのは二年近く前だ。当時私は大学二年生になったばかりで、ある講義の質問をしに先生の研究室を訪ねて、まさにそのドアをノックしようとしていた。

「渡部さんなら今はいないよ」

 先輩は偶々そこを通りがかったといった風だったので、何故先生の予定を知っているのかと疑問に思った。そしてその謎はしばらくの間解けなかったのだが、数学科の先生方のスケジュールを全て把握していると後に彼が語っていた。彼は当時から院の博士課程で学んでいたので、院生は皆そうなのだと少しの間誤解することになった。

 先輩はその時私を初めて見たに違いないだろうが、私の方はそうではなかった。私が先輩を初めて見たのは、大学に入学して何週目かのある講義だった。

 先輩は壁際の一番前の席で講義を受けており、先生の言葉にいちいち大きく頷いていた。私は真ん中後方の席からぼんやりと眺めていたのだが、彼はその後ろ姿だけで十分に十八歳ではなかった。講義中に先生と会話することも多かったので、どうやら彼は新入生ではないようだとは思っていたのだが、私が履修していた講義のほとんどに彼が出席していたこともあり、私は先輩が何者なのかいまいち計りかねていた。その疑問を一年ほど放置していたことになるので、私はあまり問題解決に積極的な性格とは言えないだろう。

「渡部さんに何か質問?」

「はい。実解析で分からないところがあって」

「いいねえ、熱心で。あと三十分くらいでジムから戻ってくると思うけど、待つ?」

 この「ジム」というのが事務ではなく学内の体育館の中にあるトレーニングジムを指すことを知るのも、随分後になってからだ。

「はい。三十分くらいなら」

「それなら院生室で待ちなよ。クーラー効いてるから」

「え、いいんですか」

「いいよ、ちょうど目の前だしね」

 先輩はそう言って、私の隣のドアを開けたのだった。

 私が訪ねた研究室の廊下を挟んで向かいにあるその院生室は、中には誰も居ないようだったが、それにも関わらず空調がとても効いていた。その日は五月にしては気温が高く、廊下の暖かい空気と室内の冷えた空気とがぐるぐるとうねって、先輩は小さくくしゃみをした。

「適当にかけていいよ」

 先輩はそう言って、十畳ほどの部屋の一番奥の、ひときわ散らかった机に鞄を置いた。

 院生室の中央には長机が二つ並べて置いてあり、その周りにいくつかのパイプ椅子が添えられていた。壁際には大きな机が三つ並んでいて、先輩が鞄を置いた机もその一つだった。

 適当にかけていいと言われても、どこに座るのが正解なのか考えるのも億劫で、私は入り口の傍にあるホワイトボードの消し残しを眺めていた。

「ちなみに」と先輩は私の方を振り返って、小さく息を吐いた。もしかしたら、突っ立ったままの私に少し呆れていたのかもしれない。先輩は手招きをして続けた。

「わからないところってどこ?」

 私は肩に掛けた鞄からテキストを取り出しながら、先輩の下へと歩み寄った。パラパラとページをめくっていると、「講義でやったところ?」と追撃があった。

「はい。先週の講義の最後にやったところなんですけど」

「俺でよければ、見てあげるよ」

 そう言って先輩は半ば強引に私の手からテキストを取って、二三度めくって該当ページを開いてみせた。

「確かに、ここはわかりづらいよね」

 その時の先輩は心なしか嬉しそうに見えた。

「はい。一応解いてはみたんですけど、これが合っているのかわからなくて」

 私がノートを差し出すと、偉いじゃん、と先輩は笑った。そして私の回答にざっと目を通すと、なるほどね、と呟いた。

 その問題はそう難しくはない証明問題だったのだが、この一件で先輩は私のことを熱心な学生だと認識したようだった。勘違いと言ってもよいのだが。




「俺、勉強する学生は好きだからさ」

 先輩から受けた親切に対して私が礼を言うと、先輩は決まってこう答えた。

 私は元来熱心に勉強に励む学生ではなかったのだが、先輩の誤解というのか、私の化けの皮というべきなのか、とにかくそれは保たれたままで、先輩が私を見限る様子や前触れは感じられなかった。

