第十三話 星奈の我が儘
星奈が寝ついてから、陽一は一度彼女の部屋を離れた。どたばたしていて自分の朝食もまだだったことを思い出したのだ。流石に空腹だ。
彼は冷凍庫に放り込んであったご飯をレンジで解凍すると、茶碗に盛る手間も惜しみ、ラップに包んだまま適当に形を整え、そのまま齧る。最低限の腹ごしらえを急いで済ませ、二階に戻る。
星奈のベッドの傍で、陽一はスマホを弄りながら、星奈の様子を確認していた。寝言なのか、はたまた単に寝苦しくて漏れているだけなのか、たまに短い声が聞こえてはきたが、目を覚ます気配はしばらくない。
状況に変化があったのは十二時頃だ。陽一のスマホにメッセージが届く。中身を検め、返信。そこからさらに十分経って、再度スマホが振動した。それを確認して、陽一は再び部屋を出た。
一階へ降り、玄関を開ける。ドアの向こうに知り合いがいた。
「買って来たぞ陽一。念のため確認してくれ」
そう言いながら買い物袋を差し出してきたのは、学だ。朝食を用意していた際に、「もしも暇なら」と但し書きを加えた上で、買い物を頼んでおいたのだ。
「悪ぃな学、頼まれてくれて助かった」
「気にするな。外せない用があったなら断ってる」
受け取った買い物袋を覗き込みながら、心から礼を言う陽一に、学は肩を竦めて応えた。
袋の中身は、レトルトおかゆが三食分とスポーツドリンクが三本、大きいサイズのヨーグルト、それにみかんの缶詰が四個。結構な重さになってしまったが、嫌な顔一つなく引き受けてくれたことに、ただただ頭が下がる思いだ。
「サンキュ、すげぇ助かる。あ、レシートあるか?」
「ああ」
改めて礼を言いつつ陽一が尋ねると、学は財布からレシートを取り出した。金額を確認して、陽一は千円札を二枚用意し、学に手渡す。
「釣りはいいよ。手間賃」
そう伝える陽一だったが、学は首を横に振り、一円違わず釣り銭を陽一へ突き返した。遅滞のない仕草からすると、陽一がそう言い出すことも予想していたのかもしれない。
「そんなものは要らん。この前つまらない相談に付き合わせた分だと思ってくれ」
「……そっか。じゃあまぁ、ありがたく」
笑みを零して、陽一は言った。つくづく頼もしい限りだ。同時に、話題に上った例の彼女の件も少し気になった。
「彼女の方は、その後どうなったんだ?」
「お前に言われた通り、きちんと謝った……んだが、不思議そうな顔をされてしまった。気にしていたのは俺だけだったらしい」
興味本位の問いかけに、学は苦笑も濃く首を振る。
それから、彼にしては珍しいからかうような笑みを浮かべて、学は陽一の背後をそれとなく目で示しながら、
「そんな話で時間を潰すくらいなら、戻ったらどうだ? あまり遅くなっては、わざわざ俺に買い物を任せた意味がないだろう」
「そうだな。確かに、それじゃお前に申し訳ない」
陽一も苦笑を返して頷いた。片手を軽く掲げて一歩下がりながら、彼は改めて学と目を合わせた。
「じゃ、また明日。重ね重ね助かった」
「星奈くんにもよろしく伝えてくれ。お前も
「分かってる。伝えとく」
手を振りながら、ドアをそっと閉める。一拍空けてから鍵を閉め、陽一は買い物袋を手にキッチンへ向かった。スポーツドリンクを一本とヨーグルト、缶詰を冷蔵庫に入れ、残りはテーブルに置く。そして、彼は星奈の部屋へと戻っていった。
まだ星奈は目覚めていない。それを見て取って、足音を立てないように彼女のベッドの傍まで戻った陽一は、また床に座り込んだ。星奈を起こさないよう気をつけながら、ベッドに背中を預ける。
妹の寝息が微かに聞こえる。それを感じながら、陽一は不思議なほど心が落ち着いていることを自覚していた。
ここ最近感じていた不安を、今だけは感じなくて済むから。
弱った妹と、それを看病する兄。そんな、今まで通りの関係でいられるから。そのことに、深く安堵していた。
(早く良くなって欲しい……そうは思うんだけどな)
胸中で呟きながら、それでも、昨夜の星奈の言葉がフラッシュバックするたび、胃が重くなる。
――どっちが大事?
