第二話 春日兄妹の昼下がり

 肩を並べ、二人の男女が歩く。一人は春日陽一。その腕に、ずっと自分の腕を絡ませたままで歩くのは彼の妹。その妹の顔を見下ろして、陽一は尋ねた。

星奈せな、今日買い物は?」

 星奈と呼ばれた彼女は、ぼんやりとした表情のまま二秒黙考し、

「……一旦帰る。今からじゃタイムセールに合わない」

「そうか」

 星奈の回答に、陽一は納得した様子で頷いた。そんな彼の顔を見上げたまま、星奈はくいくい、と気を惹くように腕を引いて続ける。

「今日は卵買いたい。一人一パックだから、一緒に行こ。四時ごろ、商店街」

「ん。なら帰って洗濯機回して、昼食って」

「お風呂掃除も」

「あいよ」

 打てば響くテンポで言葉を交わしながら、二人は歩く。

 真っ直ぐ帰れば、校門から家までは十五分ほど。玄関の鍵を開けて、二人は揃って家に入ると、「ただいま」もなく靴を脱いだ。

「洗濯機回すけど、他に何か洗うものある?」

 問う星奈に、陽一は軽く首を捻り、

「いや、多分もう全部洗濯機に……ああいや、今着てるカッターくらいか」

 と、詰襟の下のカッターシャツを指してぼやいた。彼は自室の方へ視線を投げかけつつ続ける。

「明日でもいいかとは思うけど……まあ、さっさと着替えて持ってくよ。ちょっと待ってろ」

 そう言って部屋に向かおうとする陽一。

 が、その制服の裾がぐいっと引っ張られる。息を詰まらせてつんのめった彼は、やや恨めしそうな目で背後を振り返った。兄の視線を受けながら、星奈は動じずに彼をまっすぐ見返し、言う。

「ちょうだい」

「……ここで?」

「ん」

 短く唸って頷いた星奈を、陽一はしばし難しそうな表情で見下ろす。片や星奈の方は、妙に力のこもった眼差しで彼を見上げていた。

 結局根負けするように嘆息して、陽一は詰襟を脱ぐと、その下のカッターシャツもボタンを外して脱いだ。それを星奈に手渡しながら、渋い声で、

「何もそこまで急がなくたっていいだろうに……」

「ふふ」

 恨み言を聞いた星奈はしかし、何故か笑い声を零した。その口元に薄い、けれど確かな笑みが浮かぶ。

「陽一が恥ずかしそうにしてるの、ちょっと面白かった」

「兄をからかうんじゃねぇ」

「はぁい」

 呆れた調子で陽一がぼやき、あまり当てにならなそうな返事を星奈が返す。もう一度溜息をついた陽一は、制服を肩にかけて歩き出した。


 洗濯機の駆動音を聞きながら風呂掃除をして、終わったあとに洗濯ものを庭の物干しにかける。そうして陽一がリビングに戻ると、星奈がちょうど焼きそばを皿に盛りつけているところだった。

 今は彼女も私服に着替えている。安物のTシャツとスカート姿。これといった予定がないこともあって、完全にオフの格好だ。

 背は低く凹凸に乏しい体型ではあるものの、切れ長の目が感情の薄い表情と合わさって、むしろ大人びた印象を醸し出している。見る者が見れば羨むであろうさらさらの黒髪は、肩の長さで揃えてあった。