 博士課程ともなると友人と呼べる友人もいなくなるようで、先輩はもっぱら私を飲みに誘っていた。先輩は外で飲みたがらないので、場所はいつも先輩のアパートだった。

 部屋には大量の数学書があった。ただ本棚はなかったので床に無造作に置かれていた。決して狭くはないワンルームの壁の三辺は、腰の高さほどまで横に積まれたそれらにぐるっと埋め尽くされていて、世の中にはこんなにたくさんの数学書が存在したのか、と初めて目にした時には大変に驚いた。

 先輩は、残った一辺の壁に置かれたベッドに腰掛けて、ウイスキーを飲みながら数学について語ることが多かった。この家にはウイスキー以外の酒がなかったので、私も普段飲みもしないウイスキーをちびちびと舐めていた。美味いものだとは思えなかったが、飽きもせずに嬉しそうに数学について語る先輩を眺めるのは悪くなかった。

 先輩は数学を愛していた。そして学問の中で数学を選んだことを誇りに思っていた。

 何故数学を専攻するに至ったかすら思い出せない私とでは、同じ数式を見ていても感じるものが全く違うようだった。私はご多分に漏れず、何か数字と記号が並んでいるなあ、くらいにしか思えなかったが、先輩は深く息を吸い、そして吐きながら、何か芸術作品でも鑑賞しているかのように眺めていた。

 その楽しみ方を理解する日はついにやってこなかったが、先輩が見ているものを想像するだけで、私の世界はいくらか広がったように思えた。

 私たちの会合には、時折、先輩の彼女が加わることがあった。

 背中まである金髪のワンレンという派手な髪型とは裏腹に、落ち着いた雰囲気を纏った彼女は、山口秋さんといった。背が高くすらりとした体型の彼女は、縦にも横にも大柄で無精髭を生やした先輩と並ぶと、さながら美女と野獣だった。

 秋さんは先輩と同い年で、出会いは高校生の時だったらしい。出会いについては二人とも語りたがらなかったため、私が知っているのはこれだけだった。そのため、見かける度に煙草の匂いを服から漂わせていた先輩が、ある時期からきっぱり吸わなくなったことから、二人が付き合いだした時期を想像したりなどしていた。

 秋さんは、参加する時には必ずマシュマロを持って現れた。その頃は大学終わりにそのまま先輩のアパートに直行するばかりだったので、手土産というものを持参したことがなかった私は、あまりに失礼だったのではないかと反省し、ある時手土産を持って行ったことがある。確か、近所のコンビニで買ったチーズか何かだったと思うが、それを渡した時の先輩の顔はあまり晴れないものだった。

「お嫌いでしたか」

 その反応に私が恐る恐る尋ねると、先輩は困ったように笑って、そうじゃないよと言った。

「次からはマシュマロを持ってきてくれ」

 私としては、秋さんと被らないようにと気を使った結果だったのだが、それは裏目に出てしまったようだった。別段、先輩はマシュマロ以外を口にすることがないわけではなかったので、単純に疑問だった私は、ある時秋さんに尋ねたことがある。

「渉君は、大の大人がマシュマロを買うことが恥ずかしいと思ってるんだよ。他のおつまみは自分で買うんだけど、マシュマロだけはどうしてもね」

 面倒な人だよね、と秋さんは眉を寄せた。嬉しい時に見せる彼女の癖だった。




 私と二人でいる時は数学の話しかしない先輩だったが、秋さんが場にいる時には数学のすの字も出さなかった。それどころか、大学に関わる話すら頑なにしなかった。

 私たちの中でよく喋るのは先輩だけで、私と秋さんは半ばラジオでも聞くかのように先輩の話を聞いていた。秋さんがいる時の先輩は、アルバイトが面倒だ、昨日ニュースで観た事件がどうだと、とりとめのない話を延々と続けていた。先輩に数学以外の引き出しがあったのだな、と感心した覚えがある。その一方で、私は秋さんのことを好いてはいたが、秋さんがいなければな、と思ったりなどもした。