――私と一緒にいるのと、私のお兄ちゃんでいることと、どっちが大事?
選ぶ必要なんかねぇだろ、と軽々しく口にすることが、今の陽一にはできない。いや、昨晩でさえできなかった。ということは自分自身、本当は星奈の不安に気づいていたのだろうか。
分からない。
自然と陰鬱な溜息が漏れる。同時に、背中に感じる星奈の気配、その存在の近さが、一層柔らかく陽一の胸を撫でた。
もう一度吐息が漏れる。今度は安らかな吐息だ。ここ数日張り詰めていた緊張が不意に緩み、睡魔が忍び寄ってくる。彼がそれを自覚するより早く、彼の意識は微睡みに落ちた。
「……んぁ?」
閉じていた目を開けた瞬間、意図せずそんな声が零れた。
自分が上げた声の間抜けっぷりに吹き出しそうになったのも束の間、それ以上に自分が眠りこけてしまっていたことに気づくなり、陽一は青ざめながら背後のベッドを振り返った。
「あ、起きた」
そんな声と同時に、星奈と目が合う。彼女は目覚めていた。上体を起こした彼女は、陽一を見下ろして薄く微笑んでいる。
「悪ぃ星奈。俺どれくらい寝てた?」
自責に眉を寄せて問いかける陽一に、星奈は小さく首を振りながら、
「分かんないけど、私が起きたのは十分くらい前。まだ一時くらいだよ」
「あー……そうか、よかった。そんなに長くねぇな」
大きく肩を落とし、念のためスマホで時間を確認する。星奈の言った通り、一時を少し回ったくらいだ。
「食欲あるか? おかゆとヨーグルトは買ってある」
気を取り直して陽一が告げると、星奈は首を横に振る。
「朝遅めだったせいかもしれないけど、まだあんまり。でも、しばらくしたら普通にお腹減りそうな気がする」
「そっか……うん、朝より顔色いいみたいだな」
受け答えをしながら、陽一は胸を撫で下ろした。そんな彼を、星奈は申し訳なさよりも、からかいの濃い目で見やりながら返事をする。
「むしろ陽一の方が疲れた顔してる。まだ眠いんじゃない?」
言われた陽一が、顔を渋く歪め、細い眼差しで星奈を睨みつける。苛立ちと疲れの入り乱れる声音で、彼は苦々しく吐き捨てた。
「うっせぇ。昨日の夜、あんま眠れなかったんだよ」
「うん、私も」
陽一とは対照的な、あっさりとした口調で返され、一層陽一の眉が不機嫌に曲がった。だが星奈は、そんな彼とはやはり真逆の笑みでそれを迎え撃った。
淡く穏やかで、しかし乾いた印象の付き纏う、胸がささくれ立つような微笑だ。思わず陽一が言葉を詰まらせる。
彼の反応はお構いなしに、星奈は切なげな笑みのままで囁いた。
「陽一、私が寝たあと帰っちゃったでしょ。そのあとで目が覚めちゃったの。もちろん、そのまま寝直すつもりだったんだけど、なんか上手くいかなくって」
おどけるような言葉を選びながら、しかし彼女の声は息が詰まるほど真剣味を帯びている。決してテンポが早いわけでも、語調が強いわけでもないのに、陽一は口を挟む間を見失ったまま、星奈が語るのを黙して聞いていた。
「何だか最近、陽一のすぐ傍にいないと、怖いの」
さらりと落ちた言葉に、少し前の記憶を擽られた。「怖い」と星奈の口から、つい最近も聞かされた気がする。ややあって思い出した。連休初日、ソファーに並んで座りながら甘えてきた彼女がそう言ったのだった。一緒にいられないのは、怖いと。
陽一がそれを思い出したのとほぼ同時、星奈は続ける。
「前は、近くにいなくたって平気だった。それでも陽一が一緒だって、自然に思えたから。でも、そうじゃないのかなって、間違ってたのかなって最近は思うようになっちゃって。何だか、ずっと、怖い」
力なく笑いながら、星奈はそう嘯いた。その口で言葉にした恐怖は、口調からは感じられない。それでも、正面から対峙した瞳の、今にも崩れそうな揺らぎぶりを見て彼女の本心に気づかないほど、陽一も馬鹿ではない。
