8 ルイモンドとピィ
ピィのいる魔王城に向かいながら、ルイモンドは昔のことを思い出していた。
――前魔王ブーニャ。死ぬほどモテないが、大変に正義感が強く高潔で、他国との和平を望む稀有な魔物の王。そんな彼のことだ、人間とはいえ子供が虐げられていた奴隷市場など、見て見ぬふりはできなかったのだろう。
一頻り大暴れし、子供につけられた鎖を全て素手でぶち壊した時も。あまつさえ宝珠を使って命を失いかけた人間の娘を助けた時にも、ルイモンド達は「この方ならそうするだろうな」と思って追従していた。
けれどまさか、城に連れ帰るとは思わないではないか。
「にゃー! だって可哀想だったのだ!」
ちんくしゃな猫の顔をした魔王は、彼のもふもふした腕の中で眠る月色の髪をした娘を抱き締めて言った。
「こんなに小さいのだぞ!? しかも、この子はスノーコーラル族の突然変異種だ! 恐らく人間の中でも受け入れられず、弾き者にされてしまったのだろう! ほっぽり出せぬ! 可哀想だ!」
「ですが、魔物が人を攫ったとなれば一大事ですよ!」
「攫っとらんし、言わなきゃバレん! にゃー!」
「もう!」
毛を逆立てる魔王に、ルイモンドは苛々と息を吐く。
……確かに、今までも子供を失った魔物が人間の捨て子を育ててきた例はある。けれど、魔物の中で人間が生きるのはそう容易なことではない。うまく育たないならまだしも、別の魔物に喰われてしまうこともあるのだ。
それなのに、よりにもよって魔王が人を育てるなんて。ルイモンドは美しい白髪をガリガリと掻くと、息巻いた。
「ダメです! その子は近くの村に置いてきましょう!」
「ちゃんと育てるから! 面倒見るから!」
「ペット飼うんじゃないんですよ!?」
「にゃ、にゃ、にゃ、ほら! 宝珠も使ってしまったしな!? 経過観察をするのも大事じゃないかと思うんだ! 魔王的に!」
「なーにを屁理屈を……!」
「おい、ルイ」
膠着状態の二者を止めたのは、珍しく静観していたガルモデである。
「なんかその子供、段々と匂いがおかしくなってきたぞ。さっきまでは人間の匂いだったが、今はまるで魔物みてぇだ」
「え、ええ? どういうことです?」
「ちょっと見てみよう」
そう言うと、ガルモデは鋭い己の爪で子供の手の甲を軽く引っ掻いた。うっすらと滲んだ真っ赤な血は、空気に触れるなり黒くなる。
「おう、やっぱり魔物の血の色だ」
「にゃにゃ? 吾輩は確かに人間の子を攫ってきたと思ってたのだが」
「やはり攫ってきた自覚はあったんじゃないですか。……しかし何故でしょう。宝珠の膨大すぎる魔力が、弱りかけた心臓をコアに変えてしまったとか?」
「俺に仕組みなんざ分かるわけねぇだろ。分かるのは、もうこの子は人間じゃねぇってことだけだ」
そうきっぱりと結論づけると、ガルモデはニヤリと笑った。
「だったら、何の問題もねぇんじゃねぇか? 魔王が子供の魔物を拾って育てるだけなんだ。幸い魔王はクソほどモテねぇから、嫁や他の子供への気遣いもいらん」
「何でだろう、吾輩突然泣きそう」
「差し詰め俺が剣の指導で、ルイが魔法の指導かな。ああ、メルボおばさんにも、明日から子供用のメシを作ってもらうよう言っとかねぇと。そうだ、この歳ぐれぇなら絵本や玩具も必要だな。まぁモッさんに頼みゃ揃うと思うが……」
「ガルさん、なんかワクワクしてません?」
ルイモンドの指摘に、ガルモデはパタパタと揺らしていた赤毛の尻尾を股に挟んで隠した。
もともと八十四人兄弟の長男である彼は、とても子供が好きなのである。久しぶりに世話を焼いてやれる子供が現れたという事実に、ガルモデは浮き足立っていた。
「そ、それでも私は反対ですよ!」
しかし強情に、ルイモンドは意を唱える。
「大体、元は人間であることに間違いは無いのです! 放っておけばどんなトラブルが起こるか分かりません!」