 いつものように三人で集まったある日、先輩に呼び出しがかかったことがあった。

「渡部さんからメールだ」先輩は顔をしかめていた。「ゼミの連中で飲んでるから来ないか、だって。断れないなあ、これは」

 その時既に二一時は回っていたので、私は「じゃあ僕もそろそろ」と部屋を出ようとした。秋さんもそうするものだと思って振り返ると、彼女は何食わぬ顔でグラスに酒を注ぎ足していた。

「私、もうちょっと飲みたい」

 秋さんがこういうことを言うのは珍しいことだった。私は面食らったが、先輩はそうではないようで、黙って頷いた。そして彼女を一人残して帰ろうと思っていた私に告げた。

「秋を送っていってくれ。鍵は渡しておくから、ポストに入れておいて」

 私がその場に残ったのは先輩に頼まれたからであったが、それだけではなく、先輩がいない時の秋さんというものに興味があったからでもある。

「秋さんは、明日お仕事なんですか?」

 私がそう尋ねると、そうだよ、と語尾を伸ばして彼女は答えた。

「明日は久しぶりの遅番だから、飲まないともったいないなって」

 秋さんはグラスを空けると、その空いたグラスにそろそろと水を注いだ。水が半分まで達すると、今度はウイスキーの瓶に手を伸ばし、グラスを傾けてまたそろそろと注いだ。茶色いウイスキーは水面を滑り、ぐるぐると小さなうねりを作って水の上に溜まった。秋さんはそれを持ち上げて口元を緩めた。

 一瞬前まで私と話していたはずなのに、彼女は完全に自分の世界に没頭してしまっているようだった。そして私もまた、彼女に見入ってしまっていた。

 秋さんは、水とウイスキーとの境目を横から覗いていた。それはとても不安定なものに見えたが、茶色い澱みはほとんど薄まることはなく、ゆらゆらと揺れるウイスキーを眺めながら、水も同じように揺らいでいるのだろうか、などと考えた。

 そっとグラスを傾けて、秋さんはそれに口を付けた。私は我に返って、「そういう飲み方があるんですね」と言った。秋さんがこういう飲み方をするのは初めて見た。

「うん。結構好きなんだ」

「単に水で割るのとはどう違うんですか?」

「最初はウイスキーのストレートなんだけど、だんだん混ざっていって、最後には完全に水になる。美味しいよ。やってあげよっか」

 生憎、私のグラスは空ではなかったのでその場は断った。秋さんは差し出した右手を引っ込めて、グラスの縁を撫でた。

「大学での渉君って、どんな感じなの?」

 私は答えかねて口ごもった。先輩がどういった人物なのか、掴めていると思えなかったからだ。

「僕からしたら、普段と変わっているようにも見えませんけど」

「本当に?」

「強いて言うなら、よく数学の話をするくらいですかね」

「やっぱり」

 彼女は背中を丸めて、深く息を吐いた。

「私に気を使いすぎなんだよ。渉君は」




 私の目から見ても、先輩が秋さんに気を使って話題を変えているのは明白だった。だが、それがどういった意味を持つのかはわからなかった。しかしよく考えてみると、先輩は私の前では数学以外の話をすることはなかったので、互いに共有できる話題のみを話す、というのが彼のモットーだったのかもしれない。秋さんが、先輩が自分に対して気を遣っているのではないかと勘付いたのも、秋さんと二人きりの時の先輩と、私と三人でいる時の先輩とが異なっていたからという可能性も十分にあるだろう。

 そう考えると、私は私以外の誰かといる時の先輩を拝むことはないということになる。それが何か、欠けたパズルのピースのように思えてしまった。揃わないことが問題なのではなく、そこに描かれている模様が知りたかった。

