第5話 海上から大陸へ

 朝霧立ち込める早朝の駅のホームは、まるで雲上の山頂のように時の流れが穏やかで、とても静かだ。利用客もまばらで、口を開く者は誰一人としていない。ある者は、売店で購入した今朝の朝刊を読み耽る。ある者は、咥えた煙草に魔法で火をつけて一服している。またある者は、冷える朝に温かな缶コーヒーを飲んでは、ほっと一息吐く。そんな風に、この駅にいる誰もが、まだ目覚め切らぬ街の静けさを大切にして、またしみじみと愉しんでいた。


 かく言う自分も、心地よい波の音に耳を傾けながら、海に浮かぶホームに設置されたヒーター付きのベンチに深く腰掛けて、コクリコクリと船を漕いでいた。細い視界に映る朝霧に覆われた幻想的な風景は、さながら眠らずに見れる夢のような美しい光景であった。


 けれど、駅は決して留まる場所ではなく、どこか別の場所へと立つための足である。


 霞がかった海上から、汽笛の音が微かに聞こえた。もうしばらくすれば、静かの海を回遊するギアフロータスを追うようにして走行してくる古めかしい機関車が姿を現すことだろう。


 自分は大きな欠伸をついた後、誰に言われるでもなく姿勢を正した。視界の端で待ち人の到着を見つけたからだ。


 改札を抜けた彼女が、こちらへと駆け寄ってくる足音が聞こえてくる。不要に急かすことがないように、自分はあらぬ方を向いて直前まで気付かぬ振りをしていた。


「アキラさん、お待たせしてしまいすみません!」

「いえ、自分が早く着いてただけのことですから。とりあえずまずは、おはようございますですね、コハクさん」

「はい。おはようございます。良い朝ですね」


革製の大きな旅行鞄をガラガラと引きながらやってきたコハクさんは、ベンチの空いているスペースを見つけると、わざわざ自分に一言断ってからお行儀良く腰掛ける。


「コハクさんは制服で来たんですね。寒くないんですか?」

「お仕事ですからね。わがままは言えません。それに、一応防寒対策はしているんですよ」


これから協会からの初仕事に向かう自分たちだが、近くに他の仲間たちの姿はない。


 それもそのはずで、彼らは昨日から現地入りしている。別件で予定が合わず同時の出立が困難だった自分たちは、他の仲間たちとは一日遅れでの現地合流を約束していた。


「そう言うアキラさんは私服なんですね」


もう時期に列車がホームへとやってくる。だから、席を立つ前に、今のうちにできるだけ温まっておこうとベンチに手の平を翳していると、隣でコハクさんが不安になるようなことを言ってきた。


「……あれ?私服でも構わないって聞いていたんですけど……。もしかして勘違いだったり?」

「……現地にも協会の支部はありますから。必要になったら、その時は手配しましょう」

「なるほど……。今後は気をつけます」

「そうして下さい。……でも、気持ちはわかりますよ。協会の制服は目立ちますし、お世辞にも着心地が良いとは言えませんからね」

「ですよね!」

「もう、開き直らないでください!」


コハクさんの冷ややかな視線に、自分は冗談だと苦笑して返す。根も歯もない噂など信じず、せめて保険として一着は荷物に入れておけばよかったと後悔した。


「ところで、アキラさんは荷物はどうなさったんですか?近くには見当たりませんが……」

「ああ、えっとですね。コハクさんは、協会に預かり所があるのは知ってますか?」

「はい。個人の魔杖の預け入れだけではなく、協会の保有する各種備品の貸し出しもしているとか」

「それですそれです。そこに頼むと、荷物を仕事先に送ってくれるみたいだったので、昨日の朝の内に預けておいたんですよ。協会に預けるなら安心ですし、魔杖も二本もあると嵩張りますし重いので、一緒に頼んじゃいました」

