敏腕マネージャーの華麗なる手腕

@redbluegreen

第1話


 マネージャー系ヤンデレ




 1 一番目は…?




「これからもーっともーっと、いっぱいいっぱい練習して、絶対ぜーったい、甲子園に行く! そしたらお前も、一緒に甲子園につれてってやるよ」

 あの時俺が言った台詞を、彼女は覚えているのだろうか。






 キーンコーン、カーンコーン。

 ダンッ!

 終業のチャイムが鳴ると同時に、俺は教室を飛び出した。

「さて、部活だ部活!」

 はやる足でいざ部室へと向かわんとした直後、「待ってください」と腕を掴まれた俺は急ブレーキを強いられた。

「……って、なんだお前かよ」

 掴んできた人物を視界に捉え、俺は愚痴るように零す。こっちは一刻も早く部室に行きたいというのに。

「廊下を走ると危ないですよ」

 と、そう注意してきたのはうちの野球部のマネージャー。俺と同じクラスなので、俺に続いて教室を飛び出してきたようだ。

「わかってるって。誰にもぶつからなきゃいいんだろ?」

「そう言って以前、階段で転げ落ちたのは誰なんですか」

 マネージャーは嘆息しながらそう台詞を吐きつつ、その手はいまだ俺の腕を掴んだままだった。どうやらこちらの腕を離す意思はなさそうだ。手が離れた途端、飛び出そうと思っていた思惑は諦めざるを得ないらしい。

 仕方なく俺は掴まれた腕のまま歩き出す。だが、スピードは早歩きで。

「……………」

 なおも何か言いたげのマネージャーだったが、その口は開く事なく、トコトコと俺の隣を歩き出す。

「………もうすぐ最後の大会ですね」

 マネージャーが腕をしっかり掴んだまま、そんな話題を飛ばしてきた。

「ああ、そうだな。この三年間の集大成を見せる時が、ようやくやってきたぜ」

 その為の三年間、いや、小学校から数えれば、九年間の練習の成果がそこで現れる。

 俺にとって最後の大会。

「今年こそは、絶対に、甲子園の土を踏んでやる」

 それが俺の目標。

 長年願い続けてきた俺の願望であり希望であり夢である。

 絶対に絶対に行ってやる。

「だから今日も張り切って練習やらないとな!」

「………だからって走ろうとしないでください」

 別にグラウンドが逃げるわけではないんですから。

 はやる気持ちが押さえられない俺をそうたしなめるマネージャー。

「へいへーい」

 適当に返事し、さっきよりちょっとだけ歩く速度を上げた。




 ―――俺とこのマネージャーの出会いは、小学校時代にまでさかのぼる。

 その時俺は近所の少年野球のチームに所属していた。

 毎週週末に練習に汗を流す最中、彼女がチームへとやってきた。

「………よろしくお願いします」

 近所に引っ越してきた彼女は、家から近いこの野球チームに入ってきたという事らしかった。

 その顔を見ても、さほどパッとしない第一印象だったのを覚えている。まあその時の俺にとっては、野球以外の事に関してはあまり関心がなかったのだが。

 そう、野球以外の事に関して、である。

 彼女の紹介も終えいつものように練習が始まった直後、すぐにその第一印象は塗り変わる事となった。

「す、すげぇ………」

 感嘆の声が無意識の内に零れていた。

 彼女は野球センス抜群のプレイを見せていた。

 バシッ!

 ノックをすればどんなに難しい球だろうと鮮やかにキャッチし。

 カーン!

 バッティングをすれば全球軽々と外野まで運んでいき。

 タッタッタッタッ!

 塁を走れば誰にも追いつけないスピードでベースの間を駆け回っていた。

 当然俺よりも上手い人はチームの中に何人もいたのだが、彼女はその誰よりも上手く、そのレベルは一桁も二桁も段違いのそれだった。

「なあなあ、お前ってすげーな!」

 その日の練習が終わった直後、タオルで汗を拭う時間も惜しく、彼女に近付き声をかけていた。

「どんな練習したらそんな風に上手くできるんだよ? ねえねえ、今度俺にも教えて教えて!」

 彼女が何を言うよりも早く、まくし立てる俺。

 そんな俺を見て、彼女はぱちくりと瞬きを繰り返す。変な生物でも目撃したかのようなその表情。

「ん? どうかした?」

 問いかけつつUFOでも飛んでいたのかと周囲を見渡したが、それらしい姿はなかった。

 彼女は「いえ」と首を振って否定の動作をし、言葉をつなげる。

「女子の私に普通に話しかけてくるので、ちょっとびっくりして………」

 もごもごと少し言いにくそうに視線を脇に送る彼女。

「んー? 普通って、そりゃ普通でしょ。だって今日からチームメイトじゃん。つまり、仲間って事じゃん」

「仲間………そうですね」

 こちらとしてはごくごく当たり前の事を言ったつもりだったのだが、なぜか彼女はかみ締めるように復唱する。

 やがて視線を元に戻すと、彼女はこちらに向き直って居住まいを正してから、改まった口調で言葉をつむいだ。

「今日からよろしくお願いしますね」

「うん、こちらこそよろしくー」

 彼女から差し出された手を、俺はしっかりと握り返した。




「野球やってた頃のお前って、すっげー上手かったよな………」

「なんですか? 突然?」

「いや、ちょっと昔の事思い出して、さ」

 当時の光景を振り返りながらしみじみと感傷に浸った。

 その頃のマネージャーは超が付くほど野球センスが抜群であった。

 チームになじんでから他の上級生を差し置いてすぐにレギュラーへと昇格。その後のほぼ全ての試合に彼女が出場し、彼女が出た上で負けた事はほとんどなかった。

 投げて、打って、取って、走って。

 そのどれもが素晴らしいの一言に尽きるプレイを魅せ、チームを勝利へと導く。

 まさに勝利の女神というべき存在。

 もし仮に彼女が今も試合に出場する事ができたなら………という想像をしないほうが無理なくらい、俺の記憶の中で彼女は光り輝いた存在だった。

「なあ、お前ってさあ………」

「あ、センパイ!」

 彼女に話しかける声に重なり、弾んだ台詞が前方より投げかけられた。

 声の方を見てみると、そこに立っていたのは一人の後輩。確か、よく練習を見に来ている子で、チア部だった様な気がする。

 チア部の後輩はこちらの姿を認めると顔を輝かせ、ひときわ元気な声を上げる。

「確かもうすぐ大会でしたよね? 頑張ってください! 応援してますから!」

 けなげな声援に胸に沸き起こるものがあり、それに応えようと口を開きかけた瞬間、体が力強く引っ張られてしまう。

「って、おいおい。ちょちょちょちょ………」

 スタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタ。

 ずんずんと後輩から離れていき、次第に距離が開いて遠ざかってしまい、声をかけるタイミングを失ってしまう。

「………って、どうしたんだよ?」

 しばらく歩いた所でようやくスピードが元に戻され、俺を引っ張っていた人物、もとい俺の腕を掴んでいたマネージャーに疑問の声を上げた。

 彼女はこちらを振り向くと、居竦むような、どこか鋭利的な視線の下、台詞を発する。

「大事な大事な大会前なんですから、余計な些事に関わってる暇なんてありませんよ。今年こそは甲子園に行くんでしょう? なら、あなたは甲子園に行く事だけを考えていればいいんです。そのこと以外は余計な事。違いますか?」

「お、おう。そうだな」

 有無を言わせぬ彼女の迫力ある口調に素直に頷く俺。

 確かに彼女の言うとおりだ。

 応援してくれるのはありがたいにせよ、しかしあくまで応援は応援にすぎない。実際に試合に出場するのは部員達で、勝ち負けに関わるのも俺達だ。

「わかったようでなによりです」

 こちらの答えに彼女は満足そうに一瞬目を瞑ると、さっきまでの表情を崩して柔らかなものに移し変える。

 俺はそんな彼女を見て、マネージャーも大変なだなあ………、としみじみ思い、気を取り直して部室へと向かう。

 スタスタ。

 早歩きで歩く最中、俺は先ほど口にしかけた問いを思い出し、今度こそ彼女にぶつける。

「お前ってさあ、どうしてこの学校を選んだんだよ?」

 改めすぎて今更過ぎる問い。今まで気にしてこなかったが、過去を振り返ると疑問が沸き起こってきた。

「昔あんだけ野球上手かったんだから、女子野球部のあるとこの学校とか、そういうとこ行くこともできたんじゃねーの?」

 あるいは、純粋に野球の強い学校など、いくらでも選択肢があろうものだが、どうして、なぜ、この学校を選んだのか?

