第8話 幕間:高天原の橋の上にて②

  

 

 「……っ!!?」



 目の前に伝説が居た……。


 髪も瞳も、纏っている羽織袴も全て漆黒。

 身長は190センチくらいだろうか。髪型はややボサボサで目元にまで前髪がかかっている。

 年齢も余とほぼ変わらない20代中頃に見える。

 神々の集会で遠くから拝見した事しかないが、まだ余が人間であった頃からその二つ名は存じ上げていた。

 まさかこんな至近距離でお会い出来るとは露ほども思っていなかったが。


 「…あっ、あの賀茂建角身命かもたけつのみのみこと様でいらっしゃいますよね?」


 …緊張で声が裏返ってしまった。

 だが無理もない。

 日本神話に出てくる八咫烏やたがらすとはこの方なのだから。

 当の本人は余の挙動不審に気を悪くするでもなく、微動だにせずじっと余を見下ろしておられる。


 「あ、あの……」

 「………」こくり。


 沈黙に耐え兼ねて声を掛けると緩慢な動きで頷かれた。

 良かった…柱違いでは無かった。


 「ところで何故こちらにいらー…」

 「たけちゃんグッジョブ!」

 「っ!?……痛っ!」


 余の質問に敢えて被せるように、後ろから声が聞こえたので、思わず振り返ると……刺さった。

 頬に刺さったままの白く細い指先から前腕、上腕と視線で辿って行くと、お日様のような、ではなく太陽を背中にしても尚光り輝くお日様そのものの笑顔があった。


 「………え?」


 建角身命様だけでなく、何故この御方が此処に居るのだろう?

 疲労が限界を突破してしまったが故の、体感を伴う幻覚なのだろうか?

 それにしては、左頬に突き刺さったままの指がとてつもなく痛い。


 「来ちゃった♪」


 余が固まっているのを察してか、指の主が発言して下さった。指の動き付きで。

 グリグリされるのは痛いと学んだ。

 そして、これが現実なのだとも理解した。


 「……天照大御神様ですよね」

 「いかにも!先程声を掛けたのに、無視して帰ろうとしおってからに!たけちゃんが足止めしてくれたから良かったものの!このっ!このっ!」

 「痛いっ!痛いっっ!反省しておりますから、指を下ろして下さい!」


 指をザスザス頬に刺されるのも痛いと学んだ。


 「ふう。まだ気は済んで無いが、一先ず止めといてあげよう」


 …やっと終わった。

 思わず解放されたての左頬を触って血が出ていないか急いで確認してしまった。

 取り敢えず指に赤い液体は付かなかった。だが、刺された箇所は確実に赤くなっているのだろう。

 そんな余を腕を組み、仁王立ちで満面の笑顔で見てくる天照大御神様。


 そのお姿はと言うと、瞳は何処までも続くような澄みきった空色で、腰まで垂らした真っ直ぐなお髪は淡黄檗色うすきはだ色で、日中の太陽の光のように優しく輝いている。

 頭には太陽を横半分に切ったような金色の釵子さいしを付け、額には花菱紋の花鈿が白い肌に映えている。

 お召し物は緋色あけいろの長袴の上に、純白のひとえうちきを五枚重ね、そこに天皇にのみ許された赤みを帯びた茶色の黄櫨染こうろぜん表着うわぎ、そして一番上に絹が滑らかに光沢している布地に金色の刺繍で太陽・月・北斗七星が描かれた唐衣からぎぬを纏い、肩には七色に変化する領巾(ひれ)が掛かっている。

 見た目の年齢は十代後半と言ったところだろうか。身長は160センチほどで、とてもこの高天原を統べる御方には見えない。

 でだ。何故お二方が余の前後に居るのか。日常での関わりが全く無さすぎて皆目見当が付かない。


 …まさかリストラクチャリングだろうか。


 真面目に学問の神の役割を務め上げてきたつもりだったが、自分でそう思っていただけで、何のご利益も無かったのだろうか。

 斯くなる上は自分から身を引こう。

 天照大神様のお手を煩わせる訳にはいかない。1000年以上神の末席に連ならせていただいた事の感謝を伝え、最後の我儘で愛する家族が先に行ってしまった黄泉に行かせていただけるようにお願いしよう。


