第1章 魔王、出会う

1 勇者という名の嵐

「……こんな感情は、初めてです……」


 サラサラとした黒髪の男が、口を開く。彼は片膝をつき、目の前の女性の手を取ってうっとりと見上げていた。


「その強い眼差し。月の光を宿したかのような髪色。凛とした声。控えめな体型……」

「今吾輩を愚弄したか?」

「とんでもない。……全てに。貴女の全てに、俺の心臓は射抜かれてしまったのです」


 男のグレーの瞳に、彼女の睫毛の長い目が映り込んでいる。


「俺の名は、クレイス=マチェック」


 そして、彼は微笑んだ。


「魔を統べし麗しき王よ。どうか、この勇者クレイスと結ばれてくださいませんか」


 その言葉に、魔王――ピィフィル=ミラルバニは、あまりの混乱に真っ赤な目をパチパチと瞬かせたのだった。






【新米魔王は千枚舌勇者に溺愛されている場合ではない】






 それは、かれこれ一時間ほど前の事であった。


「良いか、者共!! これより我ら魔族は、人間殲滅に向け激烈怒涛の軍兵と化す!!」


 昼でも太陽の陽が差さぬ国・魔国。その中心にそびえ立つ城にて、無数の魔物に号令をかける若き女性がいた。

 肩までの長さの髪色は月の光に似て、薄暗い世界の中でさえ美しく輝いている。ピィフィル=ミラルバニは魔物達を見下ろすと、己の剣を高く掲げた。


「今一度思い出せ! これまで人間共から受けた侮蔑を! 悪意を! 嘲笑を!! 我らは怒りの毒を練り、研ぎ澄まされた憎悪の爪で奴等を八つ裂きにせねばならぬ!!」


 魔王のよく通る声は、魔物の毛の一本まで奮い立たせる。大地を揺るがさんほどに、魔物軍の咆哮は轟き渡っていた。


「まずは見せしめにノマン王国を! それからサズ国、フーボ国、ミツミル国、ヨロ国……。これら名だたる国の地を、我らは全て血の海に塗り変えるのだ! ――人の手指でできた花束を! 悲鳴の歌を! 心臓が入った小箱を! その全てを、魔王たる吾輩に捧げんが為に!!」