 彼女はこちらの疑問に、どうしてそんな当たり前の事を聞くのか、という風に不思議そうに首をかしげ、平然と答えを口にする。

「どうしてこの学校以外に私が行かなければならないんですか? 私には、この学校以外の選択肢なんて、はなからありませんよ」

 まじまじと俺の方を見つめながら、断言する彼女。

「はー、そうなんだ………」

 いまいち答えに納得がいかず、ぼやいた口調の返事がでる。

「そんなにこの学校が、ねえ……」

「ええ、そうですよ」

 懐疑的なこちらの台詞に、ひどく満足げな言葉の彼女。

 この学校の一体どこがよかったのだろうか。

 いたってごくごく普通の、何のとりえも実績もないありふれた公立校。女子野球部もないし、男子の野球部も強くはないこの学校。

 俺としては目指していた野球の強豪校に試験で落ちてしまったから仕方なくこの学校を選んだというに、そんなこの学校にどこに魅力があるというのか。

「……………」

 首をひねって考えても、その答えは浮かんできそうにはなかった。

 ま、いっか。

 俺は考えるのをそうそうに諦める。

 もとより頭を使うのは得意ではない。

 頭よりも体を動かす方が得意である。

 俺は頭を切り替え、頭から体に切り替え、とにかく練習だ練習だと、部室へと急ぐのだった。

 もちろん、彼女に引っ付かれたまま、二人で。

 マネージャーなんだし、行くとこは同じなんだから、そうするのが普通だよな。

「ええ、普通です」

 と、マネージャーは俺の腕を掴んだまま、そう言った。






 俺はボールを掴んだ手を大きく振りかぶり、全身の全体重を前足に乗せて踏み込んで、勢いよくボールを前に押し出す。

 放たれたボールはグラウンドの土の上をまっすぐ回転しながら進んでいくと、吸い込まれるようにしてキャッチャーの持つグローブへと吸い込まれて行った。

 バシッ。

 響きのいい皮と皮の音が生じる。

「ナイスボー………」

 それから、キャッチャーを務めている後輩から、小さいながら調子の良さの知らせが届いた。

「よーし、じゃあそろそろちょっと休憩にすっか」

 額の汗を拭いながら、俺はキャッチャーを務めてくれた後輩にそう告げた。

 何十球とボールを投げ込んで、肩が熱くなってきている。

 もっともっと投げ込んでいたいと俺の右腕が告げているものの、オーバーワークで肩を壊したら元も子もないと言い聞かせ、休憩へと入る。

「………ウス」

 後輩は手のグローブと顔のミット両方をとると、それを脇に抱えてその場を後にする。おそらくドリンクでも飲みに行ったのだろう。

 じゃあ俺もドリンクを………

「はい、どうぞ」

「お、サンキュー」

 ちょうどタイミングよく現れたマネージャーからドリンクを受け取り、渇いたのどを思う存分潤す。

 ゴクゴクゴクゴク。

「………はー。うっまいんだよな、これが」

「よくもまあ、それほど美味しそうに飲めますね」

 少々呆れ顔を見せるマネージャー。

「いやだって、本当の本当にうまいんだって」

 運動後のドリンクがこの世で一番うまい。というのが俺の持論である。

 ちなみに二番目は、練習でくたくたに疲れた後にかき込む丼飯。異議は絶対に認めない。

「てかこれ、味的に売ってる奴じゃないよな。もしかしなくてもお前の手作りとか?」

「気付かずに美味しいって言って飲んでたんですか………」

 やれやれとマネージャーを肩をすくめる。

「さっすがマネージャーじゃん。気が利くねえ」

「マネージャーなので当然ですよ」

 こちらの褒め言葉に対し、さもありなんという雰囲気でさらりと受け流される。

「それより、汗かいたままじゃないですか。そのままにしておくと風邪引きますよ」

 とそう言って、手に持ったタオルで俺の体を拭いてくれるマネージャー。

「おっ、悪い悪い」

 されるがままになっていると、てきぱきと素肌に浮いていた汗がタオルに吸収されていった。

 まったくマネージャー冥利に尽きるというものである。

 ………しかし、昔は確か、こんな奴じゃなかったような気がするんだよなあ。




 ―――小学校時代の俺は、それはもう野球が好きで好きで好きで好きでたまらなかった。

 週末にあるチームの練習は、昼から夕方までぶっ続けて行って、きつい事はきつかったものの、しかしそれが嫌だと思った事は一度としてなかった。

「あー、今日も疲れた疲れたー………」

 と、練習後に疲労困憊の口調でぼやきつつも、その日の練習で自分がレベルアップしたのだと思うと達成感で胸が一杯になっていたものだ。

「あー。やっば、タオル忘れたー」

 練習の賜物である汗を拭くべく鞄をごそごそしたもののそれが見つからず、嘆く声を上げるその日の俺。

「どうしたんですか?」

 俺の声に反応した彼女が何事かと近付いてきて尋ねてきた。

「いやー、ちょっとタオル忘れちゃってさー」

「そうなんですか………あ、じゃあよかったら、」

 これ使いますか? という言葉と共に、彼女は肩にかけていたタオルをずいと差し出してきた。

「え、いいの? サンキュー」

 俺は何の躊躇いもなくそれを受け取って、自分の汗を拭いた。

 ゴシゴシ、ゴシゴシ。

「……………あ」

 しばらく何の気なしに拭いていると、唐突に彼女が声を上げる。

 そちらに視線を送ると、なぜか彼女は恥ずかしそうに俺の方へと視線を送っていた。ゴシゴシと彼女が使っていたタオルで汗を拭く俺の方へと。

「や、やっぱり返してください」

「………あー」

 こちらの返事も待たず、ひったくるようにしてタオルが奪われる。

 俺は首をかしげつつも、元々は彼女のものであるので仕方ないかと特に言及することはなかった。

 それから俺は鞄からドリンクを取り出した。こちらの方は忘れてはいなかった。

 ポン、と景気のいい音を出しつつフタを開け、ゴクゴクと中身を流し込んでいく。

「………はー、うっまー」

 昔も今と同じようにそう言ってた俺。

「うまいうまい、本当にうまーい!」

 たかがドリンク一つで一喜一憂している俺。

 しかし、本当にうまいものはうまいものなのである。

「……………」

 と、そんな俺の隣で、彼女がこちらを見ている事に気が付く。やたらに大きな声を上げていたので、気になったのだろうと思われた。

 その視線の意味を手の中のドリンクだろうと解釈した俺は「あ、そーだ」良案を思いつき、熟慮せずに彼女に提案した。

「これ、飲んでいいよ。すっごいうまいからさ。さっきのタオルのお礼」

「え」

 こちらの提案になぜか体を強張らせる彼女。

 なぜそんな反応をしたのかわからなかった俺だが、しかしうまいものを断るはずがないと「ほらほら」と半ば押し付けるようにしてドリンクを彼女に渡した。

 しかし彼女はすぐには飲まず、困ったようにドリンクと俺の方に交互に視線を右往左往させる。

 しばらくそうしていた彼女だったが、意を決したように目を見開くと、そのドリンクをがぶがぶ飲んでいった。かなりの勢いであり、あっという間に中身が空になった。

「………どう、うまかったでしょ?」

「えーと、まあ………そうですね」

 なぜか彼女は困った表情を浮かべながら、そう言ったのだった。




「………はい。だいたい拭き終わりましたよ」

「ん。サンキュー」

「いえいえ。これもマネージャーの務めですから」

 真面目腐った表情でそう言うと、マネージャーはタオル片手にその場を離れた。

 彼女はマネージャーとしてチームに貢献してくれている。

 こういったドリンクの用意はもちろん練習器具の準備や片付け、練習メニューの管理など、こちらが練習のみに集中できるのは彼女のおかげだと言っても過言ではない。

 昔は彼女も俺と同じように野球浸けの日々だったというのに、どういう風の吹き回しなのだろうか。一種のミステリーである。

 などとつらつらと考えていたその時、

「やあやあやあやあ、久しぶりじゃないかね。元気してたかい?」

 バンッ!

 快活な猫撫で声と共に俺の背中が勢いよく叩かれる。唐突な人物の登場に一瞬身が縮こまるが、振り返ってその人物が誰なのかわかると同時に緊張も解けた。

「あっ、先輩じゃないっすか。っちーす」

「いやいや。もうこの学校卒業してるんだから、先輩じゃないでしょーが。このこの」

 そう言って俺の頭を腕の中に抱えると、グリグリと拳を頭部に押し付けられる。

 俺の一つ上で、もう卒業した先輩。

 去年まで野球部のマネージャーをしており、その最後の大会が終わるまでは大変お世話になった人である。俺にとっては頭の上がらない人物だ。

「………ところでどうなんだい? 今年のチームの調子は?」

 ようやく頭が解放され、物理的に頭を上げたところで先輩が尋ねた。

「そりゃもう、絶好調っすよ。もう、今年こそは絶対甲子園に行ってやりますから。ええ、絶対」

「にゃはははー、そりゃあ結構結構。もし万が一出場となればこの学校初の偉業になるだろうねー。せいぜい頑張ってくれたまえ。あ、もし本当にそんな事になったら、私のおかげで甲子園に来ましたー、ってインタビューか何かでちゃんと言っとくんだよ?」

「もちろん。ちゃんと言っておきますから」

「うむ。よろしい。よきにはからえー」

 先輩は手を俺の頭の上に置き、そっと撫でてくる。

「ところで、今日は一体………」

 と、俺が来訪の理由を聞こうとした瞬間、割って入ってくる声が挟まれる。

「………部外者が勝手に入らないでもらえますか?」

 抑揚の抑えた低いその声。

 その声の主は、いつの間にか姿を現していた現野球部のマネージャーだった。

「やあやあ。久しぶりだというのに、開口一番辛辣で相変わらずだねえ」

 はっはっは。

 元気の良い声で笑い飛ばす先輩。

「ですから、部外者は………」

「まあまあまあまあ。去年まで野球部だったよしみという事でここは一つ。君もそう思わないかい?」

「えっ。あー、まあ、そうなんじゃないっすかね………」

 突然話をふられ言葉があいまいなものとなる。

 だが、現マネージャーは頑として譲る事なく、

「いいえ、例外があってはなりません。そもそも、もうこの学校の生徒ですらないんですから、不法侵入の案件ですら………」

「にゃー………。相変わらず頭のかったいのもご健在で。彼がいる前だとなおさら、ね………はいはい。わーかりましたよーっと。しがないOBはおとなしく去りますよっと。あ、でもこれだけは………」

 先輩は去り際、持っていた紙袋をこちらへと差し出した。俺はそれを受け取る。

「もうすぐ大会だからね。差し入れだよん。練習後にでも野球部の面々で食べるといいよ」

 じゃ、頑張りたまえー。

 と、最後にそう言い残すと、先輩はその場を後にした。

 その姿が見えなくなるまで見送ってから、俺は紙袋の中身をのぞく。

「おっ、おにぎりじゃん!」

 思わずテンションの高い声が口から漏れた。

 先輩の作るおにぎり。去年までは毎日のように食べていたそれ。当時の味が蘇ってきて知らず知らずの内につばを飲み込む。

 とりあえず一個味見しても………と、中身に手を伸ばそうとした矢先、「ダメですよ」「あ」紙袋が俺の手から離れてしまった。

 ドンッ。バサッ。コロコロコロコロ………

「って、あーあー………」

 しかも更に運の悪い事に、勢いよくマネージャーが引っ張ったせいか、紙袋は地面に落ち横に倒れ、袋から中身が全てばら撒かれてしまった。

 無残に地面に広がるおにぎりの数々。

 折角の差し入れがー………。

「もったいねー………」

「拾って食べるような真似だけはしないでくださいね」

 名残惜しい視線もむなしく、マネージャーは釘を刺すと、食べられなくなったおにぎりをさっさと拾い集めてしまう。

「………でもまあ、もったいないなんて事はありませんよ」

 中身がゴミと化してしまった紙袋を手に、そもそも、とマネージャーは台詞をつなげる。

「これをあなたに食べさせるつもりなんて、ありませんでしたから」

 マネージャーはとかく不思議な台詞を言った。

「え。何でだよ。折角の差し入れだろ?」

「何を言ってるんですか?」

 さもこちらが間違っているというようにマネージャーは瞬きをする。

「今は大会前の大事な大事な時期じゃないですか。変なものを食べて体を壊してはいけません」

「いやいや、先輩の差し入れだろ。そんな事あるわけ………」

「ダメです」

 ぴしゃりとマネージャーは言い切った。

「誰が持ってきたかは関係ありません。問題なのはこれが得体の知れるものかどうかだけです。本人が無自覚で後の祭りなんてケース、世の中の食中毒のニュースを見れば明らかではないですか」

 マネージャーは俺に近付くと、トンと、俺の胸の前に優しく手を置いた。

「今一番大事なのはあなたの体調です。何よりも大事で丁重に扱わなければならないんです。そんなあなたの体に何かが起こってからでは遅いんです。いいですか。今のあなたは、もう、あなただけのものではないんですから」

 気を付けてください。

 と、軽く俺の胸を押すと、マネージャーはその手を離した。

「お、おう………」

 マネージャーって、そんな事まで考えないといけないんだなー、と俺は感心した。

 選手の健康管理。マネジメント。他の人間の事を常に考えなければならないマネージャー。

「………なあ、お前ってさ。何でマネージャーやってんの?」

 とかく人の事を考えるのがマネージャー。昔は自分のプレイにだけ集中していた彼女がなぜ、今はそんな立場に甘んじているのか。

 はたして。

 うちの野球部のマネージャーは、しばらく間をおいた後、答えを出した。

「それが今、私の一番やりたい事だから、ですよ」

 口元だけをわずかに緩め、俺をまっすぐに見据えながら、よどみない流麗な台詞でマネージャーはそう言い切った。






「あー、今日も疲れた疲れた………」

 俺は一人、部室でそうつぶやいた。

 今日も練習が終わって、着替えて帰るのみ。後片付け等は後輩達がやってくれているはずなので、一足先に部室に来ていた。他の部員はまだ何かやっているらしく、今は俺一人の貸し切り状態である。

「ふいー」

 汗をかいたユニホームを脱いだ所でベンチに腰をつける。

 きつかった練習のおかげで、すぐに着替える気分ではなかった。

 俺にとっての最後の大会はもうすぐ目の前。

 本当にあっという間の三年間だった。

 これまでの練習の成果が、もう少しで明確な形で現れる事となる。

 そう思うと練習がまだまだ、まだまだまだまだ、まだまだまだまだまだまだまだまだ、全然足りないように思えてくるものの、しかし今の疲れた体では、動く気力が残念ながらなかった。

 本当に大丈夫なのだろうか、これで、と不安に思うこともしばしば。

「……………お疲れ様です」

 悲嘆に暮れる最中、マネージャーが部室に入ってくる。なにか用具を取りに来たのか、一旦はそちらの方に向かうが、その足の軌跡はぐるりと円を描いて、俺の方へと向かった。

「早く服を着ないと風邪を引きます」

 と、そう言うないなや、マネージャーは俺の着替えを手に取ると、それを俺の背中で広げ、着るよう促してくる。

「おお、悪い悪い。なーんか疲れちゃってさ。着替える気分になれなかったわ」

「大分、お疲れのようですね。今日の練習も、頑張っていたようですし」

「まあな」

 俺が返事を返すと、マネージャーが動作を止め、着せようとしていたシャツを脇に置いた。

「………疲れが明日まで残るといけませんよ。マッサージをしますので、そのまま座ってください」

「まじで? あんがと」

 言われるがままそのままの体勢でいると、さっそくマネージャーの腕が伸び、揉むようにしてマッサージが始まった。

 もみもみもみもみ。

 ジワジワと筋肉がほぐれていく快感に 俺はしばし、その気持ちよさに身をゆだねた。




 ―――野球を始めて、最初に練習試合に出場したその日、俺はとぼとぼと帰り道を歩いていた。

「はぁ………」

 荷物を手にしながら、盛大な溜息を付く当時の俺。

 そんな俺に、隣を歩いている彼女の声がかかる。

「そんなに落ち込まなくても。初めての試合なんですし、誰だってあんなものですよ」

「…………………………」

 彼女の台詞が励ましのものだとはわかってはいるものの、しかし俺はそれを素直に受け取れないでいた。

 なにせ、その日の試合で途中出場した俺の成績は、エラーが四つに、全打席三振という散々な結果だった。しかも俺のタイムリーエラーで点を取られるし、チャンスをものの見事に三振で潰していたのだ。

