虹を見にいこう 第16話「ウェザーリポート」

なか

Chap.16-1

 JR新宿駅、山手線の朝はまだ暗いうちに始まる。

 平日、内回りの始発は四時四十二分。日の出が遅い今の時期は、夜明け前と言ってもいい。広い駅構内のどこかでガラガラとシャッターの開く音がしていた。

 終電を逃しどこかで一夜を過ごした人や、朝まで飲み明かしたと思われる大学生、これから家路につく水商売のお姉さん達、それらに混ざって通勤サラリーマンの姿もちらほら見られた。新宿駅ほど様々な人々、それぞれの生活が交差する場所は他にないと思う。

 駅のホームから見える空は星も見えず、吐く息が白いもやとなってかすんでいった。霧雨は相変わらず町に漂い、ターミナル駅として慌ただしい一日が始まる前の静けさを感じさせた。

 僕とタカさんは、山手線内回りの先頭から二両目の車両に乗り込むと、ドア付近の席に並んで腰を下ろした。バイト帰りのタカさんを早朝の山手線に誘ったのだった。始発からは既に数本、運行が始まっていた。

「こんな早い時間に電車に乗るのも新鮮だな」

 タカさんは物珍しそうに、車内へ目を配った。座席下の電気ヒーターの温もりが尻に伝わる。乗客の姿もまばらで、話をするのに丁度良い。

 山手線内回りはまず四谷、原宿、渋谷、恵比寿といった若者で賑わう繁華街を目指して行く。車窓に映る景色はまだ闇に沈んでいて、昼の賑わいは感じられなかった。ぽつりぽつりと町の灯火が過ぎ、車内広告の液晶モニター『トレインチャンネル』では、何処かの企業CMが流れ始めた。

「こうして山手線で、一平はいつもぐるぐる回っているのか」

 車窓に目を向けたタカさんが感慨深そうに言う。

「いつもじゃないです。たまにです」

 言い訳めいたことを口走ってしまう。予定のない休日に都内を山手線でぼうっと巡回しているのが好きなんて、あまり胸を張って言えるような趣味じゃない。

「俺にもわかるんだ。電車に乗って考え事をすると、頭の中の整理がつくこともある」

「タカさん、仕事明けで疲れているのに、すみません。景色が動いている方が、いろいろ話しやすいと思って」

「ん、俺も今日は帰ってすぐ寝れる気分じゃなかったから、丁度良いよ。一平こそ、会社は大丈夫なのかい?」

「はい。昨日、今日と溜まっていた代休の消化です」

「そうか」

 その顔には、やはり疲れが浮かんでいた。新宿二丁目の飲み屋さん、タカさんがバイトをする店は平日から混むような店でもなかったと思うが。

「お店、昨晩は大変だったんですか?」

「雨が降っていたから、お客さんは少なかったよ。ただ、だいぶ遅い時間におケイさんが来たもんでね」

 ため息に混じりにタカさんが言った。

 意外な名前だった。DSバーのマスターおケイさん。

 恐らく……タカさんのお店に火をつけ『ちむどんどん』を休業に追い込み、僕らのマンションへカミソリ入りの脅迫状を送りつけた張本人だ。今更何のつもりでタカさんのバイト先まで押しかけたのか。また何か嫌がらせをされたのではないかと心配になった。

「日付が変わったくらいだったか。メールでオーナーに断りを入れて店じまいをしようと思ってるところにね。おケイさんも、自分の店を終わらせて来たのだろう。入ってくるなり、急に大声で泣き始めたので、まいってしまった」

「おケイさんが?」

 あの人が泣く? 想像することも出来ない。

 腰をくねらせるように大きな尻を振り、てるてる坊主を連想させるメリハリの無い顔立ち、人を見下す冷ややかな視線。存在感だけはド迫力で、きっと人一倍プライドが高くて、人前でそう簡単に涙を見せるような人ではないと思う。

「他にお客さんがいなくて良かったよ。最初は何で泣いているのか要領を得なかったのだが、そのうち、どうやら謝っているとわかってね」

 タカさんの横顔へ、車窓の灯がさっと影を落としていった。

「ちむどんどんの火事の原因は、一平の言う通り、おケイさんだったよ」

 タカさんは、おケイさんが語った内容を淡々と話し始めた。


『タカちゃんがお店やめるって聞いて。わたし、いてもたってもいられなくて。沖縄に帰るとか……わたしのせいだったらどうしようって、そればっか気になっちゃって』

 おケイさんはわんわん泣きながら、差し出したオシボリで鼻をかみ、今までのことを打ち明けたのだった。周年パーティーの時に、タカさんのお店でボヤ騒ぎを起こしたのはワザとではなかったのだと。周年のご祝儀も受け取ってもらえず、つまはじきにされたと思ったおケイさんは、イライラした気持ちを落ち着けようと、店のトイレでタバコに火をつけた。タバコをふかして、自分の何が悪かったのかと思いを巡らせた。