「アキラさんは用意はいいのに、ちょっと抜けているところがありますよね」

「これでも、用意周到な準備を心がけてはいるんですよ?ただ、想定する全てに対処するためには、普通の鞄では小さすぎますよね」


魔法の中には、空間を捻じ曲げる類のものがある。これを利用した製品は多岐に渡り、魔者の世界には広く普及していた。


 実際、魔者の多くは、際限なく物を収納できる魔法の鞄を重用しているし、土地に限りのあるギアフロータスでは、建造物の内部も同様に魔法で拡張されていることも少なくない。


 しかし、エーテル、もとい魔力が使えない自分にはただの鞄でしかない。それに、例え神様の力を借りて一時的に魔力を注いだところで、すぐに魔力切れを起こして収納物が虚無に消えてしまうに違いなかった。


「本当にアキラさんは魔法を使いたがらないですよね」

「仕事で必要になった時はちゃんと使いますよ。ただ、普段の生活から多用するつもりはありませんね」


コハクさんが心配になるのは仕方のないことだが、自分にとっての魔力の代替品は人格を構成する記憶であり、また生命力だ。無駄遣いは極力避けなければならない。


 加えて、今は手元に幻月がない。神様がいない現状では、自分は魔法が苦手な魔者のフリさえ叶わないのだ。


「魔法は空間にある魔力を介して行使しますが、下手をすれば自分の命を削る事故にも繋がりかねません。お仕事も大事ですが、決して無理はしないでくださいね。ご自身の命よりも大切な物はないですから」

「それを言うなら、コハクさんもですよ」

「半端者の私が言うのでは、説得力がないでしょうか……?」

「そうですね。そんなところです」


先もコハクさんが言った通り、魔法とは、魔者が空間に満ちたエーテルと呼ばれる魔力を介して発動する局所的現実改変現象だ。思い描いたイメージや心模様、感情と言った要素に呼応して、エーテルは魔法使用者の願い通りに天地万象の振る舞いをして見せる。極論、魔法とはエーテルによる夢の具現化なのだ。


 だから、魔法には基本的に不可能はない。いくら突拍子もない絵空事であろうとも、想像さえ叶えば、エーテルはその景色を実現してくれることだろう。


 しかし、魔法を扱うに当たって注意せねばならない点は少なくない。その中の一つが、魔力不足による魂の塑性変成だ。


 今、目の前に空のグラスが置いてあるとしよう。そのグラスの中を水で満たしたいと望むのなら、それが叶うだけのエーテル、もとい魔力が必要になる。余程の大それた望みを抱かぬ限りは空間にある魔力で事足りるし、逆に言えばエーテルさえあれば海を干上がらせることだって理論的には可能だ。それを実現するイメージを揺るぎなく信じて強く想像し続けることが叶えばの話ではあるのだが。ともかく、魔力さえあれば魔法は使えるし、例え足りなくとも、基本的には魔法が不発に終わるだけである。何も難しいことはない。子供でも、大人に教わればその日のうちに使えるようになる類の至極簡単な技術だと聞いている。


 しかし、魔力不足であるにも関わらず、無理に魔法を発動させようとすれば話は別だ。叶わない夢だと言うのに、それでも絶対に叶えたい魔法なのだと頑なに願い続ける魔者は、不足分の魔力を補うために、ある者は体の一部を、ある者は生命力を、そしてある者は神から授かった”才能”さえも意図して破壊してしまう。そして、犠牲としたものを魔力へと変換して、何としても魔法を実現させようとした者の成れ果てが半端者なのだ。


「不幸な遺伝でもない限りは、自身の在り方を崩壊させてまで力を欲したからこそ、魔者は半端者に成ってしまうんです。とするとですよ?半端者はいざという時に、自身の命を問題解決の手段として迷わず切れてしまうと、そう言う解釈もできますよね?何せ、前科持ちなんですから」