 そりゃあもうふてくされるものである。

 加えて、

「………お前はすげーよなー。ピッチャーで投げては三振ばしばし取ってたし、打つ方も打点三つだったし」

 それに加えてフル出場だった彼女。

 彼我の差がもはや月とすっぽん並のレベルだった。

「はぁー…………………………」

 俺が落ち込んでしまうのは無理がない。

「でも、勝てたんだからよかったじゃないですか」

「いや、それが逆に落ち込むんだって………」

 足を引っ張った自分がいても勝ってしまうというその結果。自分がいなければもう少し余裕で勝てたのではないかと、余計に追い討ちをかけられる。

「もっと、うまくなれたらなー………これじゃあ甲子園も、遠い夢だよ」

「『こうしえん』?」

 聞き返してくる彼女。どうやら甲子園を知らないらしい。

「うん甲子園。俺、大きくなったら絶対そこに行くって、今から目指してるんだ。でも、甲子園って、もっとうまくないと行けないんだって」

「そうなんですか………なら、私が君を連れていってあげますよ、その『こうしえん』とやらに」

「えっ、マジで!」

 と一瞬胸にときめいた感情が沸き起こるものの、

「あー、でも、多分無理だと思うよ。だって、甲子園って男しかいけないらしいから………」

「そうなんですか、残念………」

 それはむしろこちらの台詞だったが、口には出さず飲み込んだ。

「………そんなにいいところなんですか。『こうしえん』っていうのは」

「そりゃもうすっごいところだよ! めっちゃくっちゃ野球うまい人が集まって、試合やってるんだよ! すごくないはずないって!」

 あまり知識はないものの、ひとしおの期待感から熱弁が漏れでる。

「へえ………」

 こちらの熱意に興味深げに相槌を打つ彼女。俺としてもすごさが伝わって満足だった。

「よーし、決めた!」

 タッタッタと、数歩先を歩き、握りこぶしを高く突き上げ宣言した。

 俺はある決意を固めた。

「これからもーっともーっと、いっぱいいっぱい練習して、絶対ぜーったい、甲子園に行く! そしたらお前も、一緒に甲子園につれてってやるよ」

 岩よりも固い固いその決意。それが嘘偽りでないように、高らかに俺は言い放った。

「君なら頑張ればきっといけるんじゃないですか……………多分」

「あー、信じてないなー。嘘じゃないって。絶対ぜーったい、俺は行くから。お前を連れてさ」

「はいはい」

 こちらの固い固い決意に対し、彼女は信じていないといわんばかりにさらりと受け流すのであった。




「………はい、終わりました。これでもう、明日には疲れが残ってないと思いますよ」

「ん、サンキュー」

 マネージャーのマッサージが終わり、俺は礼を述べた。腕を回してみると、心なしか軽快に動くような気がした。

 さすがマネージャー。マッサージの心得もあるとはマネージャー様様である。

 ガチャッ。

 俺が残りの衣服を身につけている間、部室の扉が開かれた。

「あ………ウス」

 と、入ってきたのは後輩の部員だった。後輩はこちらに小さく頭を下げると、自分のロッカーを開き、何かを取り出してすぐにまた扉へと向かう。

「まだ自主練かなんかか?」

 いまだなおユニホーム姿の後輩の背中に声をかける。

 後輩は顔だけくるりと振り向かせると、「あー………まあ、そんな感じッス」と、俺とマネージャーを見比べながらそう言った。

「そっか。あんま無理するなよ。もうすぐ大会なんだし、さ」

「………ウス」

「じゃ、お疲れー」

「ウス」

 バタン。

 扉が再び閉じられ、後輩の姿が消えてなくなった。

 練習熱心な後輩を持ったものである。さすが一年でキャッチャーのレギュラーに選ばれた奴は一味違う。嬉しく思う反面、このままでいいのだろうかという不安に思う気持ちが一割。

「オーバーワークは怪我の第一歩ですよ」

 まるでこちらの心を読んだのかのごとく、マネージャーの言葉が届けられる。

「まあ、そうだよな」

 そう、大会の間近のこの時期になって今更ジタバタしたってしょうがない。もう腹をくくるしかないのだ。後はもう、大会で全力をつくすのみである。

 マネージャーの言うとおり、ね。

「うし」

 俺は残りの衣服をてきぱきと身につけ、荷物を手に取った。すると、

 パサッ。

 何かが床に落ちるのを視界に捉える。

「ん、なんだ?」

 持ち上げた拍子に鞄のどこからか落ちたらしい。俺はそれを拾う。

 四角い封筒。

 宛名は俺の名前、

 ピンクのかわいらしいシールされた封。

「…………………………」

 …………………………。

「……………………………………………………」

 ……………………………………………………。

「………………………………………………………………………………」

 ………………………………………………………………………………。

 ま、まさか、これは………。

 と、俺がその物の正体について思考を流そうとした、その瞬間、「あ」封筒は無残にも俺の手から離れる。

 俺は瞬発的動体視力をもってしてその行方をおうと、それはマネージャーの手に握られていた。

「ちょ、か………」

 えせ。と言う間もなく、

 ビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリ。

 封筒は跡形もなく、マネージャーの手によって破られ、木っ端微塵な姿に変貌した。

「ちょちょちょ、何してんだよ。だってそれ、ラ、ラ、ラブ………」

「ダメですよ。大会前のこんな時期に、こんなものに振り回されていては」

 こちらの抗議の声を上げる声に、マネージャーの台詞が覆いかぶさった。マネージャーのきりっとした口調は更に続いた。

「今のあなたは試合の事だけを考えていればいいんですよ。それ以外の事を考える必要はありません。その他の事は全て私が処理してあげます。ですからあなたは何も気にする事なく目の前の野球にだけ取り組むべきなんです」

 マネージャーは子供に言い聞かせる声音で言う。

「今年こそ、甲子園に行くのでしょう? ならば、他の事を考えてはいけません。それらは全て邪魔なものなのですから。障害物であり、ハードルであり、敵なのです」

 これはあなたのために言ってるんですよ。

 マネージャーはそう、言い締めた。

「……………はあ、そっか」

 いまだ心の中にくすぶるものがなくはなかったものの、だがマネージャが言うのならそういうものかと俺はしぶしぶ納得した。

 なおも心残りがあるが、しかしああもちりぢりになっては諦めるしかなく、俺は封筒の残骸から目をそむける。

 はじめてもらったのに、なあ…………

 けど、マネージャーってすごいなあ、としみじみ思う。

 チームのために、勝つために、ここまでできる奴なんてそうそういない。

 いやそれとも、俺が知らないだけで、他のチームのマネージャーもそういうものなのだろうか。

 その手の友人が少ないのでいまいち判断しかねるが、しかしまあ、このマネージャーがすごい事には変わりがなかった。

 俺が昔から知っているマネージャーの彼女。

 どうしてこんな事までやってのけてしまうのか、きっとそれは、

「やっぱお前ってさあ………」

「なんでしょうか?」

 疑問の表情の彼女に、俺は言う。

「よっぽど好きなんだな……………野球がさ」

 俺が一番野球が好きなように。

 俺にとっては二番目も野球であり、三、四が飛んで五番目にも野球が来る。それ以外に好きなものなんてない!

 と、心の中で叫ぶくらい俺は好きなのである。

 そんな俺の目の前で彼女は至極当たり前のように、俺に視線を合わせつつ答えた。

「はい。好きですよ、野球は……………二番目ですけど」

「え、二番目?」

 意外な答えに俺は台詞を復唱した。

「じゃあ一番目はなんなんだよ」

 俺の問いに対し彼女は、口元に立てた指を当てつつ、

「秘密です」

 と俺を見つめながらそう言った。

「えー、気になるじゃん。教えてくれたっていいじゃないかよー」

 と、なおも俺は彼女に取りすがったものの、しかし結局、彼女がその質問に答える事はなかった。

 こんなにも楽しい楽しい野球よりも好きなものって、一体なんだ?






 俺は絶対にこの最後の大会で甲子園に行く。

 マネージャーである彼女との約束を果たすために、必ずその土を踏んでやる。

 そのためにこれまで努力を積み重ねてきた。

 数々の時間を費やし血と涙を流しながら練習をしてきた。

 それらの努力は必ず実ると、俺は固く固く信じている。

 そう、たとえ。

 俺が小学校時代からド下手で去年までの間ずっとずっと補欠の補欠に甘んじてきて、しかも試合には手の指で数えるほどしか出た事がなくとも。

 そして、弱小校と呼び名が高く、甲子園出場はおろか一回戦を突破することさえままならず、近年の成績の不振から、何年か後には廃部が決まっているこんな学校の野球部だとしても。

 さらに、部費が雀の涙しかなく、そのせいでバッドやボールが最小限しかなくて、グラブが一種類しかないしキャッチャー用具は全て揃ってないような装備だとしても。

 俺は絶対に、甲子園に行ってやる。






 2 いらないもの




「あー、気持ちいいー。あ、もっと下の方も」

「こう、ですか?」

「あっ、そうそう。やっばー。すっげー気持ちいいわー。眠くなってきそう………」

「まだ練習時間ですよ。寝てどうするんですか」

 バカップルのようなイチャイチャぶりの光景を前に、冷めた目で僕はドリンクのストローをすすった。

 やや離れたグラウンドのベンチに座る二人は、うちの野球部の一応のエースである先輩と野球部の一応のマネージャーだ。

 休憩時間の間に先輩はマネージャーからマッサージを受けていた。

「おっ、おっ、おっ。すっげー。やっべ」

「もう少し強くしますよ」

 野球部のマネージャーとは言っても、そんなマッサージを受けるのは先輩だけである。年功序列とか、先輩後輩だからとかそういう意味ではなく、先輩一人だけのマネージャー。

 特別扱いとかそういう次元ではなく、もはやバカップルの領域とさえいえる。

 えーと、確か二人は付き合ってるんだか付き合ってないんだか。入部して数ヶ月の身ではそこのところは把握してはいない。

 まあ、おそらくは付き合ってるんだろうなとは思われる。マネージャーがあの先輩にぞっこんであるというは端から見れば一目瞭然だ。

 それに気付かないとすればよほどの馬鹿くらいしかいない。

「………はい、終わりましたよ」

「お、サンキュー。おうおう、すっげー身体軽くなったわ、ありがとな」

「いえいえ、この後も練習に励んでください」

「おう! じゃあ俺、ロードワーク行ってくるわ。走って体力つけないとだからな」

「はい。頑張ってください」

「頑張ってくるぜ」

 はあ……………。

 と、その光景を見た僕の心中で盛大な溜息が零れ落ちる。おそらく、同じ光景を見た他の部員も、同じように心の中で溜息を吐いている事だろう。

 先輩は軽く準備運動を済ませると、こちらの方へと小走りでやってくる。出入り口は僕のすぐ後ろにあった。道すがら、僕に声をかけてきた。

「おう。ちょっくら俺、ロードワーク行ってくっから、みんなで練習やっててくれよ」

「………ウス」

 激励のつもりか僕の肩をポンと叩くと、先輩はそのままグラウンドから姿を消した。

 ロードワークといっても、途中で絶対サボるんだろうなあ………

 同じクラスの帰宅部から聞いた話を思い出し、やるせなさに心中が沈む。

 パンパン。

「はい。では皆さん。練習再開しますよ」

 手を叩く音と共にマネージャーの収集の掛け声。

 それは、地獄の合図と同じだった。




 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

「はい、まだ六周目ですよ。皆さん、ちゃんと走ってください」

 ベースランニング。

 ホームベースからスタートし、一塁、二塁、三塁を経由してホームへと戻ってくる。

 一人一人がマネージャーの合図と同時にスタートし、終わったらまた列の後ろに並ぶ。

 もちろん走る時は全力疾走。ただまっすぐ走るだけならまだしも、九十度に三回曲がらなければならないのが意外にキツイ。

 しかもマネージャーが鳴らす笛の間隔は極端に短い。ただでさえ弱小校で人数が少ないので、一周回っても数十秒後にはまた自分の番が回ってくるプロセス。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

「十五周目ー。まだまだ疲れるのは早いですよ」

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

「三十三周目。ほらほら、とろとろしてないで早く走ってください」

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

「五十八周目。どうして止まってるんですか。走らなければ練習になりません」

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

「八十二周目。まだまだ走れますよー。力を振り絞ってください」

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

「………も、もう無理……………」

 通算百六十九周目。

 とうとう体力の限界が来たのか、部員の一人が走っている途中で地面に倒れこんでしまった。

 あーあ、やっちゃった。

 心中では完全に部員よりの同情の念が沸き起こるが、しかし今グラウンドにある爆弾に火をつけた事に対して、緊急事態を知らせる警報が脳内で響き渡った。

 ガンッ!