「ンなもん、起きた時に対処すりゃいいことじゃねぇか」
「というか、何故私まで子育てに参加せねばならないんですか! 私は弱い生き物は嫌いなのです! 絶対に指一本触れませんからね!」
「そこはオメェが変わらなきゃならねぇ所だろ」
「なんですって……!」
その時、ルイモンドの指が何か柔らかいものに包まれた。驚いて手元を見ると、目を覚ましたばかりの人間の子供が、彼の手を掴んでいた。
子供の方も、ルイモンドの視線に気づいたらしい。真っ赤な目を彼に向けると、ふにゃりと笑った。
「……!」
「おや、ピィはルイを気に入ったようだぞ! イケメンは得だな!」
「な、なんですかそのピィってのは」
「ピィフィル。この子の名前だ」
魔王ブーニャは、子供の頬を肉球の先でくすぐった。
「“幸福に満ちるように”。そういった意味らしい」
「……もう名までつけたんですか」
「覚えたか、ルイ? まぁちょっと長いから難しいかもな。にゃー」
「馬鹿になさらないでください。覚えましたよ、ピィチル」
「ピィフィルな」
それからというもの、ブーニャはピィは引き取り娘として育て始めた。ピィもブーニャを父として慕い、ガルモデやルイモンドを始めとする他の魔物にもよく懐いた。しかしやはりルイモンドだけは、なかなか心を開かなかったのである。
そもそもルイモンドは、生まれた時から天涯孤独の身だった。人間によって乱獲された白大鷲族の最後の一匹。故に彼は、誰も隣におかない時期があまりにも長かったのである。
弱ければ食われる。頭を使え。誰よりもしたたかにならねば、生き残れぬと。
その過酷なまでの強さが認められて、彼は魔王城に登用されたのだ。だというのに、ある日いきなり脆弱な子供を育てなければならなくなったのである。彼のこの戸惑いは、筆舌に尽くし難い。
けれど、時にわがままを言い、時に泣き言を吐き、時に屈託の無い笑みを向けてくるこの生き物に、結果としてルイモンドの価値観は大いに揺さぶられることとなった。
「ちょ、ちょっとヤケドをしただけじゃないか! なんでそんなに怒るんだ、ルイ!」
「当たり前でしょう! あなたは他の者より体が小さいのです! 小さな怪我でも命取りになってしまいます!」
「むぅ……ルイは口うるさいなぁ。殆ど母親じゃないか」
「は、母親!? 私が!?」
「そうだよ。口うるさくて心配性で、吾輩が怪我をしたとなれば誰より先に飛んでくる。吾輩に母はいないが、不思議と寂しくないのはルイがいるからかもしれんな」
「なっ……ちょ……私は男ですよ!」
「ガハハハハハ」
「ガルさん!!!!」
彼女との生活は疲れるし、怒ってばかりだし、気を張らねばならないし。思い返しても、実に散々なものだったと思う。
それでも、気づけばこんなか弱い生き物に、自分は心から笑わされていたのである。己が隣に長く空いていたその場所は、知らぬ間にたくさんのもので埋められてしまっていた。
そうして初めて、失いたくないと思ったのである。家族なんて知らないが、あるとしたらきっとこれなのだと思った。この存在を守るためならば、どんな場所へも飛べると思った。
けれど、こんな不思議と満ち足りた日々は、唐突に終わりを告げたのである。
――前魔王が死に、魔王権がピィに移ったあの日に。
(……もう二度と、奪わせるものか)
あの日の光景が蘇る。父の死を知ったピィの、しかし泣くことすら己に禁じた横顔を。
だいぶ魔力が回復したルイモンドは、ガルモデを先導して魔王城の扉を開けた。
(もう二度と)
ピィが倒れている。彼女の背後に迫る巨体に向けて、翼に魔力を込めた。
(ピィを、悲しませるものか)
泥人形の上半身が、一瞬にして消し飛んだ。
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