乙女のためのユニコーン戦記

兎月竜之介

第1章:ユスティナと巨神ユニコーン

1-1:巨神の巫女、ユスティナ

 誰かに呼ばれた気がしてユスティナ・ピルグリムは振り返る。


 男の声でもなければ女の声でもない。若者の声でもなければ老人の声でもない。あるのは自分の名前を呼ばれた実感だけで……そして、それはユスティナにとって幼い頃から頻繁に感じていたものだった。


 でも、今日に限っては妙な胸騒ぎを覚える。

 これは気のせい? それとも――


「そして、主は言われた」


 聖書を読み上げる父――アダム・ピルグリムの声を聞いて、ふと我に返る。


 コーンヒルの村の片隅にある小さな教会が二人の住まいである。

 小高い丘を背にして建っている教会は、丘の上で暮らしている富裕層と丘の下で暮らしている村人たちを繋いでいる。安息日になれば村中から教会に人が集まり、そのときは生まれや育ちに関係なく皆で聖歌を合唱するのだ。


「自分を愛するように隣人を……あなたの敵すらも愛するべきなのだと……」


 ユスティナの仕事は村人たちから預かった子供たちの面倒を見ることだ。


 いつも両手では数え切れない子供たちが教会に集まる。

 家庭の事情で学校に通えない子、家族の仕事を手伝うには幼すぎる子、家族を亡くして行き場に困っている子……そんな子供たちの遊び相手になってあげたり、勉強を教えてあげたりするのだ。


 子供たちは教会の庭先で聖書の読み聞かせに耳を傾けている。

 ユスティナは自ら手入れした花壇の縁石に腰掛けて、立派に務めを全うする父の後ろ姿を誇らしい気持ちで眺めていた。


 母親はユスティナを産んだあと、すぐに体調を崩して亡くなったと聞いている。しかし、ユスティナは父が悲しみに暮れて自暴自棄になったり、他の女性になびいたりしている姿を見たことがない。

 聖書に出てくる聖人たちよりも、歴史書に出てくる偉人たちよりも、ユスティナにとっては父が世界で一番立派だった。


 聖書の読み聞かせが終わった途端、子供たちは教会の庭に散らばっていった。

 なにしろ片手で数えられるような歳の子たちである。

 聖書の内容なんて理解できないよなぁ……と十三歳のユスティナは思うのだった。


 自分だって内容を理解しながら父の読み聞かせを聞くようになったのはここ数年の話で、しかも神父の娘だからといって信心深いわけでもなく、いつも頭の中にあるのはどうやって日々の生活を成り立たせるかということばかりである。


 そうそう、今日はミサ用のパンを作るのに小麦を買っておかないと……それからもちろん酒屋さんから赤ワインも受け取って……四本くらいなら布袋に入れて一度に運べるよね? それから、お砂糖が安かったら子供たちにおやつを何か作ってあげて……。


「聖書はやはり退屈かな?」


 子供たちが周りから離れていき、ぽつんと一人になった父が聞いてきた。

 ユスティナはエプロンドレスのすそを払いながら立ち上がる。


「退屈っていうわけじゃないけど、なんだか遠い世界の話だなって思っちゃうよ」

「それはどうして?」

「隣人を愛するように敵を愛するとか、右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せとか、ものを盗まれたら残りも全部あげちゃうとか……それを実戦できる人がいるとしたら、ものすごく近づきがたいんじゃないかって思う」

「確かに」


 聖人の説教を聞くかのように父が深々とうなずいた。

 ユスティナが聖書の文言についてあれこれ言っても、父は一度も怒ったことがなかった。普通の大人なら「へりくつを言うな」とか「ナマイキを言うな」と腹を立てそうなものだが、父はむしろ嬉しそうに耳を傾けてくれた。


「それにもしも自分の大切な人がひどい目に遭わされたとしたら、犯人は絶対に捕まえなくちゃいけないと思う。だって、ものを盗んだり人を殺したりする人の中には、同じ犯罪を何度も繰り返す人もいるでしょ? 敵を愛すようになんて言われても、その敵がもっとひどい犯罪に手を出しちゃったらどうするんだろう?」

「実に興味深い考察だね」

「そうかな……」

「実際、敵を愛せる人はそう多くない。あなたの敵を愛しなさいというのは……つまりは目標なんだよ。敵とすら仲良くなることができたら、恐ろしい事態になるのを未然に防げるかもしれない。それに誰かからひどい目に遭わされたとしても、もしかしたら相手に深い理由があったりするかもしれないだろう?」


 なんだか煙に巻かれたような気がしないでもない。

 本当に理由もなく悪いことをする人だっているだろう。生まれつき人の嫌がることをするのが好きな人だっているかもしれない。そういう人と出会ってしまったら最後、こっちは嫌がらせをされっぱなしなのだろうか?


 ユスティナが「うーん……」と唸っていると、父が嬉しそうに笑い声を漏らした。


「今は分からなくてもいいさ。考え続けることが重要なんだからね。考えるのをやめてしまったら最後、その人には周りからの声が届かなくなってしまう。答えのなかなか見つからない問題についても考え続けることが大切なんだよ、巫女さま」

「み、巫女さまはやめてよぉ!」


 その呼び方をされると無性に体がムズかゆくなってくる。


 ユスティナには全く自覚はないのだが、父曰く自分は巫女の血を引く末裔であるらしい。父は国教の神父をしているが、ピルグリム家をさかのぼると元々は村に伝わる『巨神』を信仰していた一族なのだとか……。


 といっても、王国政府から国教へ改宗するように迫られたとき、巨神を信仰していたときの祭具や資料は全て焼いてしまったらしい。そのため、ピルグリム家は先祖代々「うちは巫女の家系らしい」と口伝えにしてきたという。きっと最初は詳しく伝えていたけど、次第に詳細な情報が欠落していったのだろう。


 ユスティナもその伝説を本気にしていた時期があり、コーンヒルの名前の由来にもなった丘一帯を探し回ったり、丘の裏手に広がっている森を探検したりしたこともある。しかし、巨神らしいものどころか手がかりすらも見つからなかった。


 父は立派な人格者に見えて、かなり茶目っ気があることをユスティナは知っている。この前もこっそりワインを味見させてくれし、二人で魚釣りに行くといつも本気の勝負になる。そんな父であるからこそ、ありもしない伝説を語り聞かせて本気にさせようとしているのでは……という懸念がどうしてもぬぐえないのだった。


「もう! 私、買い物行ってきちゃうからね!」


 ユスティナは大きな布袋を抱えて教会の庭を出る。

 父がにこやかに手を振っていたので、彼女も大きく手を振り返した。

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