「………何を座り込んでいるんですか、十六番。まだ、休憩とは言ってないはずですが?」

 ガンッ!

 ドライアイスにも似た声と共に、手にしたバットをもう一度地面に叩きつける音が木霊した。

 カツカツとバットで地面を叩きつつ、マネージャーがその部員へとゆっくりと歩み寄る。

「走ってください。走ってください。走ってください。まだ、走れるはずですよね? あなたの体力はまだ残っているはずです。そうですよね? 十六番」

 ガンッ!………ガンッ!………ガンッ!

「ひっ…………は、はいっ!」

 マネージャーとの距離が後わずかとなったところで、部員は立ち上がり、脱兎の如く勢いで走り出した。

「……………」

 それを見届けたマネージャはまるで何事もなかったかのように元の位置へと戻り、他の部員達に向けて言い放つ。

「はい、では再開します。よろしいですね?」

『はい!』

 地獄が再開される。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……………




「次セカンドの、四番」

 カンッ! バシッ!

「走り出すのが遅いですよ。もっとスタートを早くして体の正面で取ってください。もう一球いきます」

 マネージャーがセカンドにいる部員にそう言い放つ。あれを正面で取れとは無理なんじゃないだろうかと端から見る僕は思った。だがまあ、あそこらへんの内野の守備はやった事はないので、下手な事を言う資格はないのだが。

 カンッ! バシッ!

「二百六十四球目。千本にはまだまだですよ。はい、次」

 カンッ! バシッ!

 カンッ! バシッ!

 カンッ! バシッ!

 練習時間が終了してもグラウンドではまだまだ地獄が続いていた。

 いや、正確には正式な練習終了時間は過ぎているのだが、野球部のみ特例としてその時間の延長が認められていて、その時間を使って練習に励んでいるという次第である。

 ただ、エースである先輩はグラウンドにはおらず、正式な方の練習時間終了時にさっさと帰宅していた。

 どうしてあの先輩だけ………と考える気力はもはやない。

「きちんと取ってください。こんなものでは草野球レベルですよ」

 カンッ! バシッ!

 ノックの打ち手として精を出すマネージャー。

 いくら練習する側ではないとはいえ、マネージャーの体力も底なしだった。グラウンドの各ポジションにいる部員達にそれぞれ同じ回数分のノックをこなしているというのに、その表情に疲労は伺えない。もはや化物の領域といっても過言ではなかった。

 取ったボールが返ってくるキャッチャーの僕は、ボールを受けるだけでももうこちらとしては腕が上がらないくらい辛いのにである。

「次行きます。二百七十球目」

 カンッ! バシッ!

 カンッ! バシッ!

 カンッ! バシッ!

「……………」

 各所に広がる部員達の顔色も相当にひどかった。疲労の域は当に越え死に体と言っても差し支えないレベルの青白さを見せているのが何人かいる。立っているがやっとというのが大半。

 けれどそんな状態の部員達を見てもマネージャーはなんら留意することなく千本ノックを継続させる。

 カンッ! バシッ!

 カンッ! バシッ!

 カンッ! バシッ!

 カンッ! バシッ!

 カンッ! バシッ!

 その数は五百球の数字を越えた。

 となると、そろそろ………

「次、ショートの六番」

 カンッ!

 容赦なくマネージャーのバットから放たれるボール。

 通常時なら何の変哲もない難なく取れるボールだったのだが、

 ポロッ。

 ショートにいた部員は取りこぼしてしまう。

 そして、

「も、もう無理。無理です無理です。もう、体が動かないですってー………」

 精根尽き果てた口調で言うと、ペタンと地面にへたり込んでしまった。

「………何してるんですか。早く立ってください」

 氷点下下回ったマネージャーの台詞だが、しかし本当に体が動かないのかショートは座り込んだまま。

 さすがにこれは休ませるべきじゃ………

 と僕が思った矢先、

 カンッ!

 マネージャーは容赦なくボールを打った。

 その軌道はショートの部員へとまっすぐに進み、「ひゃっ!」情けない叫び声と共に部員が飛びのいてそれを寸前の所でかわした。

「………ほら、まだ動けるではないですか。嘘を吐かないでください、六番。あなたはもう二百本分追加ですからね」

 鬼か、この人。

「………あの、マネージャー、ちょっといいッスか」

 いくらなんでもこれはないだろうと、思考するより早く僕の口は勝手に動いていた。キャッチャーのポジションで、一番マネージャーに近かったという面もあった。

「なんですか、二番?」

 一応耳を貸してはくれるのか、手を止めてこちらに振り返るマネージャー。

 うわっ、めっちゃこわ。

 心の中で弱気の虫がやめろやめろと叫んでいるが、なんとかそれを押し止め、僕はマネージャーにそれまで溜りに溜まっていた苦言を呈した。

「あのー、ですね………マネージャーがここまでするのって、まあ一応、チームを強くする、っていう意味でなら、まだ理解できるんすけど………」

 何を当たり前の事を、と訝しがるマネージャーの表情。

 いや、けれども、しかし。

 僕、というか僕ら全員には明らかに納得できないそれについて口から出した。

「でも、それならなんで、エースの先輩だけはやらなくていいんすか。普段の練習だって、あの人だけは自由に練習させてるみたいですし。明らかにおかしくないですかね、それは」

 このチームで一番下手なのは誰か?

 という質問を部員達にした場合、その答えは揃って一致する事だろう。このマネージャーのしごきの練習の分を差し引いたとしても、それは変わらない。

 圧倒的最下位。ド下手。小学生ですらあの先輩よりましなんじゃないかというくらいに下手な選手。

 投げるボールは遅いし、足は鈍足だし、守備はエラーするし、バッティングも空振りの山を築いている。

 そんな人間がエースを務めているんだというのだから、おかしいを通り越して呆れ果てるまである。

 そんな先輩だけが地獄のような練習の免除。

 今まで嫌々飲み込んできたそれだが、さすがのさすがにそろそろ吐き出したくなるもの。

 彼氏彼女とか、付き合ってるかどうかは知らないが、

「………さすがにそれはなくないですかね」

 僕のそんな、全身の勇気をかき集めにかき集めて発した提言。それにいかほどの効果が表れたかというと、

「…………………………」 

 まったく表れていないようだった。マネージャーの表情は眉一つ動かず、仏像のように固定されていた。

 それでもなおこちらが納得しかねる表情を続けていると、マネージャーの唇が動いた。

「………何を言ってるのですか? 野球が世界一上手い彼に向かって」

 はい?

 その台詞に僕が思考停止に陥っていると、マネージャーの言葉が続く。

「彼の野球の腕は世界一なんですよ。世界中の誰よりも上手い彼。彼にはもはや練習は必要ないんです。それでも普段練習しているのは彼が努力家だからです。そう、その世界一の腕を更に磨きをかける彼なんですよ」

 普段は淡々と話すマネージャーだったが、この時は少し乱れ、饒舌に口が動いていた。まるで自分の一番の宝物を語るかのような、それ。

「ですが残念な事に、野球は一人ではできないスポーツなのです。彼がどれだけの腕を持っていようと、他の八人の人間が上手くなければ勝てない。それが野球なのですよ。ですから私は、その他の八人を、まあ、彼レベルまで上達するのは百万年かけようと無理でしょうけど、せいぜい足を引っ張らない程度にまで上達させなければならないのです」

 それが、私のマネージャーとしての役目。彼のいる、野球部のマネージャーとしての存在意義なんです。

 マネージャーはまるで選挙間近の政治家のように、思いの丈を熱弁した。

「あー………そっすか」

 あ、これはもう無理な奴だ。

 そんなマネージャーの表情を見て、僕はマネージャーへの説得を諦めた。

 このマネージャーを言い聞かせるのは天地がひっくり返っても無理だと、つくづく思い知らされた。

 そして、地獄が再開される。

 カンッ! バシッ!






 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

「二百九十七………二百九十八………二百九十九………」

 とある閑静な住宅街にあるアパートの庭先。そこでバットを振る音が断続的に鳴り響いていた。

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

「四百四十四………四百四十五………四百四十六………」

 バットを振っているのは僕自身。一回一回数えながら無心でバットを振り続ける。

 夜も大分更けてきた時間帯。本来なら騒音の影響であまりよろしくないのだが、しかしこれといって近場に公園や空き地のある神社があるわけもなく、近隣から怒声が飛んできた場合にはぺこぺこと謝る事でなんとか難を逃れていた。

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

「五百八十六………五百八十七………五百八十八………」

 学校の練習後の自主トレ。

 といえば聞こえはいいかもしれないが、自主トレは自主トレでも自主トレではなく、このトレーニングを自主的に行うよう命じたのはあのマネージャーだった。

『強制しているわけではありません。あくまでもあなた方の自主性にお任せします』

 という台本的な名目の台詞とは裏腹に、その際の目つきは百獣の王よりも威圧あるもの。もしこれをやらなかったあかつきには罰としてマネージャーからの制裁が下されるのを、その目は明確に物語っていた。

 自主トレなんだからサボってもばれないだろう、なんて事はなく、千里眼のごとき眼力を持つマネージャーは、自主トレをやったかどうか次の日の筋肉の具合を見ればわかるらしい。その真偽の程は不明だが、少なくとも、それをサボった部員が隠し通せたという事例はいまだ聞いた事はなく、その後の制裁を受けた際の部員の悲鳴が耳の奥底に残っている。

 であるからして、僕は仕方なく、嫌々、本当に嫌々疲れた体に鞭を打って星空の下、自主トレ(強制)に励んでいるのであった。

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

「七百十九………七百二十………七百二十一………」

 とはいえ僕の素振りはまだましなほうで、例えば外野のポジションである他の部員は、何十メートルもの遠投を何百球も投げさせられるらしい。自主トレする場所すらままならないそうだ。