 「…お二方の考えは分かりました。直接的な関わりはありませんでしたが、ここ高天原に天津神では無いにも関わらず住まわせていただいたり、一柱の神として扱っていただけた御恩は決して忘れは致しません。今まで誠にありがとうございました。何から何まで迷惑をかけ続けた身ではありますが、最後の我儘で最愛の家族が居る黄泉に余も行かせていただきたく存じます」


 途中から天照大御神様のお顔を怖くて直視出来なくなってしまった。

 きっともっと早くに神の座から退けと思っていたに違いない。

 目を固く閉じ、頭を下げながら言葉を紡ぎ出したため、どんな様子かは伺い知れないが、恐らく余に呆れた表情をしている事だろう。何の御利益もない居候が欲を口に出したのだから。


 「………」

 「………」


 風が樹々や草花と衣を撫でる音がやけに大きく聞こえる程の静寂だった。

 一度もお声を聞いた事が無い建角身命様はともかく、天照大御神様も話し出して下さらないのは何故なのか。誠意が足りなかったのだろうか…。

 『誠意見せろや』と、麻来に詰め寄る実々の顔が一瞬過った。


 ここは、日本の謝罪と感謝と誠意の形、土下座をするしかない。


 太鼓橋の上なのもあり、美しく出来るか一抹の不安があるが、今出来る最上のものをっ…!

 右膝からゆっくり下に下ろしていく。相変わらず目を閉じ、下を向いたままであるが、天照大御神様が僅かに動かれたのは気配で分かった。

 視界を閉ざしている分、感覚が研ぎ澄まされたからか、履いている指貫さしぬきの膝部分の布が下に触れたのを感じた。

 だが、直ぐに離れた。

 え……離れた?


 「な、何をっ……!」


 驚きに目を開けると、建角身命様が余の両脇から腕を入れ、立ち上がらせて下さった。

 そして直ぐに余の後ろの立ち位置に戻られた。

 目の前の天照大御神様は、見るからに慌てていた。


 「てっ…てっ天満大自在天神!雇用形態に不満や不備があるなら正直に言ってくれ!それに先程の頬に指を指した事も詫びるっ!パワハラ、セクハラで訴えないでくれ!」

 「………」こくこく。

 「え?…ええっと…お二方のご用件は解雇の通達では無かったのですか?」


 まだ脳の整理が追い付いていないが、余の思い違いだったようだ。

 麻来と実々の二人に関わり始めたばかりであるし、勉学に励む者達の後押しも正直やりきったとは言えない。まだ神でいられるならばひと安心だ。


 「当たり前だろう!いましの他に『学問の神』の務めを全う出来る者は居ない。この先、日本がある限り共に神で居て欲しい」


 天照大御神様は空色の目を吊り上げて余を怒ったかと思えば、慈愛の表情で余が必要だと仰って下さった。

 今まで畏れ多く、挨拶すら出来なかったが、こうして直接お言葉をいただけて全てが報われた気がする。


 「………」こくり。


 あ、建角身命様まで……。感無量だ。


 「そうそう。何故我等が此方に足を運んだかについて答えて無かったな」

 「はい。ご用命とあらば余の方から伺いましたのに」


 麻来や実々の座談会の事をとやかく言えないな。こちらもやっと本題に入れた。

 余の言葉を受け、天照大御神様は悪巧みを今から明かすかのように、瞳を輝かせながら片側の口角を上げニヒルな表情を作って来た。


 「此方に来たのは、先程とよりんから面白い話を聞いたからだよ」

 「…とよりん?とよ………とよっ?!と、と豊受大御神とようけのおおみかみ様ですか!?なっ、な、何とお話になられたのですか!?」


 …豊受大御神様。

 このお名前を聞いて、全てが頭の中で繋がった。


 情報漏洩だと。


 「うん。そのとよりんから『天満大自在天神が突然梅ヶ枝餅を5個ぽっち持って来て、(伊勢神宮の)下宮に少し入りますねって言ってきたわ』って聞いて、なんだか面白そうだからたけちゃんも呼んで皆で一通り見てたってわけー」