 先輩が途中退席した日以来、私は秋さんを度々飲みに誘うようになった。もちろん二人きりで、である。それは彼女を通して先輩を見ようという不純な動機からでもあったが、秋さんと二人で話すのが単に心地良かったのもあった。

 この申し出は簡単に受け入れられる類のものではないと思っていたが、私の予想に反して、秋さんはすんなりと誘いを受けた。そして私を自宅に招き、酒を口にしながらぼそぼそと喋り、また私がぼそぼそと喋るのに耳を傾けていた。

 秋さんはオートロックの小洒落たアパートの一室に住んでいた。片付いていて、とても物が少なく、先輩とは対照的な部屋だった。寝室には入ったことがないが、リビングには二人が座れるだけのソファと、クッションがいくつかと、小さなちゃぶ台と、テレビとゲーム機が置かれているだけで、埃の存在を感じさせなかった。また、決して広くはないキッチンには色々な道具が所狭しと置かれていたが、それはむしろ、この部屋が整理整頓されているという印象を強めていた。

 付き合っている男性がいる女性の部屋に入る、という行為は私にとっておおいに気が引けるものではあったが、これに関しては特に私から先輩に断りを入れるということはなかった。というのも、二人が付き合っているということを、私は二人から伝えられたことがなかったのだ。

 こう言ってしまうと、二人が付き合っているというのは私の思い込みのように聞こえてしまうかもしれないが、そうではない。実際、先輩を知る人々の間では、秋さんという名の綺麗な彼女がいる、というのはよく知られていたようだった。

 何故、二人が私にだけこの事実を伏せていたのかは定かではない。わざわざ言うほどのことではないと思った結果、図らずも隠しているような状態になってしまったのかもしれないし、何か理由があるのかもしれない。それは定かではないのだが、この現状は私にとって大変に都合の良いものだった。

 私は二人の関係を知らないふりをしながら、足繫く秋さんの部屋へと通った。とは言っても私がすることは喋って酒を飲むだけだったので、私にやましいところは何一つ無かったし、もし先輩に「明日、秋さんの部屋で二人で飲みます」と伝えたとしても止められることはなかっただろう。これは私の希望的観測ではなく、れっきとした根拠がある推測だ。根拠というのは、私と違って秋さんには先輩に報告しない理由がない、というものだ。つまり、秋さんから伝えられて、私が秋さんの部屋に通っていることを先輩は知っているはずなのだ。その上で止めてこないということは、私の行為自体に問題はないということの証左に違いない、と私は考えたのだ。

 何も問題がないのなら、先輩に伝えたっていいじゃないかとも考えたが、私の心のどこかがそれを拒んでいるようだった。




 秋さんと二人で会話するようになってわかったのは、秋さんもまた、先輩の前とそれ以外とで随分と様子が異なるということだった。

 とは言ってもそれは先輩とは違い、意図的なものではなかったかもしれない。先輩の前では私たちは聞き役に徹することが多かったが、二人でいるとなるとそうはいかなかったからだ。

 私たちの間にはあまりに共通項が無く、働いている書店で何が売れているだの、最近は誰の小説にハマっているだの、愛用していた化粧品が生産終了してしまっただのと、秋さんは自らのことをよく語っていた。反面、私の身の上にはあまり興味が無いようで、ウイスキーを飲み下し、その代わりに吐き出す息のついでに話しているようだった。なので私は、相槌のような独り言のようなものを返していた。偶に質問をすることもあった。

「お二人は、高校生の時からの付き合いなんですよね」

「そうだよ。一年生の時にクラスが同じになってね」

 秋さんに必要なのはきっかけとなる質問一つだけで、それさえあれば湧き水のようにとりとめのない話をしてみせた。無意識なのか、私が覚えていないと思っているのか、度々同じ話をすることがあったが、それも不思議と悪くなかった。