 外野ってそんな練習が必要なのかね。今まで外野はやった事がないのでよくわからなかった。

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

「九百五十六………九百五十七………九百五十八………」

 ~~~♪

 と、そこで軽快なメロディがスマホから鳴り響いた。

 僕は脇に置いてあったそれを手に取り、画面を見やる。

 どうやらメールのようで、本文の最初に写真が貼り付けてある。

「何これ………」

 それはエースである先輩と、マネージャーとのツーショット。

 どうやら夕飯を一緒に食べているらしく、手前のテーブルの上には様々な手料理が乗っていた。

 『夕飯中!』

 と、文章はそれだけが書かれてあった。

「……………」

 僕は無言でそのメールを削除すると、再びバットを握った。

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

 ガラガラ………

 ひたすらバットを振り続けていると、すぐ真横にある自宅の窓が開き、そこから顔を覗かせる人物が一人。

「お兄さん。お風呂の用意、できましたよ。すぐ入られますか?」

 一緒に暮らす妹だ。

「あー、僕は後でいいや。先入っちゃってもいいよ」

「そうですか………」

 と、答えた妹はしかし、部屋の中に戻ろうとはせず、体勢を維持したまま。先に入るつもりはないらしい。

 僕の方はまだまだ時間がかかるというのに、律儀な奴。

 僕は同じ台詞を繰り返す事はせず、再びバッドを振るのを再開させた。

 あーあ、何でこんな事しなくちゃならないんだか………

 僕は心の中で毒づくように吐き捨て、そのやるせない思いをバットに乗せて、振り続けた。




 ―――入学当初の頃、僕は特にこれという部活も決める事なく、無難に帰宅部を貫くつもりでいた。

 どれもパッとしなかった部活説明会。もとよりそこまで部活に力の入っていない公立校で、派手な実績を残しているものも微々たるものであり、興味をそそられる対象が正直まったくといっていいほどなかった。

 あらかた勧誘の時期も過ぎて、校門でビラを配る部活もいなくなったその日、いざ帰ろうかという時に、その声が僕の背後から届けられた。

「そこのあなた。ちょっとよろしいですか?」

 振り向くと、そこにいたのはジャージ姿の女子生徒。どうして声をかけられたのかわからなかったが、先輩らしかったので無視するわけにもいかず、僕は仕方なく応じた。

「………何か用ですか?」

「ええ。実は私、野球部のマネージャーをやってるんですが………」

 げ、またか………

 僕は顔には出さず、内心げんなりとした。

 僕はそれまでに何度か、各運動部からそれぞれ勧誘を受けていた。なぜ僕に勧誘してくるのかいまいちわからなかったが、前述したように特にやりたい部活もなく、その全てを断っていた。

 そういえば、まだ野球部だけはまだきてなかったっけ………

「あー、あのですね。僕、どこの部活にも入る気は………」

 他の勧誘の時と同じ台詞を発しようとしたものの、最後まで言い終える前にそれは遮られた。

「………私達野球部は、今年、甲子園を目指しています。嘘や冗談、願望や希望的観測の類ではなく、本気の本気で目指しています」

 彼女は、瞳の奥に静かなる青の炎をたぎらせながら、重みある口調で述べる。

「その道は決して楽な道のりではありません。宇宙にロケットを飛ばすよりもはるか険しい道のりである事でしょう。ですがそんな困難な道のりを乗り越え、必ず甲子園に辿りつく所存です」

「はあ………」

「しかし、甲子園は一人で辿りつく場所ではありません。それには仲間が必要なのです。一緒に切磋琢磨し、共に困難を乗り越える仲間が。仲間………そう、あなたという仲間の存在が、です」

 彼女は一歩こちらに近付くと、こちらの手を取った。

「共に甲子園に行こうではありませんか。野球部に入って、彼を甲子園へと導く手助けをしてください」

 お願いします。

 彼女はこちらの手を掴みながら、大きく頭を下げた。

 純粋で、純白で、綺麗で、美麗で、真面目で、真摯な想い。

 少なくともその時点では、僕はそう思っていた。

 頭を下げたまま数十秒、その後、彼女は頭を上げる。こちらの顔面をまっすぐに見つめ、答えを待ち望む。

 そんな彼女に対し、僕の答えはというと、

「あーっと、いや、その………すいませんけど、やっぱり僕、部活に入る気は………」

 断りの返事を返そうとしたもののしかしそれは、

 はあ……………。

 彼女の盛大な溜息がかぶさった。

「そうですかそうですか………では、仕方ありませんね」

 彼女はこちらの手を乱雑に手放し一歩引いて距離をとる。そしてその表情に、漆黒よりも深い、負の感情を映し出した。

 真っ黒で、どす黒くて、鋭利で、鋭角で、悪逆で、凶悪な、底なし沼の如く暗い暗い闇。

 思わず後ずさりしてしまう表情。だが、回れ右して逃げ出せないのは、蛇ににらまれた蛙、だからだろうか。

 彼女は心臓を一突きにするような鋭い視線でこちらを射抜く。

「………あなたには妹さんがいらっしゃるようですね」

 ……………?

 突然の話題の転換に疑問符が浮かべる僕を前に、マネージャーの言葉は続く。

「とても元気でかわいらしい妹さんで………しかし、それも今の話で、昔は大変だったそうで。大病を患っていたんですよね。それで今でも病院に通院しているとか」

「……………」

「普通に学校に通えるようになるまで、それこそ血の滲む努力があったんでしょう。私には経験ありませんので想像する他ありませんが、大変なご尽力だったんじゃなかったんですか」

「…………………………」

「もし仮に、その病気が再発したらと思うと………いえ、同じ病気でなくとも、免疫力の低い妹さんならまた似たような病気になる可能性も無きにしも非ずで、こちらとしては心配する次第です」

「………………………………………」

「それに、これも仮の話ですけど、夜道を歩く時なんかも大変なんでしょうね。あなたもご存知のように、妹さんの容姿はかなり端麗ですから、なんらかの事件に巻き込まれる、なんて可能性もゼロではありません。ただでさえ病気を患っていた妹さんが事件でも巻き込まれたら………きっと、取り返しのつかない事態になることでしょう。ええ、きっと」

「……………………………………………………」

「私は心配ですよ。いつ何時、事件に巻き込まれるかもしれない、そんな妹さんの事が。身体が弱く、可愛らしい妹さんの事が。そうそう、そういえば今日も病院に行っているのだとか。その帰り道とか、本当に大丈夫なんでしょうかね。お一人での帰宅。長い長い帰路。人ごみの多い町中。閑静な住宅街の道路。多くの車が行きかう幹線道路。どれもどれも危険が一杯で、ふとした拍子に事件に巻き込まれてしまうかもしれない」

「…………………………………………………………………」

「ええ、ええ、ええ、ええ。私は本当に心配なんですよ。妹さんの事が。この世の中の誰よりも。これ以上なく。本当に本当に、ね」

「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」

「野球部に、入ってもらえませんか?」

「……………はい」

 僕はその場で、差し出された入部届けにサインした。




 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

「七千八百十一………七千八百十二………七千八百十三………」

「ふわあ………あ」

 懸命にバットを振り続ける中、欠伸声が鼓膜に届けられる。

「………って、まだいたのか」

「はい。お兄さんの姿を、見ておりました」

 呆れ顔を窓の方に向けると、そこにはさっきと変わらない体勢でニコニコとした妹が鎮座していた。

「別そんな、見るようなもんじゃないのに………」

 愚痴をこぼしつつ、バットを振り続ける。

「いえいえ、頑張るお兄さんの姿は見る価値のあるものです」

「………あっそ」

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

「……………それにしても、私、お兄さんが野球をまたやってくれて、ほっと一安心してるんです」

「……………」

 まだまだ規定の回数までは遠い。今夜もまた布団に入るのは十二時を過ぎる事だろう。

 妹の台詞は続いた。

「一年くらい前、それまで続けていた野球を突然やめるって言った時は、本当に驚いたんですから。それだけ毎日毎日、あれだけ頑張ってたっていうのに」

「……………」

 あー、早く終わらせたい。風呂に入って汗を流したい。寝る前のお菓子が食べたい。布団に入って夢の世界に旅立ちたい。

 妹の台詞は続いた。

「でもそれって、その頃両親が離婚したのが理由なんですよね。私達兄妹はお母さんの方に付いて行く事になって………」

「……………」

 もうやりたくないやりたくない。本当にやりたくないこの素振り。

 妹の台詞は続いた。

「それで、それまで暮らしていた家からこのアパートに引っ越す事になり、お母さんも働きに家を空けるようになってしまって………私一人に家の事を任せないために、お兄さんはあんな事を………」

「ち、違う違う。そんなんじゃないって。あん時オレがそんな事言ったのは………そ、そう、練習やりたくなかっただけ。そうそう、そうそう。それだけだって言っただろ。変な風に勘違いすんなよ」

 あらぬ誤解をする妹にバットを振る手を止め早口でまくし立てた。

 そう、それは勘違い勘違い。勘違い以外の何者でもない圧倒的誤解。

 勘違いすんなっつーの。

 クスクスクスクス。

 だが妹は、その間違いを認めようとはせず、こちらを見ながら口元を緩めて笑うのみだった。

 あーあ、もうやだや。この勘違い妹は。本当にやだ。

 僕は勘違いする妹から視線を背け、再びバットを振り始める。

 早く終わらせないと睡眠時間がなくなってしまう。それも嫌だったのは本当だ。

 ~~~♪

 と、その時、スマホの着信音が鳴った。僕のではなく、妹ののようだ。

「ん、ちょっと失礼します」

 妹は必要もないのに一言断ってからスマホを取り出し、画面を見やる。目で追っていくうち、表情が柔らかいものに変化していった。

「友達?」

「ええ。ほら、お兄さんも知ってる人です。お兄さんの野球部のマネージャーさんからです」

 ピク。

 一瞬、バットの動きが止まるが、すぐに元通りに振り始める。

「時々ですけど、お薦めの本なんかを教えてくださるんですよ。もうその本が本当に面白いものばかりで。お世話になってるんです」

 バットを振る。バットを振る。バットを振る。

「あの人って、本当に親切で………初めて会った時も、私が本屋さんで本を探しているところを声をかけてもらって。それから仲良くしてもらってるんですけど、事あるごとに気にかけてくださってくれて………あんなに優しい人って、いるものなんですね」

 ブンッ!

 ブンッ!

 ブンッ!

 バットを振る。バットを振る。バットを振る。

 ニコニコとする妹の前で、僕はバットを振り続けた。






「今日の試合も絶対勝つぞー!」

『おー!』

 エースの先輩による掛け声で、円陣を組んだ部員の返事が一つにまとまった。

 それが終わると、先攻の僕らのチームはばらばらに自分のベンチへと戻る。

「おう、今日も絶対勝とうな!」

「………ウス」

 隣に座る先輩が熱い熱量で声をかけてくる。腰を着ける位置を間違ってしまったが、今更別の場所に移動はできなかった。

「いよいよ四回戦か………敵も段々強くなってくるけど、でも練習量に関しちゃあ俺らの方が絶対上だからな。負けるはずがねえぜ」

「………ウス」

 まあそうかもしれないですね。

 そんなあなたを除いて、なんですが。

 と思っている心境はもちろん顔には出さない。

「ん? なんか顔色良くないけど、緊張してるのか? 試合だから? 大丈夫大丈夫だって。これまでの練習の成果を発揮すりゃいいんだからさ。お前は一年だけど、なんかミスしても俺らがちゃんとフォローしてやるからさ」

「………ウス」

 と、先輩には返事をするものの、別段試合だからといって緊張しているわけでなかった。

 その理由は、

「九番。トップバッターはあなたからです。まずこの打席は………」

 マネージャーがこの回のトップバッターを呼び寄せ、耳元で何かを耳打ちする。なんらかの作戦を伝えている事だろう。

 背番号九番をつけたチームメイトは顔を強張らせながらその言葉を真摯に受け止めている。

「……………」

 このチーム内において、マネージャーの出す指示は、総理大臣の発言や、大統領の指令、天皇の勅命よりも更に重い意味を持っている。

 マネージャーの指示は絶対。百%全身全霊、余す事無く応えなければならない。

 バントをしろと言われればバントをしなければならない。

 塁に出ろと言われれば、四球でも死球でも振り逃げでも何が何でも出塁しなければならない。

 点を取って来いと言われれば、ランナーなしでもホームランかランニングホームランをする必要がある。

 それほどまでに絶対遵守する必要のあるマネージャーの指示。

 もしマネージャーの指示に従わなかった場合の末路は………今ベンチにいるメンバーは知る由もない。

 ただ一つ確かな事は、そうやってミスをした部員はそれ以後誰もその姿を見たものはいない、という圧倒的事実である。脅しや脅迫のレベルに留まらず、これまでの試合で犠牲になった部員が少なからず確実に存在している事が、信憑性をましより恐怖を加速させていた。

 ファーストの先輩とか、センターのあいつとか、一体今どこで何してるんだろうなあ………

 もしこれが普通のチームであるのなら、監督がそんな諸行を許しはしないのだろうが、しかし当の監督はというと

「……………」

 ただベンチの端で座っているだけだった。

 置物だといっても過言ではないだろう。

 練習の時にもまったく顔を出さないのではなから期待はしていないが、こうもまざまざと置物っぷりを見せられると逆に同情してしまう部分さえある。

「………よっしゃ。今日の試合も始まる始まる。楽しんでいこうぜ!」

 ただもちろん当然の如く、横にいるこのエース様は、そんなマネージャーの指示とはまったくの無縁であるというのは、言うまでもない事である。




 カンッ!

 甲高い金属音を鳴り響かせ、芯で捉えられたボールは一塁線上を高く舞い上がった。

「マジかよ………」

 キャッチャーマスクを取りつつ打球の行方を追う。

 ライトが懸命に追うものの、ボールは無常にもフェアグラウンド内でバウンドし、転々と転がる。

 タッタッタッタ、ダン!