「普段は半端者に優しく接してくれるのに、こう言う時は厳しいんですね……」

「そんなんじゃないですよ。……ただ、他人の夢が壊れる瞬間を二度と見たくないだけです」

「……アキラさんが魔法を使わない理由、少しだけ分かった気がします」


魔法は決して万能ではなく、むしろ、悪魔じみた理不尽な力だ。世界は人の夢の形を曲解し、時に望みとは真逆の祝福を贈られることもある。


 今思えば、自分やクロが月へと飛ばされたのも、ガウルさんの”呑み込み消し去る”才能が悪さを働いたからなのだろう。脱獄を達成するために追跡者の目から逃れたいという願いが、一体どうして遥か彼方の別の星に飛ばされるという結果に繋がるのか、全くもって想像もつかない。彼らの話の中に糸口があったようにも思うが、数年前の記憶を掘り起こすことは自分には困難だった。


 とにかく、常に裏切られる危険性を孕んでいる魔法と言うものを、自分はどうも信用ができないでいた。


 だから、一度は魔法を切り札としたことのある仲間たちが、自身の力不足で、次も自ら進んで命を燃料として焚べてはしまわないかと不安でならない。


「……コハクさんには、もう現実を否定するほどの強い絶望を抱いては欲しくありません。自分の我儘ですが、心配をするくらいは許してくれると嬉しいです」


 彼女らが魔法を使う度に、自分の無力を恨まずにはいられない。


 白の命を奪い、クロの夢を奪い、また数多くの大切な者たちをここ数年で力至らず失った自分は、けれど、今は魔法や剣技を身につけて少しは強くなったつもりだ。


 それでも、他人の心を安心させられるほどの大きな力ではない。まして、世界に捨てられ、自らの中に救いを求めた半端者たちの孤独と絶望の闇を前にすれば、自分の小手先の力など吹けば飛ぶような粗末な代物である。


 だから、コハクさんに疎まれるとしても、自分はただ願うしかない。彼女から信用を得て頼られる存在になる。そのためには、空っぽな自分は虚勢を張る他に手段がなかった。


 けれど、コハクさんは半端者である前に、ひどく真面目な人だ。何か問題を抱えていても、自分には話してはくれないだろう。


 故に、やはり自分は、彼女たちに優しくし続けるしかなかった。


「人は困った時、助け合って問題を解決するものですが、こと魔法に限って言えば、干渉のせいでそれが叶いませんよね。だから、窮地には必ず誰かが無理をしなければならなくなる。そして、それは魔導師の役割でもあります」

「必要に駆られなければ、過去の愚行を繰り返すつもりはありません。……と言っても、きっと信じてはもらえないのでしょうね」

「まぁ、今はその言葉を聞けただけで良しとしましょう」

「……アキラさんは本当に半端者に優しくしてくださいますね。私が他人のために魔法を使おうとして怒られる時がくるなんて、以前までは想像もできませんでした」

「あれです。コハクさんに良いところを全部持ってかれるのが気に入らないだけです」

「ふふっ。今日のところは、そう言うことにしておきますね」


丁度区切りの良いところで、ホームに列車が波を立てながら入ってきた。自分たちは顔を見合わせ一つ頷くと、揺れる足場を踏み外さないように慎重に乗り口へと向かう。


「ラヴァモォール王国行き。この列車ですね」

「ギアフロータスとは、しばらくのお別れですか」

「今の時期なら、王国まで片道半日で行くそうです。用事があれば帰ってこれますよ」

「それもそうですね」


進行方向前方の列車に乗り込むと、朝の薄闇を晴らすように眠る街に甲高い汽笛が鳴り響いた。それと時を同じくして、世界が目を覚まし、辺りに光が満ちていく。


 目的地に向けて列車が発車してから、自分たちはどちらともなく窓を上げた。


「綺麗ですね」

「たまになら、外に出るのも良いかもです」

「はい」


起き抜けの陽光を燦々と浴びて輝く海上の機械街を、自分たちは別れを惜しむようにして静かに眺める。街の中からでは見られないギアフロータスの美しい姿に、しばしの間言葉なく見惚れていた。

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