 指をケガしてしまったタカさんの代わりに皿やコップを洗ってやり、忙しい時に店を回すコツも教えて上げた。いくら考えても自分に非は見当たらず、諦めて吸い殻を捨てる場所を探した。ゴミ箱だと思ったカゴがまさか予備のトイレットペーパー入れだとは思わなかったのだ。

『だってわたしのお店、タカちゃんのとこみたいにアジアンテイストじゃないし。籐のカゴなんてゴミ箱以外思いつかなかったの……本当なのよ』

 ボヤ騒ぎになってしまい、おケイさんは青ざめた。タカさんに嫌われたくない一心で、シラを切り通すしかなかった。結局、それが後ろめたさとなり、常に自分が疑われているのではないか、嫌われているのではないかと、被害妄想の悪循環に陥ることになった。

『タカちゃんにかまって欲しかっただけなの。でもわたしが何かする度に、どんどんタカちゃんから遠ざけられてるような気がして。タカちゃん、わたしの店には一回も来てくれなかったでしょう? 出しゃばり過ぎちゃったのよね。もう自分からタカちゃんに近付くのはよそうと思って、ずっと待ってたの、ずっと。でも我慢ができなくて、気を引きたいだけで変な手紙も出しちゃって……バカね、わたしったら』

 その変な手紙というのが、カミソリレターだった。

 やはりおケイさんが直接、僕らの部屋へ封筒を投函をしていたのだ。どうやってロビーのオートロックをかいくぐったのかと思ったら、ただマンションの住人に歩調を合わせただけだった。自動ドアも出て行くときには、特に暗証番号や鍵は必要ない。セキュリティがちゃんとしているという思いこみが、僕らにもあったのだろう。

 好きな人の気を引きたくて、相手の嫌がることをしてしまう。小学生男子のようなロジックだけど……チャビのストーカーだった男も、始めは些細ささいなことからエスカレートしていったのかもしれない。僕にだって身に覚えがある。大学時代の親友へ一方的に邪険な態度を取ってしまった。忘れようと心に決めて、自分から相手を避けたり、嫌がらせをしておいて、心の底では、声をかけられることを待っている。相手にされたくて焦がれている。どうにもならない片思いの行く末は、こじらせてしまった風邪よりもずっと性質たちが悪い。

 タカさんに脅迫状のことを話しておいて良かった。隠していたことがリリコさんにバレてしまった翌日、タカさんにもカミソリの入った封筒を見せていたのだ。おそらく、おケイさんが怪しいと付け加えて。

『またそうやって証拠も無く、誰かを疑ってはダメだ』

 とタカさんは言ったのだが。

 おケイさんはクリクリした小さな目を涙でいっぱいにして謝った。もし、自分のせいで沖縄へ帰るなら、どうか思いとどまって欲しい。もうタカさんには二度と近付かないと約束をする。また『ちむどんどん』を再開して欲しい。タカさんにお店を続けてもらいたい。そうおケイさんは店の床にひたいをこすりつけるようにして、土下座をしたのだった。


「沖縄に戻るのは、おケイさんのせいじゃないと説明をするのに二時間はかかったよ」

 苦笑いをするタカさん。意外なことの顛末てんまつに、開いた口がふさがらなかった。

「思えば、昔からおケイさんはあんな感じの人だったなあ。少し人より思い詰めてしまうのだろう。実は、俺が最初にバイトをした店で、チーママをしていたのがおケイさんでね。客のあしらい方も、酒の作り方も、二丁目の作法振る舞いは、全部あの人に教えてもらった。俺よりも早く自分の店を持って、入れ替わりの早いあの町で、今でも商売を続けている。そういう才覚があって、ちょっとだけ不器用だが、悪い人ではないんだ。本当にどうしようもない人のところには、客も寄りつかないだろう」

 そうだとしたら……。

 そんな古くからタカさんの近くにいて、タカさんのことを見て来たのなら、タカさんに一番長く片思いをしていたのは、僕でもリリコさんでもなく、もしかしたら、おケイさんなのかもしれない。

「そんなわけだから、あまりおケイさんのことを責めないであげて欲しいんだよ。店が火事になったことは残念だし、みんなにも心配をかけてしまった。だが、これからのことを考えるキッカケにもなった」

 タカさんはそう言い添えた。

 タカさんの店が燃えてしまったいきどおり、リリコさんと一緒におケイさんから浴びた罵声も、思い返せば今でも悲しい気持ちになって、すぐには納得できないし、無かったことにもできない。でも全部わかったうえで、タカさんが許すと言うのなら、もう口を挟めなかった。タカさんが沖縄に帰ってしまうことにも変わりはない。おケイさんのことは、僕の中で時間を置いて整理をしないといけないのだろう。


Chap.16-2へ続く

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