「しゃー! これで六点目!」

 二塁からランナーが帰ってきて、背後のホームを踏みしめ歓喜の声を上げる。

 打ったバッターはそのまま二塁へ。

 追いついたライトが矢のような送球で二塁に送るも、捕球までに時間がかかったのでゆうゆうセーフ。

 ツーアウトランナー二塁。まだまだピンチは継続中だった。

 現在四回まで進んでいて六失点。普通なら試合を放り出してもおかしくな失点。

 だが決して、それだけの失点はうちのチームの守備陣が原因というわけではない。これだけの点数を取られても、いまだエラーはゼロだ。

 マネージャーにあれだけびしびしと鍛え上げられた守備力はそんじょそこらの強豪校と見劣りしないレベル。それにもしエラーしようものならあのマネージャーに何されるか………というのも、ゼロの要因を後押ししている。

 にもかかわらずここまで失点を重ねているのは………

「大丈夫大丈夫! このくらいの点差、次の回で絶対取り返してやるから! ここが正念場だ! 気合入れていこうぜ!」

 マウンドの上で何の根拠もない台詞を張り上げているエースが、とかくなまくら球しか放れないというのが原因なのである。

 次のバッターが打席に入り、初球が放たれる。

 ヒュン、バシッ。

 球威もなければコントロールもなく、変化球もろくになければスタミナも雀の涙しかない。

「………よくまあお前ら、あんなピッチャーでここまでこれたもんだな」

 ほら、打席に立つ敵チームにすら感心されるレベルである。

「運がいいのかただのまぐれか。さすが不戦勝とかで勝ちあがってきた奴らは違うな………ま、どっちにしろ、ここまでだよ。お前らのチームは」

「………ウス」

 僕は下手な反論はできず、頷く他ない。

 打撃力がとかく強い敵チーム。なぜかその主力たる四番がスタメンにはいなかったが、それでもこの点数に収まっているのは奇跡とも言えるだろう。このバッターが言っている事ももっともだった。

「まだお前がピッチャーやった方がましな試合になんじゃねーの? お前、キャッチャー素人だろ。大方、高校入ってから始めたってところか。肩がいいからキャッチャーやってるんだろうけど、そのキャッチングレベル見る限り、ウチの補欠の方がまだましだぜ」

「……………素人で悪かったです、ねっ!」

 ヒュン。バシッッッ!!

 アウトー! チェンジ!

 僕が二塁に投げた牽制球にランナーは戻る事ができず、ボールをとったショートがタッチし、審判のアウトの宣告。

 さっきの得点による余裕なのか慢心なのか、やけにリードが大きかったのが運の尽きである。

 これでスリーアウトになったのでベンチに戻る。その途中僕は足を止め、呆気にとられたバッターに、一言進言しておいた。

「でも、油断しない方がいいと思いますよ。なにせうちのマネージャー、甲子園に行くつもりらしいっすから」




 カンッ!

 僕の前の打順のバッターが快音を響かせ、ボールは内野の間を抜けヒットとなった。

 これでワンナウト、一、二塁。

「よっしゃー! チャンスだチャンス、次も続けー!」

 エースの先輩の声が高く響き渡る。

 点差は三点のビハインド。

 こちらとしては相手チームにくらいついてるつもりであるが、もう試合も終盤。

 今日こそはやっぱり負けるんじゃないかなー。

 そんな諦観した思考を流しつつ、僕は打席に向かう。

 打席の土をスパイクでならしてからベンチの方を見る。

 さて、マネージャーのサインは………バントだ。

 はー、よかった。セオリーどおりのサインで。

 僕の安堵の息を吐き出す。

 点差が点差だけにここで打点を上げろというサインがくるかもと危惧していたものの、さすがにこの場面ではあのマネージャーでも鉄板の策を選ぶようだった。

 まあ、僕のヒットが期待値ゼロだったかもしれないが。正直な所僕は打席があまり得意ではなかったのでよかった。

 あのマネージャーは無茶苦茶なサインを出すように見えて、実際にそう見えるんだけど、しかしある程度部員それぞれの力量にあったサインを出している節がある。本気を出せばギリギリ達成しうるであろうサイン。

 ま、それは僕の思い過ごしかもしれないけれど。

 プレイ!

 審判の掛け声と同時、サインを受け取った相手ピッチャーがモーションに入る。足を踏み込み、その手からボールが放たれた。

 さーて、バントバントっと。

 カンッ!

「あっ」

 思わず声に出すものの時既に遅し。

 ボールの軌道の目算を誤り、予想よりボールの下にバットを当ててしまった。

 当然ボールは転がらずフラフラと頭上に上がってしまい、

 パシッ。

 ノーバウンドでピッチャーのグラブにすっぽりと収まった。

 アウトッ!

 審判の無情すぎる宣告。

「ドンマイドンマイ! ミスは誰にでもあるって。でも大丈夫、次の俺に任せとけ!」

 ベンチに戻る途中、次のバッターであるエースの先輩がすれ違いざまに声をかけてくるが、しかしその台詞はまったくといっていいほど僕の耳に入ってきていなかった。

 ベンチに入り、恐る恐るマネージャーに近寄る。

「…………………………」

 マネージャーは無表情だった。何の感情もないその表情。怒るとか、悔しがるとかの感情すら一片もそこには含まれていなかった。

 マネージャーはこちらに一瞥をくれる事もなく、明後日の方向に向かって、

「十三番、次の回からキャッチャーに入ってもらいますので、すぐに準備してください」

 と言った。

「なっ、なんで! どうしてっ。どうしてオレがっ―――」

 たまらず沸点の上がった自分の口から大きな声を上げてしまうが、周囲の視線を感じて途中で口を閉じる。

「………マネージャー、ちょっと」

 声量を努めて抑えながら、僕はそう言ってマネージャーをベンチから通用路の方へと連れて行く。

「……………」

 マネージャーは一応は応じてくれたものの、もうこちらに興味がないかのごとく黙ったまま背中を廊下の壁に預けた。

 僕は鬼のような形相のマネージャーに萎縮しつつも、何とか口を振り絞る。

「………ど、どうして僕が交代なんすか。これまではちゃんとやってきたじゃないですか、守備でも攻撃でも。マネージャーの指示に従ってきたっていうのに。なのに、何で、たった一回のミスで交代しなくちゃ………」

「………たった一回、それで理由は十分でしょう」

 口を開くのも億劫そうなマネージャーの口調。

「そりゃ、ミスしたのは悪かったって思いますけど、でも、人間なら誰だってミスのひとつくらいするじゃないですか。そういうもんじゃないんですか?」

 僕は懸命に説得を試みる。折角ここまできたのに、その全てが水の泡になろうとしているのを見過ごすわけにはいかない。

 そりゃあ、最初は嫌々入った野球部だったけれど、それでも、これまでの努力が無駄になるのは嫌だった。

 こんなにもいいゲームをしているというに、交代するなんて………

「………私は、『いいゲーム』をするつもりはありませんよ」

「……………?」

「負けた後に、『いいゲームだった』と自己陶酔に浸る行為には何の意味もありません。それはただの言い訳で、負けた自分が正しいという間違った自己解釈です」

 マネージャーは冷めた表情のまま唇を動かす。

「私達は甲子園に行かなければなりません。そのためには勝利し続けなければならず、敗北は決して許されていません。勝利、勝利、勝利。でなければ甲子園にはたどり着けないのです」

 淡々と、しかし確かな響きでマネージャーの台詞が繋がる。

「そんな私達にとって………私と彼にとって、邪魔なものはいりません。私と彼を敗北へと導く存在は不必要です。彼が甲子園に行くのを、邪魔立てするものはいらないんです。勝利という結果を残せない要素は排除するに限ります。そう、」

 あなたのような、存在は。

 マネージャーは氷のような視線でこちらを貫く。そんな僕は氷漬けにされたかのごとく動けない。

「私と彼の邪魔はするものは……………消えてください」

 と、マネージャーはいつから持っていたのか、バットを手に、ゆっくりとこちらに近付き、それを大きく振りかぶると―――――


 なんでなんで。どうして僕が………僕が……………

 ………オレが………このオレが…こんな目に合わなくちゃ………

 オレがオレがオレが、このオレがマウンドに立っていれば、こんな目に、なるはずもなかったっていうのに………

 あのポンコツエースではなく、この、オレが……………

 そう、このオレは………

 150キロを超える剛速球を持ち、七色の変化球を投げわけ、精密機械がごときコントールで、三試合投げてもバテる事のないスタミナを持ち、中学時代ノーヒットノーランや完全試合を何試合も遂げた事のあるオレが投げさえすれば、甲子園なんて、目と鼻の先だっていうのに………

 どうして、そんなオレが………どうして…………………………


 オレの野球人生は、そこで幕を閉じたのだった。




「……………あー、クッソ。折角のチャンスだったのに、三振で潰しちまったー………でもまだ回は残ってる。絶対逆転して見せるぜ……………って、あれ? キャッチャーのあいつは?」

「それが、ちょっと怪我をしてしまったようで、交代します」

「え、おい。大丈夫なのかよ?」

「さあ………ひとまず、今日ここへ戻ってくる事はなさそうでしたが………」

「そっかー………うし! あいつのためにも今日は絶対勝ってやる! あいつの分まで頑張って、勝利の二文字をあいつに届けてやろうぜ!」

「ええ、もちろんそのつもりです。私達に、敗北の二文字はありません」

「おう! そうだな! 俺達はこんな所で止まってられねーぜ。絶対に甲子園に行くためにはな!」

「はい」






 3 「チームの影の立役者ですか? それはもちろん、」




「………ん。………朝ですか」

 私はベッドの上で目を覚ました。

 窓から入る太陽の明るさにまぶしく思いつつ、近くに置いてある眼鏡を取って装着する。

 鮮明になる視界。広がる景色は、自宅ではないとある一室。

 ああ、そういえば、昨日はあのままここで寝てしまったんでしたっけ………

 徐々にハッキリしてくる意識の中で、昨夜の記憶が掘り起こされる。

 私は一糸纏わぬ状態のまま体を反転させ、同じベッドを共有するもう一人の人物を視界に捉える。

 その人物は私と同じく衣服を着ける事なく、いびきをかきながらすやすやと寝入っていた。

「まったく、今日は試合だというのに………」

 視界の中で目の前の人物は緊張感の欠片もない様子で寝ていた。

「今日が試合だとわかっていながら、昨夜はあんなに激しくして………困ったものですね」

 私は呆れ混じりにこぼしつつ、さすがにこれ以上寝かせるのはまずいと、手を肩に置いて、ゆっくりとゆすった。

「起きてください、朝です。あなたが遅れたらまずいんですよ」

「……………zzz」

「いい加減に目を覚ましてください。本当にまずいんですから。早く、起きなさい………」

 私は耳元に口を寄せ、その呼び名を口にした。

「……………監督」

「………んんー。あー………朝か」

 私の呼びかけに、ようやく我が野球部の監督は目を覚ます。まだ眠気まなこだが、まあ意識は覚醒した事だろう。

 私はベッドから降りると、身支度を始める。

「あー、えっと………今日、なんだったっけ?」

 ベッドの上から監督の声が飛んでくる。まだ身支度するつもりはないようで、胡坐をかいている。

「しっかりしてください。今日は予選大会の準決勝の日です。私はともかくあなたが遅れたら洒落にならないんですから」

「いや、お前だって遅れたらまずかろうに………にしても、もう準決勝かー………」

 監督は天井を見上げなら欠伸をこぼしつつ感慨深そうにそうつぶやいた。

 そんな事する暇があるなら服くらい着ればいいのに、と思ったが私は口には出さず、黙々とヘアブラシで髪を梳かす。

「しかしまさかここまでうちのチームがこれるとはねえ………お前があんなこと言い出した日には、夢にも思わなかったよ」

 あんなこと。

 監督が言うそれは、私と監督が交わした契約の事。

 いちマネージャーであるこの私が、チームの全指揮権を握る。

 それを黙認する対価は、私がこの身を持ってして支払う。昨夜ここで行ったようなそれによる報酬。

 そんな契約だ。

 野球部の実力は弱小校の三文字に等しく、去年まではその名の通りに一回戦敗北を喫していた。

 それは部員の実力もさる事ながら、このやる気のない監督も大きな要因足りえた。先陣を切って走るリーダーがこれでは駄目だと、三年生に上がった私がまずしたのはその監督権を握る事だった。

 契約により練習も試合も私の思うがまま。もちろんそれだけで勝てるなどとはうぬぼれてはいないが、まず初めの前提条件がそれで整った。

 それからの血と涙の滲むような努力をもってして、今日ここまで辿りつく事ができたのだった。

「………そういうあなただって、甲子園に行きたいと仰っていたではないですか」

「いやそりゃ、仮にも野球部の監督だろ? 行けるものなら行きたいとは思うけど、それって願望とか夢希望とか妄想とかそんな感じの奴だって。本気で目指さないだろ、大抵の監督はさ。そんな本音、口が裂けても言えないんだろうけど」