「私はどちらかと言うと文系でね。渉君は当時から数学が得意で。時々数学を教えてもらってたの。そうしたらね、ふふっ、私は授業についていくためだけに教えてもらってたのに、よく言ってたなあ。『ね、わかると結構面白いでしょ?』って」

「その口癖は昔からなのか」

「今もそうなのかあ」秋さんは目を細めた。「渉君らしいよね」

 先輩らしい、とは。私は少し考え込んでしまった。先輩は大柄で、花粉症で、数学が好きで。具体的な特徴はいくらでも思い出せるような気がしたが、それらを要約していくつかの単語に収められるとは思えなかった。また、私が見ている先輩と、秋さんが見ている先輩とでは、全く違う人物なのではないかという考えもあった。




 彼女から連絡があったのは、まさに秋さんのアパートに向かうべく自宅を出ようとしていた時だった。

 風邪をひいたようだが風邪にしては少しばかり熱が高すぎる、といった旨のメッセージは助けを求めるものではなかったが、全くもって文脈を無視したその報告はSOS以外の何でもないように思えた。

「すみません。彼女が熱を出してしまったようでして」

「それは心配だね。わかったよ。また今度ね」

 秋さんに断りを入れつつも、私が見舞いに行ったところで何をできるわけではないのにな、などと考えていたが、秋さんは私が見舞いに行くことに何も疑問を持っていないようで、何をできなくても行くべきなのかもしれないと妙に納得した。

 彼女の部屋の鍵は開いていたので、呼び鈴を鳴らさずに入った。彼女は大学生の女子には珍しく(とは言っても私も多くのサンプルを持っているわけではないので、あくまでも私が知る数人の中でのことである)、木造の古いアパートの二階に住んでいた。大家が住む三階を除くと六部屋しかないこぢんまりとしたアパートではあったが、数年前にリノベーションされたばかりという話で、内装は綺麗だったし家賃にしては部屋も広かった。駅からも大学からも少し離れていたため私は不便に感じていたが、スーパーや本屋や郵便局など、つまり彼女が近くにあって欲しいと思う施設は大抵近所にあった。

 寝室のカーテンは閉め切られており、部屋の中央のちゃぶ台のつけたままのノートパソコンの光だけが彼女を青白く照らしていた。その曇り空のような壁際のベッドに彼女は横たわっていた。

「河西。具合はどう」

 彼女は私が来たことに今気が付いたといった風に体を起こそうとした。私はそれを手で制して毛布を掛けなおした。

「食欲はある? 飯は食べた?」

 彼女は枕に擦るようにゆっくりと首を横に振った。それがあまりにも深刻そうだったので、なんだか自分が重病の宣告を受けたような気持ちになってしまった。私は重々しく頷いて、ベッドの脇に座った。

 彼女は顔をこちらに向けて目を閉じていた。髪の毛が口の方までかかっていた。よけてあげようかとも思ったが、彼女は発熱しているときに肌を触られるのを極端に嫌ったのでやめた。幼い頃から体が弱かった彼女は、よく熱を出す子供だったらしい。しかし他人より極端に平熱が低いので、余程のことがないと常人の平熱よりも少し高くなる程度にしかならない。額に手を当てられ、微熱だねと言い放たれる度に、幼い頃の彼女は絶望を味わったそうだ。絶望だなんて大仰な物言いだとは思ったが、私は口にはしなかった。彼女はまさにそういう人間を嫌っているのだから。

「今日、予定あったんじゃないの」

「いいや、特に無かったよ」

「そう。何か持ってきてたみたいだけど」

「ああ、うん。食べるかなと思ってゼリーとか買ってきたんだ」

「ありがとう。けど今は」

 彼女は目を閉じたまま首を横に振った。

「ああ、それじゃあ冷蔵庫に入れとく」

「うん。後でお金払うね」

「いいよ、そんなの」

 彼女は息をするだけで精いっぱいといったように見えた。

 彼女の名前は河西早智といった。幸とも聞こえるその名前を酷く嫌っていた。



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