 汗が止まらない。

 背中を冷たい汗が何度も伝っていく。

 天照大御神様の口調が突然軽くなったのも些末な問題に感じるほど、目の前が暗くなった。


 豊受大御神様は伊勢神宮の下宮に祀られている神様であり、更に言うなれば、天照大御神様のお食事のお世話をされている方でもある。

 麻来を捕獲するために挨拶に行ったが、まさか豊受大御神様が余の話をするとは露ほども思わなかった。まして「五個ぽっち」と思っていたとは…。

 しかも、天照大御神様は「一通り見てた」と仰った…。

 恐らく【三種の神器】の一つ、『八咫鏡やたのかがみ』で一連の流れを見たのだろう。余が二人を過去に引っ張るところから別れるところまで全て。


 豊受大御神様は女性らしい丸みを帯びた御体に、緋袴ひばかま白衣しらぎぬを纏う、巫女のような格好をしておられる。

 烏の濡れ羽色の艶やかな紫黒しこくの長い御髪を和紙でまとめ、その上から紅白の水引で縛っている。

 外見は30代前半で、瞳は芥子からし色、一度微笑むと優しさが止めどなく溢れ出てくる御方だ。


 そんな一切の隙を感じさせ無い完璧女神の豊受大御神様……何故ですか。


 しかも天照大御神様にっ!

 余が『今から起こる事はどうかご内密に』と伝えておけば良かったのだろうか?

 梅ヶ枝餅だけでなく、全国津々浦々の天満宮周辺のグルメが必要だったのだろうか?


 「悶々と考えているところ悪いが、別に汝の所業を叱責しに来たわけでも邪魔しに来たわけでもないからね」

  

 余の苦悩に見かねて、天照大御神様が呆れたように言葉を発して下さった。


 「では他に何かあるのですか?」


 余が質問を投げ掛けた瞬間、一瞬空色の双眸が妖しく光った。

 その質問待ってました!と言わんばかりに。


 「汝はあの双子の学が完成しなかったり、不手際があったら『消える』と言ってたよねー?」

 「………はい」


 …悟った。これは不味い流れだと。

 もう背中がぐっしょり濡れてきた。


 「まさかと思うけど、過去の時間にあった一切合切の記憶が『消える』だけで、元の時間に何事も無かったかのように戻るってワケじゃないよねー?」


 …そのまさかです。

 思わず瞼をゆっくり閉じて口を引き結び、俯いてしまった。

 これはあからさまに肯定を示してしまっているものなのに。

 実を言うならば、二人を過去に連れて行くのも何ら制約は無かった。

 南極と同じように【過去】は誰の物でもないため、私欲を満たすのではなく平和的利用ならば出入り自由だった。

 よって、制約があるからと日本史を始めから最新までやる必要は無い。


 そして渦中の「消える」発言。

 過去に無い諸々を持ち込むのは勿論御法度で、禁止事項であるのは間違いではない。これを破ると余が手を加えずとも強制的に退去させられる。

 しかし、「日本史を最後までまとめられなかったら消えるのか?」と聞かれれば答えは「否」である。

 約束の1年間が来た故に、過去からただ単に連れ戻すと言うだけのことだ。


 だが、良く考えて欲しい。

  