 顔の前で手を振って本音をぶちまける監督。このていたらくさが、去年までの野球部の大会の結果に如実に現れていた。

「………けれど、今年は行けますよ。甲子園に。ですから今日も勝ちます」

「本当かねえ。今日はさすがに無理なんじゃないの。相手は優勝候補らしいし」

 うろ覚えらしい浅知恵で物を言う監督。甲子園に何度も出場している常連だというに、どうやら何もその相手の事をわかっていないらしい。相変わらずの無能っぷりだった。

「大丈夫ですよ。ですから、大船に乗ったつもりで構えていてください」

「はいはい……………あー、でもそうなると取材とか、各所でそういうのに答えなきゃいけなくなるんだよな。ああ、面倒くさい」

「気をつけてくださいよ。あまり下手な事言うと、こちらの評判が下がってしまいますから。この間みたいに、試合のスクイズの事聞かれてポカンとした表情になったのは、本当にやめてください」

 地方のローカルではあるが、テレビであんな姿をさらしてはいい恥さらしである。まあ、この監督が恥さらしになる分にはまだいいのだが、あまり学校が悪く言われてしまうのはいただけなかった。

「だったらカンペみたいなの作ってくれよ。こちとら専門用語とかさっぱりなんだからさ。ルールの半分だってわかってないし」

「そのくらいご自分でなんとかしてください」

 ストライクとボールの区別さえ怪しいこのポンコツ。そんな人間に一から教えるつもりはさらさらなかった。私が得たのはチームの指揮権であって、全て監督の代替わりというわけではない為、監督個人の面倒を見る必要はない。

 私は持参したポーチを取り出し、鏡台の前で化粧を施す。あっさり目のナチュラルメイク。している事がそうわからない程度に加減する。爽やかな意味を持つ高校野球の場において、けばけばしい化粧は目に毒とされるからだ。

 薄い色のリップを取り出して、キャップを外す。

「それより、今度の保護者説明会の方は大丈夫ですか? 甲子園に行く場合何かとお金がかかるわけですから、そこで寄付金が集まらないと、後で泣きを見る事になりますよ」

 鏡の自分に集中しつつ、何とはなしに監督に尋ねる。

「ああ、それな。それも大変だよな………教頭とかさあ、口では野球部の勝利を祝ってくれるのに、そのあたりの事遠まわしにだけど嫌味言ってくるんだよ。学校はそんなお金出さないぞって、直接じゃないけどアピールしてきてさ。本当、参るよ………」

 鏡に映った監督ががしがしと何回も頭をかいた。

 私はそれをスルーし化粧を続ける。

 こちらとしてはその件について予め再三にわたって提言し続けていたが、監督はここまで勝つ状況に本当になるとは思っていなかったようで、今更になってあたふたしている。完全なる自業自得だった。

「教頭だけじゃなくて他の教師にも似たような事言われたし……………あ、そういやさ。お前って、俺以外の教師ともこんな事やってるのか?」

「………何の事ですか?」

「だから、こういう事だよ」

 監督はポンポンとベッドを叩いた。

「なんか、科学の教師が話してたよ。俺と同年代だけどあっちの方が年上だから、ちょっと自慢するみたいにさ。他の奴には内緒だって言いながら、お前とこういう事やってるんだって」

「…………………………」

「俺とお前の関係は知らないみたいだったから、その時は知らぬ存ぜぬで通したけど、あいつやばいぜ。俺はあくまで、お前がこういう事してんのはビジネスライク的な奴だってわかってるけど、あの変態教師、完全にお前が自分に惚れてるって思い込んでたよ。そりゃあもう舌なめずりする勢いでさ」

「…………………………」

「別に忠告とかってわけじゃないけど、あいつからは手引いといたほうがいいぞ。いやマジで。あいつから何貰ってるかは知らないけど」

「…………………………」

 化粧が無事終わる。集中していたので監督の話しはあまりよく聞いていなかったが、まあこの木偶の坊の事だ。大した事は言ってなかったのだろう。

「………監督、そろそろ着替えないと本当に遅れますから、早く身支度をしてください」

「……………」

 と、こちらの忠告に対し、なぜか監督は動こうとはせず、じっとこちらを見つめる。これから服を着ようとしている私の裸体を。

 じっくりと見据えつつ、ポツリと口が動いた。

「………お前ってさ、こんな事までするけど、結局何がやりたいわけ?」

 その質問に、私は予め予想していたかのように、流暢な口調で答えた。

「甲子園に行く事ですよ。もちろん」

 一番最初から言っているそれ。それが私の果たすべき目標であり、課題であり、義務である。

 それは終始において、一貫している目的だ。






「………あ、来てくれたんだ」

 ―――待った?

「ううん、全然待ってないよ。さっき来たところだから………ごめんね。試合前の大事な時に呼び出しちゃって」

 ―――全然そんな事ないよ。ところで、用事って何?

「あ、うん。えっと、ね………今日の試合、頑張ってねって伝えたくて、それで………」

 ―――そうなんだ。ありがとう。頑張るよ。

「うん。絶対絶対勝ってね。スタンドで、一杯一杯応援してるから。君の活躍するところ、ちゃんとばっちり見てるから」

 ―――うん。任せといてよ。

「あ、よかったらこれ………君にあげる。これ飲んで、今日も頑張って」

 ―――ありがとう。嬉しいよ。

「ううん。そんなにたいしたものじゃないから……………あのー、えっと、それ、で………」

 ―――……………? どうしたの?

「ううん。なんでもない………わけでもないんだけど。あのー、その、えーっと、ね………君に、ちょっと、伝えたい事があって………」

 ―――伝えたい事?

「………うん。伝えたい事………」

 ―――何々? 何でも言ってよ。

「あう……………うーんと、そのー……………」

 ―――…………………………。

「ごめん! 今はちょっと、言えないや。本当にごめん!」

 ―――………気になるなあ。

「いやあの、本当にごめん! 今日の試合が終わったら、言うから。うん、絶対言うから」

 ―――そっか。わかった。

「だから、今日の試合も頑張って、絶対勝ってね。約束だよ」

 ―――うん。約束。絶対勝ってくるから。

「うん。君なら勝ってくれるって、信じてるから」


 やり取りを終えた後、ユニホームを身につけた十五番が立ち去り、もう一方の女子生徒だけがその場に残った。

 私は頃合いを見計らって、女子生徒へと声をかけた。

「首尾はどうですか?」

「わっ! 何々、何? ……………って、マネージャーさんじゃないっすか。もう、驚かさないでくださいよぅ」

 素っ頓狂な叫び声をあげるが、こちらの姿を認めるとぶつぶつと文句を垂れる女子生徒。

 先ほどまでの清純さや素朴な雰囲気とは打って変わって、イタズラ猫のような小悪魔的表情がその顔面に張り付いていた。

「まぁ、上々ってとこじゃないんじゃないっすかねー? 気持ち悪いくらい顔赤くなってましたし、こっちにぞっこんでしょう、あれは」

「それは何よりです」

 まあ、その成果を確認すべく、先ほどのやり取りをこっそりと見守っていたわけだが、女子生徒の言うとおり首尾は上々といったところだろう。

「でもぅ、本当にあんな人参ぶら下げただけで試合にやる気出してくれるんすかね? 空回りする気がびんびんなんですけどぉ」

「………人というのは何事においても、対価や報酬があるからこそ本気で物事に取り組めるんです。無償の精神など、とんだ幻想なんですから」

「そんなもんなんですかね………」

 女子生徒は懐疑的に首を傾ける。

 しかし私はこれまでの試合、目の前で見てきたからこそわかる。人参をぶら下げられれば人間は通常時より何倍もの力を発揮する事を。

 だからこそ私はこんな茶番をセッティングしたのだ。

 同じ学校の女子生徒に人参役を演じてもらい、あたかも自分に好意を寄せているように思わせる演技。よりよいパフォーマンスを試合中に発揮させるため、ほぼ全ての部員に対して行っていた。

 恋や好きという感情は人を大きく変える。たとえそれが空っぽの偽物だろうと、本人が気付かなければなんら支障はきたさない。

 まあ中には、その手の感情に興味を示さないものも少なからずいるのだが。二番や七番、十四番がそうだったか。二番はもういないので関係ないけれど。

「それより、他の部員とバッティングはしてないでしょうね? あなたは四人、担当していますよね?」

「もちろんっすよー。そこら辺は抜かりねーですから。てか、そうならないように綿密な計画書作ってくれてんのはマネージャーさんじゃないっすか」

「ですから、計画通りに行かない不測の事態を予め想定しておいてくださいと、再三言っている様に………」

「はいはい。もぅ、ちゃーんとわかってますから。ますからますからぁー」

 御気楽な口調で答える女子生徒。こちらとしては不安しか過ぎらないのだが。

 まあ、その様子とは裏腹に彼女はひどく優秀だ。先ほどの演技を見てもそれはよくわかる。だからこそ、私は彼女を人参役に選んだのだ。

「今日まだこれを行ってないのは何人ですか?」

「えーっと、ちょっと待ってくださいねぇー………」

 と言って、女子生徒はポケットからスマホを取り出しその画面に目をやる。他にもいる人参役と連絡を取っているようだ。

「他の奴らは全員終わってるっぽいっすね。あとはうちのが一人残ってるだけです………えーっと確か、あの人はやんなくていいんですよね………えーっと、ほらほら」

 指先を頭に当てて何かを思い出す様子。「あっ、そうそう」思い出すと同時、指をピーンと頭上へ指差した。

「一番つけてエースやってる人ですよ。あの人あの人」

「………ええ、それで問題ありません」

「そうっすよねそうっすよね。いやー前の時はホントすいませんっしたぁー。間違って鞄にラブレター入れた時、マネージャーさん怒りプンプンでしたもんねぇー」

 ヘコヘコと女子生徒は頭を下げた。

「………そこまで怒ってはいませんよ」

「またまたー、あの時の鬼みたいなマネージャーさんの顔、一生忘れないですってぇー」

「…………………………」

 優秀な彼女であるが、少々大げさに物事を表現するのはいただけなかった。これ以上進むと悪の閻魔大王まで昇格してしまいそうであるので、私は話の方向を変える。

「………ちゃんと例のアレは全員に配っているんですよね?」

「アレ? ………あー、アレですねアレ。これっすね」

 女子生徒は言いながらカバンの中からアレを取り出す。残り一人の部員に渡すアレ。

 それは、一本のボトルだ。

 そのボトルがチャプチャプと振られる。

「ていうか、これ、一体何入ってるんすか? 前に中身のぞいた時、すっげー毒々しい色と匂いがしてたんですけど」

「別に何でもありませんよ。少々、身体のコンディションを良くするためのものです」

「はーん、そうなんすか………」

 納得しかねる、というのが見て取れる表情の女子生徒。

 まあ少々、ドーピングやドラッグと揶揄されるようなこの国では認められていない薬物が入っているのだが、それを馬鹿正直に伝えるつもりはない。もし万が一明るみになった際、この女子生徒にスケープゴートとなってもらうためには、何も知らない方が都合がいい。

 しかし、それを手に入れるのには苦労したものだ。あそこまであの科学教師が変態だとは思っても見なかった。

 人は見かけによらない。まさにその格言どおり。

「ま、何でもいいっすけど」とボトルをしまう女子生徒。

「今日勝てば、甲子園はもう後残りわずかです。引き続き、よろしく頼みますよ」

「はいはいーっと。あ、でも前の試合みたいのはもう勘弁ですよ。ほら、相手チームの部員からデータもらって来いっていうやつ。いやもうホント、あの時は大変だったんっすからぁー」

 不満をこれ以上なくアピールし口を尖らせる。

「首尾よくデータもらったのはよかったんですけど、その後その部員に家に連れ込まれそうになってぇー、振り切るの大変だったんすよ? 噂じゃすっげー性的嗜好やばい奴だったらしいですし。いやもう、ホント怖くて怖くてぇー」