大切な妹の本音を違えるほど、彼女との距離は離れてはいない。
「ごめんね陽一。でも、お願い。我が儘聞いて?」
穏やかな声。壊れそうな表情。漂うアンバランスさに、陽一の臓腑が凍る。
瞬間的に、星奈の存在が遠のいたような気がした。彼女の言葉を借りるなら、「一緒にいられなくなる」ような感覚が、脳を激しく揺さぶった。
今まで知っていた星奈が遠のいたような。陽一が当然と思ってきたものが、互いにそう思っていたはずのものが、彼女の中から失われたような。そんな変化を突きつけられるような隔絶感だ。
強張った表情で固まる陽一。星奈は彼に、上目遣いで囁きかける。
「いつでもなんて言わないから。家にいる間だけでいいから。せめてその間だけでも……お願い、ずっと私と、一緒にいて欲しい」
縋るような声だった。
星奈の両手は、布団の上で組まれていた。陽一の方へ伸ばそうとはしない。だが、堪えるように震える、血の気の引いた指先が、嫌でも目に留まる。
背筋に悪寒が走る。脳が軋む。
それでも、陽一は必死に平静を装うと、苦り切った顔で目を逸らしながら頭を掻き、
「……仕っ方ねぇなぁ」
重々しい嘆息とともに吐き捨てる。それから、細い目で星奈を見やり、少し語気を強めて念を押すように付け加えた。
「言っとくけど、風呂とトイレは一人で行けよ。寝るのも別だからな」
「お風呂って……あまつさえトイレって、そんなの言うまでもないじゃない、恥ずかしい……変なこと言わないでよ陽一」
「てっめ……」
呆れかえった星奈の口調に、堪えきれるわけもなく陽一の額に青筋が浮かぶ。そんな彼の反応に、クスリと笑い、星奈は再び口を開いた。
「でも、寝るのは一緒じゃ駄目?」
「駄目に決まってんだろ」
「裸見せるわけでもないし、くっつくくらい普段からしてるのに?」
渋る陽一だったが、星奈はなおも食い下がる。微妙に否定しがたい言い回しに、陽一の表情がさらに曇った。
重石を飲み込んだ表情で沈黙する陽一に、星奈は邪気のない眼差しを注いでいた。陽一も容易には折れない……のだが、結局黙って待つ他に、星奈を突き放す術を持たない彼に、元より勝算はなかったのかもしれない。
鉛の溜息が、彼の口から滑り落ちた。
「……風邪治ったら、一回だけ。一回だけだからなっ」
せめてもの抵抗という体で、噛みつくような声で繰り返す。しかし、威圧的な彼の態度にも、星奈は口の端から小馬鹿にするように息を吹きだして、
「陽一。何だかんだで、私には甘いよね」
憮然と押し黙る陽一を、星奈は嬉しげに見た。多分それは、陽一が自分の思った通りの反応を示したから、自分と陽一の間に『まだ』変わらずあるものを見出したからだろう。
「……ったく、どこでそんな小賢しい真似を覚えたんだか」
諦めも濃く陽一が呻く。
そんな彼に、星奈はやはりご機嫌な微笑を向けながら、
「あ、そうだ陽一。みかんってある?」
「あるよ、缶詰だけど。お前風邪ひくと、いつもアレ欲しがるよな。食うか?」
さも当然、というように陽一が答えた。それに、星奈はさらに顔を綻ばせる。そのままこくりと頷き、彼女は言った。
「うん、食べる……ありがと、陽一」
星奈の顔を見て、陽一は何気なく「買ってきてくれたのは学だけどな」と口にしかけたのを、咄嗟に飲み込んだ。
言えば、星奈は学に対して申し訳なく感じるかもしれない。そんな想いと同時に、「陽一が気を利かせて買ってきた」と思わせておいた方が、星奈にとっても良いのではないか、なんて自惚れた直感があった。
真偽を確かめる余地はない。彼は胸中で深い溜息をつきながら、そんな胸の内を押し殺して微笑んで見せた。
「持ってくる。待っとけ」
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