 これらの真実をあの双子に正直に伝えたらどうなるかを。

 十中八九、「え、なら帰りたい」、「生活があるので帰ります」の大合唱になっていただろう。

 また、ちょっと残って勉強をやって行くと言っても、やれ鎌倉時代だ、幕末だと好きな事しかしないのは明確だ。

 食わず嫌いはせず満遍なく食べる。日本人ならば人生で一度は言われる言葉ではないだろうか。

 決してお礼参りに来なかった事を根に持っているから嫌がらせのためだけに言ったのではない。

 やるからには徹底的に最後まで全力でやりきって欲しい。そんな親心から発した小さな嘘。

 それが自分自身を今追い詰めている…。


 「…ぃっ!おーい!帰って来ーーい!もしもーしっ!」

 「………」ゆさゆさ。

 「……はっ!」


 お二方の御前にも関わらず、心の中で誰かも分からない者に弁明し、あろうことかお二方のお手を煩わせてしまった。


 「申し訳ございませんっ!」


 勢い良く腰を直角に折り、誠心誠意の謝罪をする。

 たった今、日本のサラリーマンの気持ちが何故だか少し分かった気がした。


 「あーいいからいいから。端から見たら我等が虐めてるみたいに見えちゃうから。とっとと顔上げてよー」

 「………」こくり。


 何処までも広い御心。空色の瞳そのままの澄みきった御方で良かった。


 「でね、何が言いたいかって言うと、神様って嘘吐いちゃいけないと思うのよ。もちろん言っちゃった汝の気持ちも分かるよ?そこでっ!双子をリアル神隠ししちゃおうと思いまーすっ!はい、拍手ーーーっ!ぱちぱちぱちー」

 「え」


 …澄みきった心、何処へ?

 静寂に天照大御神様の弾ける笑顔と拍手の音だけが場違いに明るく感じられる。

 ここで建角身命様までもが拍手をされていたら、確実に立ち直れなかった自信がある。


 「そんな深刻そうな顔しないでよー。天満大自在天神の発言の責任を上司の立場である我が取ってあげるってだけなんだからー。それにっ!」


 一度言葉を切るとビシッと余に向かって白く細い指先を向けてこられた。


 「汝も言ってたじゃない。何事もなく終わったらチャラで全部元通りって。だからあくまで保険みたいなものなのよ」


 …麻来、実々、すまん。

 汝らに無許可でハイリスクノーリターンの保険に加入してしまった。

 だが、せめてもの罪滅ぼしでしっかり契約内容を把握しておくからなっ!

 無意識にまた俯いてしまっていたが、ぐっと腹に力を入れて背を伸ばし、眼前の女神に向き直る。頑張れ、自分。


 「…天照大御神様、具体的に神隠しした後の二人はどうなるのですか?」

 「その前に、さっきからずっと思ってたんだけど、その『天照大御神様』って呼び方長ったらしいし、堅いから止めてよ。『日女ひるめちゃん』って呼んで良いから。あっ!『ひーたん』って呼ぶのはごめんなさい。これからの付き合いに響くから」

 「はぁ…」


 心が追い付かず、失礼にも生返事のようになってしまった。

 思春期の少女のようにはにかんだと思ったら、急に拒絶してこられ、どうするのが最善なのか答えが一向に見付からない。

 ただ一つ言えることは、「日女ちゃん」とは絶対にお呼びしないと言う事だけ。


 「…天照様、それで二人は?」


 また天照大御神様と呼ぶと、何か言われるのは自明の理であるので、最大限の努力で略称で呼ばせていただいた。


 「日女で良いって言ったのに、根性なしだなー。でね、双子ちゃん達は本来ならば失うはずのない尊い命だから、勿論不要な殺生は以ての外!だから責任持って我等が高天原此処で引き取ろうやって言いたかったのよ」

 「いやいやいやいやっ…」


 あの双子はもう「ちゃん」付けして呼ぶ年齢ではないですよって事と、一言の責任はそんなに重大だったんですか?と言う困惑が大きすぎて、続きの言葉が出てこない。

 そして、背中の汗がやっと止んだかと思えば、今度は頬を一筋の汗が駆け降りて行った。


 「それで、とよりんとも話したんだけど、現代の家庭料理とやらも食べてみたいねって。あと今流行りのカフェ風ご飯も!……何が言いたいかお分かり?」


 …お分かりです。

 天照様は妹の実々が欲しいと仰っていると。

 実々、日本で最大の大物からのスカウトが来たぞ。嬉しいよな?そうだよな。


 すっ…すまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっっ!


