見知らぬ感情

 夢中で食べているうちに体も心もだんだん緩んでいく。すると温かく美味しい手料理が、見えないふりをしていた心の底にこびり付いていた何かを溶かし、堰き止めていた物を破壊し、ダムを決壊させる。



 泣いていたのだ。



 一度涙が溢れてしまうと自分では止めることが出来なくなり、言葉にならない叫びをあげ、ぐちゃぐちゃの感情が思考も奪う。内なる喚きも嘆きも具体的な形にすることが出来ず、抽象的な何かとなっては崩れていく。何をしたいのか、何を言いたいのか、何で泣いているのか、分からない。

 大の大人が見苦しく泣く様に、他の人も気付いて近寄ってくる。何か言っている気もするが、聞こえない。聞きたくない。



 止めてくれ、見ないでくれ、放っておいてくれ。



 急に視界が何かに覆われ、次いで温かい何かに包まれた。何が起こったのか分からず、一瞬涙が止まる。

 しかしあのスープのようなスパイシーで甘く爽やかな香りが鼻腔を満たし、心が安らぐ。初めて嗅ぐ匂いのはずなのに、何故か頭に母親の顔が思い浮かんだ。


 そのまま母親に甘えるように泣きじゃくっていた。

 誰かが子供を宥めるかのように、背中を優しくぽんぽん叩く。ゆっくり、愛しむようなリズムが、落ち着いて、怖くないよ、大丈夫、と穏やかに話しかけてくる。少しずつ、少しずつ、心が鎮まり乱れていた呼吸も整ってくる。そこで我に帰る。



 耳に伝わる心臓の音、閉じ込めるように左右から伸びた腕、頭をくすぐる鼻息。おまけに顔を覆う柔らかく温かいもの。



 咄嗟に察して、慌てて体を離そうともがいた。それに気がついたのか、俺を抱きしめていた人が腕を解放する。急に解放されたため、俺は後ろにのけ反り壁に頭をぶつけてしまった。


 痛さと恥ずかしさで赤面し、頭をさすりながら真正面をみると、そこには少し慌てた様子のガネットがいた。

 目つきが悪く鋭い眼光を放っていた昼と違い、優しい光を帯びた黄金色の瞳は絵画の中の聖女のようで、しかし俺と目が合いはにかむ彼女は無邪気な少女のようで。


 どこかミステリアスな雰囲気を醸し出していた彼女の、不意に見せたアンバランスな魅力に、俺は内心どぎまぎしていた。

 しかし思いっきり泣いたせいだろうか、気分は軽やかになっていた。


 彼女は何も言わず軽い欠伸を一つ。こちらの様子を気にすることなく、また小屋を出てどこかに消えてしまう。俺は集まってきた人たちに大丈夫とか何とか言っていた。


 くるくると表情を変えながら心配しているカトと、それに負けないぐらい狼狽えている屈強な体格のカイヤがおかしくて、申し訳ないと思いつつも吹き出してしまう。

 それを見て二人は安堵の表情を見せた。さらにまだ戸惑いつつも、俺に気遣い色々と尋ねてくる。


 この人は人望があるんだな。部屋に引きこもり、誰からも必要とされずに生きてきた自分と違って。



 ゆらり



 心の奥で小さな炎が上がる。

 その名前を、俺はまだ知らない。

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