「陽一、お昼できたよ」

「さんきゅ」

 洗濯カゴを洗面所に戻し、手を洗って戻ってきた陽一に星奈が呼びかける。軽く礼を言いながら彼は椅子に掛けた。

「いただきます」

「いただきます」

 両手を合わせ、口々に言ってから、二人は無言で焼きそばを啜った。

「クラス、どんな感じだ?」

 途中、陽一が水を向けると、星奈は特に関心なさそうな声で、

「別にー、何もないよ。っていうかまだ分かんない。陽一は?」

「あの香坂と同じクラスになったのはちょっと面倒そうだな。あと学も一緒だった」

「あぁ、いたね、鎌田先輩。っていうか、え、香坂先輩? 発情犬?」

「アイツそんな呼ばれ方してんのかよ……お前が教室来たとき、学と一緒にいたのがそうだぞ」

「あれがそうなんだー……覚えとこ」

 妹の口から初めて聞いた友人の蔑称に軽く表情を歪めつつ陽一が伝える。星奈はやはり然程の興味もない様子で零していた。

 大して時間もかけずに食べ終えて、洗い物は陽一が担当する。慣れた手つきで食器やフライパンを洗い、水気を拭ってカゴに並べる。そうしてリビングに戻ると、星奈はソファーに腰かけてテレビを見ていた。

「何かやってる?」

 声をかけつつ、彼女の隣に陽一も腰を下ろす。リモコンを弄りながら、星奈はゆるゆると首を横に振った。

「あんまり。サスペンスとか見る?」

「見ねぇな」

「だよね」

 陽一の返事に細い息を吐いて、星奈はテレビを消した。リモコンをテーブルに置いた彼女は、前触れもなく隣の陽一の肩にもたれかかる。思いっきり体重をかける妹に、しかし陽一も特に文句を言おうとはしない。

 一人スマホを取り出してブラウジングを始める傍ら、もう片方の手で星奈の頭を撫で、陽一は穏やかな声で語りかける。

「新聞いるか?」

「いらない。あ、マンガある? 昨日買ってたやつ」

「部屋だな」

「えー……陽一取って来てよ」

 話している間にも星奈はどんどん脱力し、傾けた身体は今や陽一にべったりくっついている。甘えるように頬擦りさえしながら要求する彼女だったが、陽一はスマホの画面を見たままそちらを振り向こうとはしなかった。ただ、相変わらずの平坦な口調で、

「いいのか、ここ離れちまって」

 そう言った瞬間、星奈の表情が僅かに動いた。あたかも「今気づいた」とでもいう風に目を瞬いたあと、何かを秤にかけるような難しげな顔で口を閉ざす。そして言葉にならない唸り声をしばらく漏らした挙句、

「……やっぱいいや。ここにいて」

「しょうがねぇなぁ」

 口だけは仕方なさそうに言いつつ、再び星奈の頭を撫でると、彼女はさらに身体を傾けてきた。肩に預けていた頭を離し、ゆっくり身体を倒した星奈は、そのままソファーに寝転がって、頭を陽一の脚の上に置いた。

 真上を見上げた星奈と、それを見下ろした陽一の目が合う。

「何、寝るの?」

「寝ないよぉ……」

 答えながらも、星奈の瞼が落ちていく。

「いや寝るんじゃん」

「……すぅ……」

「早っ。えぇー、まぁいいけどさ」

 ものの数秒で寝息を立て始めたことに軽く驚きつつも、陽一はそれ以上何も言わずに口を閉じた。穏やかな寝顔をしばらく眺め、それから辺りを見回した。

 手の届く範囲に毛布や肌掛けはない。仕方なく、自分の背中にあったクッションを取って星奈の上に置いた。寝苦しがるかと心配したが、彼女はもぞもぞと動いたあと、抱きしめるようにクッションの上に手を置いた。

「……うへへ」

 夢でも見ているのか、目を閉じたまま相好を崩す星奈を見守りつつ、陽一はスマホに目をやった。

買い物に行くまでにはまだ時間がある。ひょっとするとそれまでここから動けないかもしれないなぁ、と思い、少し億劫にはなった。

 彼は小さく鼻を鳴らし、もう一度星奈の寝顔を見る。何とも心地よさそうに眠る妹の顔を見た彼は、

「めんどくせぇ……まぁ、いいや」

 溜息をついて、結局またスマホを弄り始めた。

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