 心の中で実々に誠意を見せた。

 そして、選ばれなかった麻来に「どんまい」と投げ掛けた。


 「お、お言葉ですが実々には一人娘がおりまして、娘の健全な成長のためにも母親は大事では無いかと。突然消えたら心が乱れてしまうどころでは無いかと…」


 同情を誘い、そこから神隠し自体を有耶無耶にしよう。

 今が正念場だぞ、道真。


 「そこら辺、ちゃーんと抜かり無いから大丈夫よ!娘ちゃんも呼んじゃえば良いんだもん!何のために八百万も神が居ると思ってるの?皆で育てれば『神童』も夢じゃないって。新時代の神にしちゃお♪」

 「うっ…!」


 少なくとも神童を育成するために八百万の神々がおられるのではない。それは間違いなく言える。

 ならば……今度は敢えて実々の評価を低く言い、「えーっ!なら(引き取るの)止めとくー」となるように仕向けよう。


 「お言葉ですが、天照様。実々は一見おっとりして優しそうに感じますが、実は腹黒でして、誰かに仕えると言うのは向いていないかと…」

 

 余の言葉を受けて、一瞬天照様が形の良い眉をひそめられた。

 これは上手く行きそー…


 「あのさ、この場に居ない者の悪口を言うのは良くないんじゃない?汝今すっごく格好悪いよ?それに女なんて皆狡猾に生きているもんなんだから。腹黒くらい可愛いもんでしょ。それに、その方が会話が楽しいし」

 「…もっ…申し訳ございませんでした!」


 実々、重ね重ねすまないっ!

 万全の雇用体制が既に敷かれていた。

 何かあれば直ぐに駆け付けると、ここで誓おう。

 そして気になるのは、もう一人の問題。

 実の所、実々と同じように就職先が既に決まっていそうだ。


 「姉の麻来はどうなるのでしょうか?」

 「え?汝が責任を持つに決まってるでしょ?何で我に聞くの?」

 「………」


 まさかの内定先。

 「断ります」とも、自分が撒いた種ゆえ言えない。

 同じ空間に麻来と半永久的に居る…。

 自信を持って言おう。繊細な余はもたないと。

 今すぐ時間を双子を過去に連れて来た時まで戻せないものか…。

 目の前が絶望と後悔で真っ暗に染め上げられている。もう何も見えない。


 「……諦めろ」ぽむぽむ。

 「っ!?たっ…建角身命様!?」


 …初めてお声を聞いた!

 それ故、一層その言葉が重いっ…!

 肩に置かれたままの手からも心から慰めて下さっているのが犇々と伝わってくる。

 感謝を伝えようと後ろを振り返ると、漆黒の瞳からも同情が溢れていた。

 建角身命様がこの場に居て下さって本当に良かった。この方は……まともだ。


 「ううっ…ありがとうございます」

 「………」こくり。


 肩から温かい掌が離れたので、再び前を向き直す。

 天照様は余と建角身命様のやりとりが余程可笑しかったのか、お腹を抱えて無音声で涙を流しながら笑っていた。


 「麻来の事は分かりました。ただ、あくまで完成しなかったり、問題があった場合ですよね?」

 「ヒィ…ヒィ……苦しーい。たけちゃん最高ーっ!で、うんうん。そう言う約束だったもんね。あっ!汝、確実に完成させようと思って手出しなんかしちゃダメだからね!本来の目的忘れちゃダメよー」


 涙を指先で拭いながら、まだ少し荒い呼吸で天照様が仰った。


 「勿論です」


 元はと言えば、麻来にやりたい事をやらせるため。

 そして、万事恙無く終われば何の憂いもない。麻来と高天原で毎日顔を合わせずに済むし、実々が天照様によって精神を磨り減らす必要もなくなる。

 あの二人を信じよう。

 うん、信じよう。

 し、信じよう。

 信じたい。

 …頼む、頑張ってくれっ!


 「なんかまた一人で葛藤してるけど、最後に言いたいこと言ったら帰るねー。耳かっぽじって良く聞けよー」

 「え?」


 天照様が此方に微笑みながら歩いて来られたと思ったら、か細い手で余の胸元に手を添えらた。

 そして、それに呼応するように建角身命様が余の背中に両手をそっと当てられた。


 「あっ…あのっ!」


 美女がこんなに近くに居て、照れない方がおかしい。

 顔に熱がどんどん集まってくる。心臓も凄い速さで脈打っている。天照様の手のひらに震動が伝わっているのではないかと思うと、緊張でまた心拍数が上がった。

 余には宣来子と言う最愛の妻がっ……!