 しかし、おぞましく醜い喧騒の中にあってなお、魔王の声は国中に響いている。


「魔国こそ、“世界征服”を成し遂げる、唯一絶対の国である!!」


 この一声に、雄叫びが一段と激しさを増した。血気盛んな魔物達は、己の持つ爪に、牙に、ツノに魔力を滾らせ、解放される時を待っている。

 狂乱と盲信が支配するこの場を、演説を終えた魔王は静かに眼下に見据えていた。


「……魔王よ」


 だが、そんな彼女に声をかける者がいた。振り返ると、白髪をなびかせた秀麗な面立ちの魔物が控えている。


「どうした、ルイモンド」

「恐れながら進言したい事が」

「許す。話せ」

「……ピィ。あなたは本当に、ノマン王国に戦争を仕掛けなさるおつもりですか」


 ――今更、何を。

 ルイモンドと呼ばれた人型の魔物の問いに、ピィは不愉快そうに目を細めた。だがあくまで冷静な口調を保ったまま、彼に言葉を返す。


「無論。我が国こそ、この世界を牛耳るのにふさわしい国である」

「それに異論はありません。しかし、此度ばかりはどうかお考え直しくださいませ。何ぶん今は時期尚早、せめてもうしばらく時間をかけてから……」

「ならぬ。元より仕掛けてきたのは向こうの方であるぞ」

「ですが、ピィ」

「下がれ。……いくらルイモンドの言であろうと、これだけは聞けぬ。お前とて、あの国の仕打ちには怒りを募らせておるだろう」

「……」


 この指摘に、ルイモンドは唇を引き結んでうつむいた。

 だがすぐ何かに気付き、顔を上げる。そして側にやってきていたカラスのような小さな魔物に一度視線を向けるや否や、ピィに駆け寄った。


「失礼、悪い知らせが届きました。……たった今、この城に勇者が辿り着いたそうです」

「何? 勇者が?」


 ピィのつり目がちな目が、驚きで丸くなる。ルイモンドは頷いた。


「ええ。既に城門を抜け、大広間に向かっているとのことです」

「馬鹿な。奴にはガルモデを差し向けていたではないか」

「……信じられませんが、音沙汰が無い所を見るに倒されたのでしょう。魔力の気配を探るに死んではいませんが」

「クソッ、こんな時に!」


 ピィはマントを翻し、未だ吠える魔物兵共に向き直った。


「お前ら! 吾輩は少々用事ができた! しばしここで待て!」


 宣言するや否や、彼女は早足で歩き出す。慌ててその後を追い、ルイモンドは尋ねた。


「どうなさるおつもりです」

「決まっておろう。景気づけに勇者を倒し、部下にその首を見せてやるのだ」

「分かりました。……しかし、くれぐれも気を抜かれませぬよう。勇者は相当腕が立つ者と見える」

「ハッ、杞憂だな。吾輩を誰と心得る。全ての魔物の頂点に立つ者、魔王であるぞ」


 落ち着いた声に、ルイモンドはこれ以上の言葉は不要と口をつぐんだ。

 言葉一つとして発さず二人は廊下を歩いていく。やがて到着した巨大な扉にピィが手をかざすと、ものものしい音を立てて天井の高い広間が口を開けた。


「――手出しはするなよ、ルイ。相手はノマン王国の勇者だ。ならば吾輩直々に、その亡骸を父に手向けてやりたい」

「承知しました」

「うむ。それと、この旨は一応ガルモデにも伝えておけよ」

「はい」

「ああ待て。……その、端的に、ちゃんとわかりやすく言うんだぞ? いやもういっそ『待て』とだけ言っておけばいいから……」

「心配せずともそう伝えますよ。彼はすぐ思い違いをしますからね……」


 そうして二人は広間の中心に到着する。ルイモンドは一歩下がると、主君である魔王に頷いて見せた。

 それに同じく肯首で返し、ピィは静寂たる場に一人立つ。そして、大きく息を吸いこんだ。


「――勇者よ、来るがよい!」


 芯のある強い声に、真正面の扉がゆっくりと開いた。


 光の中に立っていたのは、一人の青年である。

 サラサラの短い黒髪に一切の乱れは無く、切れ長のグレーの目は全てを射抜くようだ。しかし腰に差した剣には何故か手が置かれておらず、両腕は鷹揚に体の横に垂らされていた。


 ――剣を構えないというならば、“魔法特化型”の人間か。

 まさか魔力の貯蔵庫たる魔王に、単身で挑もうとする者がいるとは。余程の自信家か、愚か者に違いない。

 ……心してかからねば。ピィは、悠然と勇者の攻撃に備えた。


「……」


 だが、勇者は動かない。じっとピィを見つめるだけである。


「……」


 最初こそ、こちらが隙を見せるのを待っているのではないかと思ったのだ。だからこそ、勇者が向かってくるまでピィは動かないと決めていた。


「……」


 だが、やはり勇者は動かなかった。


「……どうした、勇者よ。この魔王を前に、ひ弱な足が竦んだか? お前が動かぬというなら、吾輩から動いてやってもいいのだぞ?」


 挑発してみると、ようやく勇者はハッと目を見開いた。彼の左足に重心が移る。こちらに向かってくると判断したピィは、改めて拳を握り身構えた。

 が、勇者の口が小さく動いたかと思った次の瞬間。


 ピィの眼前に、勇者の顔が迫っていた。


「……ッ!?」


 ――速い!


 咄嗟に勇者の右腕を掴み、左に振り払う。けれどどんな魔法を使ったのか、彼の体はビクともしない。

 それどころか、勇者の左手に自分の手を捕らえられてしまった。


 ……まずい! まさかの近接攻撃型か!


 少々焦るピィであったが、しかしここで奇妙な事に気がついた。本来なら、敵は魔王たる己を打ち倒さんとすべく全身に殺気をみなぎらせて向かってくるはずである。ところがこの勇者はというと、それがまったく感じられなかったのだ。

 むしろ勇者に取られた自分の手は、彼の両手で優しく包み込まれていた。


 ――そう。

 大事に大事に、握られていたのである。


「……こんな感情は、初めてです……」


 ようやく勇者が口を開く。いつの間にか彼は片膝をつき、うっとりとピィを見上げていた。


「その強い眼差し。月の光を宿したかのような髪色。凛とした声。控えめな体型……」

「今吾輩を愚弄したか?」

「とんでもない。……全てに。貴女の全てに、俺の心臓は貫かれてしまったのです」


 勇者のグレーの瞳に、魔王の睫毛の長い目が映り込んでいる。


「俺の名は、クレイス=マチェック」


 そして彼は、微笑んだ。


「魔を統べし麗しき王よ。――どうか、この勇者クレイスと結ばれてくださいませんか」


 その言葉に、魔王――ピィフィル=ミラルバニは、あまりの混乱に真っ赤な目をパチパチと瞬かせた。


「……お」

「お?」


 だがすぐに正気に戻る。

 唇をワナワナと震わせ、ピィはクレイスに取られた手を握り返した。愛情の為ではない。逃げられないようにする為である。

 ピィは僅かに腰を落とすと、大きく息を吸い込んだ。


「――お断りだ!!!!」


 そして麗しの魔王は、シンプルな拒絶を託した渾身の蹴りを、勇者の整った顔面にくれてやったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る