ドッペル症候群

蛙鳴未明

ドッペル症候群

 朝目覚めると、私は別人になっていた。鏡を覗いてため息を吐く。


「またか……」


 アラームが会社に行くべきだとまくしたてる。私はこれまでの十数回と同じくそれを無視して布団に倒れこんだ。もう何日続いているのだろう。昨日まで私は銀行にでもいそうな堅物のサラリーマンだった。一昨日はアパレル勤務らしき若者。私に戻れたと思ったら、次の日の朝にはもう別人になっている。もはや自分の顔も忘れてしまいそうだ。いっそこのままでいたいとも思うのだが、長く別人でいるとどうも体がむずむずして落ち着かなくなる。


 私は大きな息を吐いて起き上がった。体の力を抜き、リラックス。すると勝手に体が動き出す。布団をぴっちりと奇麗にたたみ、顔を洗ってひげを剃る。はじめは体が勝手に動くのが気持ち悪くて仕方がなかったが、今はもう慣れてしまって、ああこの人は几帳面な人なんだななどと考える余裕すらある。


 私はクローゼットの前に立つ。中は、これまでこれまで「誰か」が身に着けていたものでいっぱいだ。私のものはもう見当たらない。きっと奥深くに埋もれてしまっているのだろう。そうこう考えているうちに、私の体が私をどこかの誰かに仕立て上げていく。最後に鏡を見れば、もうそこにいるのは自信満々の若手起業家……といった感じ。髪の毛をちょっと整え、私は外に出る。「私」を見つけ出し、私に戻るために。


 この現象が始まって間もない頃私は本能的に、「私」を探せば元に戻れるということは分かっていたが、どうやって見つければいいのか分からず、ひたすらに「私」がいそうなところをしらみつぶしに探し回っていた。


 おかげで「私」を見つけるのに数日かかるのが常だったが、今は違う。ただ、身を「私」に委ねればいいのだ。そうすれば「私」は勝手に「誰か」が行きそうなところに行ってくれるし、「誰か」がやってくれそうなことをやってくれる。そうすればおのずと「誰か」のところにたどり着ける。それに気づいて以来どんどん「私」を見つけるまでが早くなり、近頃では数時間もかからず見つけ出せることも多かった。


 そうして私はおしゃれなカフェに入り、どこかに電話をかけ、電車に乗ってどこかへ向かう。するとどうだ。駅から出てすぐのところに、いかにも自信満々な若手起業家らしき男が立っていた。この人だ、と本能が告げ、私はすたすたと彼に近付いて声をかけた。


「こんにちは」


 男がひょいと私に振り向く。一瞬のうちにその顔が困惑から恐怖へと移り変わり、彼は数歩後退った。信じられないといった顔で私のつま先から頭のてっぺんまでをなめまわすように見て、わなわなと震える指を私に向ける。


「あ、あんた、誰だよ」


「私はあなたです」


 男の口の端がひくひく動いた。


「冗談だろ……?」


「冗談でないのはあなたもよくご存じだと思いますが?」


 男の顔が絶望に染まった。顔を押さえ、ふらりと踵を返してよたよたと去っていく。やり遂げた、という思いが爽快に私を浸した。こうして「私」に会ってからしばらくすると私は私に戻っている。たいていはその日の内に。私は晴れ晴れとした気分で帰途についた。



 次の日の朝目覚めると、私は誰にもなっていなかった。鏡を見ると、すっかり見慣れなくなってしまった私の顔がそこにある。私は信じられなくて、思わず私の頬を撫でた。終わったのだ、やっと。涙がにじむ。アラームが鳴った。そうだ、やっと会社に行ける。私に戻れる!ずいぶん長いこと欠勤してしまったが、まだ私の席はあるだろうか。うきうきしながらクローゼットを開けて、私はふと手を止めた。


 私は、どんな格好をしていたっけ


 目の前にあるのは着慣れない見慣れた衣服のみ。私は焦燥に急かされ、服の山に手を突っ込んだ。出てきたのは派手なTシャツ。違う。Tシャツを放り投げ、また山に手を突っ込み、引っ張り出されたのは牛皮のベルト。違う!ジーンズハンドバッグワイシャツテンガロンハットサングラスセカンドバッグハイヒール――


「違う違う違う違う!」


 山をかき分け、かき分け私を探す。気づけば、私は華奢なポーチを片手に持ち荒々しく息をして、まっさらな床を見つめていた。


「無い……」


 汗が頬を伝う。


「無い……?」


 息が苦しい。胸が痛い。


「無い……!」


 ポーチを投げ捨て私は床に飛び掛かった。頭を打ち付け必死に床をまさぐる。


「無い無い無い無い!」


 ……


「な、い……」


 床に手をつき、うなだれた。めまいと動悸でくらくらする。ふとドアに目をやった。


「私は……私はどこに……」


 ふらりと立ち上がり、よたよたとドアを押し開けた。いつもと変わらない風景。どこかおかしい風景。よろよろと外廊下を進み、階段のところではたと立ち止まった。階段の下、誰かいる。目を凝らす。目が合った。


「ああ……」


 私もあんな顔をしていたのだろうか。私の心が絶望で満たされる。だが私は笑みを浮かべた。


 ああ、私は、私は今日――

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