 しくしく、と恐ろしいほど大根役者の泣き真似だった。

「……………」

「ま、こちとらもらえるもんもらってるんで、やれって言うのならまたやってもいいっすけどね」

 ぱっと顔を上げ、一転して明るい声でそう発する。その左手は、親指と人差し指で円を作っていた。

 その部員の性的嗜好が、この女子生徒の容姿にピッタリだったからあてがったという事実を、言うべきかどうか少しだけ悩んだ。

「………でも、ホントのホント、よくここまでこれましたよねぇー」

 声のトーンが少しだけ下がった。

「えーっと、うちらにこんな事させてるのって、甲子園に行くためなんですよね?」

「……………」

 私は首肯により肯定する。

「うちらはまあその、もらえるものがあるからやってるわけっすけど………」

 女子生徒は指でくるくると髪をいじりながら、続きを発した。

「マネージャーさんは何のために、ここまでやってるんですかぁー?」

 私はその問いに、常識を述べるかのように平然と、答える。

「それは、それがあの人の夢だからですよ」

 なぜ甲子園に行きたいのか。

 それは、それが彼の夢であるから。

 彼の夢をかなえる為、私は全力を持って、それをサポートする。

 それが、彼のマネージャーである私の責務。私の成すべき使命。

 命に代えても私はそれを果たす。

 そうたとえ、必要なら命を差し出す事だってなんら厭わない。

 それで彼が甲子園に行けるのだとしたら、自分の命などまったく惜しくはなかった。






「やあ、待たせちゃったかな?」

「いいえ、そんな事はありませんよ」

 もうすぐ試合が始まるという直前、私は球場裏の奥まった場所の木の下でとある人物と待ち合わせをしていた。

 その人物というのは、

「しかしいいのかい? 試合前に敵チームのキャプテンに会ってるだなんて。君のチームの皆に知れたら、まずいんじゃないのかな?」

 今日戦う相手の主将を務める人物。

「いえいえ、私は私の目的の為にここにこうして来ているのですから、まったく問題はありません」

「そうかい。まあ君がそう言うならいいけど………じゃあさっそく、例の物は?」

「ええ、ここに」

 私はそう言って、予め持っていたノートを相手に手渡す。

「中身、確認してもいいかな?」

「もちろんです」

「じゃ、さっそく………」

 受け取った相手チームの主将は言葉どおり、パラパラとページをめくり内容に目を通していく。その中には、全てのページにびっしりと文字が埋め尽くされている。

 相手チームの主将は感心した声を上げた。

「へぇ………チームメイト一人一人の能力のデータ。得意、不得意の球種、コース。癖にいたるまでずいぶんと書き込まれているようだね。いくら君自身のチームの事とはいえ、よくここまで詳細なデータを作り上げられるものだ」

「もちろんです。詳細であればあるほど、そちらの都合がいいのでは?」

「まったくその通りだよ。これがあればうちのチームの勝利は100%間違いないと思うよ………でも、どうしてこんな真似を?」

 ノートをヒラヒラと振りながら、こちらへと問う相手チームの主将。

 私は予め覚えた台本を読み上げるようにそれに答える。

「そちらに送ったメールにも書きましたが、私の兄があなたの高校の卒業生でしてね。その兄に泣いて頼まれまして。ぜひとも母校を甲子園に出場させたいと。それはもう、土下座をする勢いで、ね」

「ふうん、なんとも兄弟愛溢れるいいお話じゃあないか。なるほどなるほど、そうなんだね………」

 こちらの話を噛み締めるように、何度となく頷く動作。

「ええ、ですから、それはどうぞあなた方のチームでお使いください。あなた方のチームの勝利のため。ひいては、あなた方の甲子園出場のため。私は、あなた方の勝利を心から願っています」

「ふふふふふ。そうかいそうかい。うちのチームの勝利を、ねえ………」

 クックックック、と小賢しそうな含み笑いをする相手チームの主将。

「………でもね」

 と、笑うのをやめたかと思うと、声の調子を戻し、そして、

「残念ながら、こんなものは必要ないよ」

 おもむろに渡したノートを前に掲げると、突如としてビリビリに破きだした。

 一回、二回、三回………と破っていき、やがてノートはただの紙クズへと変貌する。

「…………………………何をしているんですか」

 私は無残なノートの破片を見下ろしつつ、尋ねる。

 しかし、相手チームの主将はそれを無視し、観衆を前にした探偵のような口調で語り始める。

「………ふっふっふ。僕は知ってるんだよ。万年一回戦敗退であるはずの君達のチームが、どうやってここまで勝ちあがってきたのか、その理由を、ね」

「………何を、仰りたいんですか?」

「本来、君達のチームレベルはかなり低い。もはや草野球レベルのそれだ。何人か良い選手もいるようだけど、しかしあくまで野球は九人でやるスポーツ。突出した選手が多少いようとそれ以外が雑魚ならまったく意味をなさない。あのエースがその典型的な例さ」

「………何を、仰りたいんですか?」

「そう、それこそ一回戦突破すらままならないチームレベル。けれど君達はどういうわけか準決勝の舞台にまで駒を進めた。それはどうしてなのか?」

「………何を、仰りたいんですか?」

「今までの君達の試合、調べさせてもらったよ。なんともひどい内容ばかりじゃないか。君達もそうだけど、その相手がことごとくひどいよね。チーム全員が遅刻による不戦勝。監督不在。エースと主砲の不在。レギュラーの大半が体調不良。そう、なぜか君達の相手はことごとく実力を発揮する事無く君達に敗北を喫している」

「………何を、仰りたいんですか?」

「不戦勝の試合は選手の乗ったバスの故障………徒歩で球場に向かうも間に合わず。監督不在はその日監督宅にかかってきた誘拐電話がその理由………後で単なるイタズラ分かったらしいが。エースと主砲の不在はその双子の兄弟の親が危篤状態になって病院へと駆けつけたから………しかしその連絡は嘘の連絡だった。レギュラーの体調不良はその日食べた弁当による食中毒が原因………いくつかが賞味期限切れのものが混じっていたそうだ」

「………何を、仰りたいんですか?」

「これらを一つ一つ見れば単なる不運な不幸だ。でも、それらの全てが全て、君達の対戦相手、しかも対戦当日の出来事なら話は別。そう、これらは全てが君達によって仕組まれた罠だったんだよ」

「………何を、仰りたいんですか?」

「とぼけたって無駄さ。僕の人脈を最大限使った調査の結果、実に面白い事がわかってね。不運な事故が人為的なものだという証拠は見つからなかったが、でも、それら全ての現場で君達の学校の制服を着た女子が目撃されているんだ」

「………何を、仰りたいんですか?」

「これはもう、君達の仕業であるとしか言いようがない。状況証拠は十分すぎるほど、君たちがクロだと示している」

「………何を、仰りたいんですか?」

「君達はそうやって裏で手を引いて、ここまで勝ち上がってきたんだ。残念ながら証拠がないから告発する事はできないが、しかしまあ、こっちとしてはそれはどうでもいい話なんだよ」

「………何を、仰りたいんですか?」

「君たちが裏であくどい方法を使って相手チームを壊滅に追い込む。だが、これまではそれでうまくいっても、僕らのチームにそんな方法は通用しない。なぜならうちのチームは僕の圧倒的なカリスマによって成立するチームだからだ」

「………何を、仰りたいんですか?」

「わからないかい? なら教えてあげよう。僕のチームメイト、それに監督、コーチ、マネージャー達は全員僕の管理下におかれ、学校の寮によって生活している。その全てのスケジュール管理は僕の思い通りに運び、彼らの主導権は僕が握っている。一片の隙もなくね。そうたとえ、親が交通事故に巻き込まれようが家族が誘拐されようが、彼らはそ知らぬ顔で野球を優先するよう支配下においている」

「………何を、仰りたいんですか?」

「おそらく今回も君達はどうにかして僕らのチームに危害を加えようとしたんだろうが、僕の管理下において危害を加えられるような隙やチャンスは一分たりとも存在しない。僕の圧倒的カリスマ性のおかげでね」

「………何を、仰りたいんですか?」

「他の方法はうまくいかなかった。だからなけなしの策として君は僕をここに呼び出し、ノートを渡しに来た。しかしそのノートの中身は嘘っぱちなんだろう? 偽のデータでこちらを混乱させ、その僅かな隙を突いて勝利を掴もうとした。そういう策略」

「………何を、仰りたいんですか?」

「君らの真意を確かめるべく呼び出しに応じてここまで足を運んできたけど、さっきの君の言葉で確信した。君はさっき言ったよね。君の兄が僕らの学校のOBだって。だが君には兄なんていない。まあ、そんな発言、何の証拠にもできないだろうがね」

「………何を、仰りたいんですか?」

「けど、そんなノートがあろうとなかろうと、その程度の策略があってもなくても、本来の実力で僕らのチームが君達に負けるはずがないんだよ。いや、二分の一、四分の一………十分の一の実力だって君達を負かすのはたやすい。それが圧倒的な事実。決定された事項なのさ」

「………何を、仰りたいんですか?」

「君がどんな理由をもって、こんな方法ですら勝ちたいと思ったのかは知らないけれど、でも残念だったね、君達の仮初の快進撃はここまでだ。今日の試合、勝利の栄冠を手にするのは………」

 ブンッ!

 ガツンッ!

 バタンッ!

「………一体何を、仰りたかったんでしょうか………」

 私は今しがた振ったバットを手に、倒れた人物に対し呆れた声を落とす。

 饒舌な語り口にあまりにも意識が向いていたのか、こちらがケースからバットを取り出した事にも、そしてそれを振り上げた事にも、この相手はまったく気付いていない様子だった。

 今回のこれに関しては多少は難があると思い、予めある程度いくつかのパターンを頭の中で思い描いていたのだが、結局どのパターンを使うまでもなく、こうして目標を達成しうる事ができてしまった。

 まあ無事に達成する事ができたので、文句など出るはずもないが。

 この目の前の彼をこのように排除する事こそが今回の目的。

 圧倒的なカリスマによってチームを率いる中心的人物。その中心人物さえ取り除けば、チーム内は統率力を失いバラバラとなり、戦力がガクッと低下する。

 この一人がいるといないのでは勝利の確率が格段に変化する。それで排除しない理由はどこにもなかった。

「……………」

 地面に横たわる相手は打ち所が悪かったのか、ドクトクと後頭部からは血が流れ、留まる気配を見せない。

 結果としては十分すぎるほど上々だが、しかし下手に意識が回復し、チームの方へと合流されてしまうと、弔いだのなんだのとチームの士気が上昇してしまう可能がごくごくわずかに存在する。本人が言っていた程のカリスマ性が本当にあるのなら、だが。事前の調査において、その可能性は限りなく高い。

「ふむ………少なくとも、試合が終了する時間までは、見つからないようにしないといけませんね………」

 私はおもむろにバッドを高く振り上げると、

 それを何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も振り下ろした。

 ピクリとも動かなくなったそれを確認してから、予め準備していたビニールシートで覆い、それを人目のつかない場所にまで移動させる。

「……………これで、今日の試合に関わる事はないでしょう」

 ふう、とやり遂げた充足感と共に一息吐いた。

「そういえば、これは最後に何か言ってましたっけ………」

 私は先ほどのやり取りを記憶から取り出す。

 どんな理由で勝ちたいと思うのか、とかそういった台詞を。

「そんなの、決まっているじゃないですか………」

 そう、私が勝ちたいと思う、その理由。

 私はもう、既に物言わなくなってしまったそれに冥土の土産として、

 正直に、誠実に、嘘偽りなく、虚言なく、本音を、本性を、事実を、真実を、正しい解を、模範解答を、告げる。

「私はエースの彼の事が大好きだから、ですよ」

 小学生時代のあの日、出会った当初から好きだった彼。

 彼の事が好きだから、彼の夢を叶えたい。

 彼の夢、甲子園に行きたいという、その夢。

 私の好きな人のために。

 私の好きな人が喜んでもらえるように。

 私の好きな人の夢を叶える。

 全身全霊を、全力全快を、持てる力の全てを、潜在能力全てを、好きな人へと捧げる。

 彼に尽くす。

 彼へと尽くす。

 彼のために尽くす。

 彼が為に尽くす。

「私は、彼のためにならなんでもします」

 そう、なんでも。

 どれだけ手を汚そうが、非道な手段だろうが、悪の道に手を染めようが。

 罪を犯そうが、罰を受けようが、刑が執行されようが。

 それが好きな人のためになるなら、私はそれを躊躇しない。

 全ては彼の為に。

 それこそ、私の生きる全て。生きる理由。生きている意味なのだから。

「しかし………」

 そんな私には、一つの疑問があった。

 いくら考えても、それはどうしてもわからなかった。

 別にその疑問が解消されようとされまいと私のやる事は変わらないのだが、気になっているものは気になってしまう。

 その疑問というのは……………

「どうして彼はあそこまで、甲子園に行きたがっているのでしょう?」

 たかだが地理的情報の一つである、甲子園になぜこだわるのか、私には、まったくといっていいほど、理解する事ができなかった。


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