 天照様は妖艶な微笑みをしながらゆっくり瞼を閉じ、再び開くと同時に余の胸元に添えていた手に力を込めた。


 「ってめぇ!なーに我の内宮に参拝する人間拐かしとんねんっ!!友達が詩歌しか居ねぇって言ってる、アンパンよりダチが少ねぇ奴が何派手にやっとんねや!根暗が人の伊勢神宮シマに突然入ってくんな!!身の程を知れェ!分かったかっ!」

 「えっ?えっ?えっ?」


 余の胸ぐらを掴んで、下から睨み付けながら罵声を浴びせてくるこの御方は本当に天照様なのだろうか…?

 まず、瞳の色が空色ではない。暗闇の中メラメラと燃え上がる焔のように、深紅に変わっている。

 そして、御髪も炎のように毛先が重力を無視してゆらゆらと揺れている。

 混乱する思考で唯一ハッキリと言えるのは、建角身命様が居てくれて本当に良かったと言う事。

 一人だったら確実に心が粉微塵になっていた。

 取り敢えず、胸ぐらを掴まれるのは、神生でこれが最初で最後にしたいと思う。


 ところで、何故天照様は余の生前の漢詩をご存知なのか…。

 確かに『友は一人詩のみ』と晩年病みきった心で詠んだ。

 また、何故日本のアニメのオープニングソングの歌詞を把握されているのか…。そのせいで今度は名犬の鳴き真似をした実々が過った。

 疑問が尽きない。

 天照様に対する畏れも尽きない。

 だが、今は何はさておき謝罪が最優先っ!


 「たっ…度々申し訳ごー…」

 「つってね☆」


 明るい表情でパっと手を離して一歩離れられた天照様の瞳はいつものような澄み渡る空色で、髪の毛もそよ風に揺れているだけになっていた。

 …逆に怖すぎるっ!


 「言いたいことも言えたし、一年のんびり待つとしますか!あ、天満大自在天神の事はこれから『多神くん』って呼ぶね!また何かあってもなくても遊びに来るねー」

 「たがみくん?」


 いったいどこから思い付いたんだろうか?

 天満大自在天神も菅原道真も『た』など一文字もない。


 「じゃあたけちゃん帰ろー!またねー多神くんっ♪……ここであった事は誰にも言うんじゃねぇぞ。では、バーーーイ!!」

 「………」こくり。


 建角身命様は頷きながら優しく余の肩を叩いて歩き出した。

 格好良い。

 最後に一瞬だけまた天照様の瞳の色が変わった事がお陰で緩和された。


 「御越しいただきありがとうございました。お気をつけて!」


 お辞儀から体を戻すとお二方はもう消えていた。


 「つ、疲れた…」


 この一言に尽きる。

 思わず力が抜けて橋に座り込んでしまった。


 天照様はどちらの瞳の色の時が本当の姿なのだろうか?

 個人的な願望としては空色であって欲しい。切実に。

 先程、何も無くてもまた来ると仰っていた事は一先ず忘れよう。社交辞令だ、多分。

 そして、伊勢の地も二度と踏まないと心に刻もう。


 建角身命様は出来た方だなと感じた。あの方くらいにならないと天照様と渡り合えないのではないだろうか。

 生まれ変わってお嫁に行くならば建角身命様の元へ行きたい。


 そんな密かな願望は置いておいて。

 現実問題、双子への対応をどうしたものか。

 この予想外の出来事も口止めされてしまったし、手出しも出来ない。

 当初の予定である、勝手に一年間やってもらうのも最早余の精神面的に無理になってしまった。

 取り敢えず、ちょっとしたサプライズでアレを送るのと、後程会った時に激励しておこう。

 そして、その為にも今すぐ休もう。


 あぁ、やっと社に帰れる。



 この時、余は知る由もなかった。

 天照様が八咫鏡で見た【一通り】は、双子の一年間の結末まで全てだったと。


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