及川小次郎

 ツバサ先生に紹介されたのは及川小次郎氏、御年九十一。経歴も調べたんだけど、父親の急死により二十六歳の若さで社長を継ぎ、町工場に毛の生えた程度だった及川電機を今の規模に育て上げた立志伝中の人でイイみたい。


 及川氏で有名なのはカメラ関係なら及川CMOS。これが出た時にはデジカメのイメージセンサーをまさに席巻したってなってる。他にも先進的なヒット商品多数。現代のエジソンなんて呼ばれた時期もあるみたい。


 六十歳の若さで娘婿に社長の座を譲り会長に。これも業界では衝撃をもって迎えられたみたい。そうだよね、オーナー社長なんて、下手すりゃ死ぬまで社長やるのが普通だものね。


 オフィス加納が及川電機のカレンダーの仕事を始めたのが、及川氏が社長になって三年目の二十九歳の時っていうから六十二年も前のこと。そこから四十七年間も延々と続いてる。これが途切れたのは加納先生の夫が癌を発病し、これを機に加納先生が引退し、オフォスも閉じてしまったからなのも初めて知った。


 ここからは及川電機のその後みたいな話になるんだけど、娘婿が社長を継いでから業績は徐々に傾いていったみたい。そして四年前にエレギオン・グループの傘下に入り経営陣は責任を取って退陣。及川氏も会長を辞任してる。


 この時に及川氏は八十七歳になってるんだけど、なんとこの歳で再び及川電機の技術顧問を要請され、あの及川センサーの開発の総指揮を執ってる。うん、この経歴を読むだけでタダのジジイでないのはアカネにも良くわかる。



 住所を頼りに訪ねたんだけど、閑静な高級住宅街の一角にあるお屋敷。門のところに『及川』って立派な表札もかかってるから、ここで間違いなさそう。しかしまずったな、もうちょっとマシな格好をしてくりゃ良かった。


 つい、いつもの調子でTシャツ、ジーパン、スタジャンにスニーカーで来ちゃった。つうか、これしか持ってないし、これ以外といえばローマでツバサ先生に買ってもらった一式だけ。あれはあれで、ちょっと合わない気もする。それよりなにより、あのヒールで歩くのは拷問だ。


『ピンポン』


 しばらくすると老人が出てきた。開口一番、


「ほう、君が渋茶のアカネ君か。麻吹先生から話は聞いている」


 だ か ら、渋茶は余計だって。案内されたのは応接間で良さそう。


「カレンダーの話を聞きたいのだってね」

「はい、この度御依頼を頂いたのですが、製作意図などを確認させて頂きたくて」


 及川社長はツルっぱげ。でも九十一歳ととても思えないほど矍鑠としてる。さすがは立志伝中の人と思ったけど目は優しい。そこだけ見てるとまさに好々爺。


「あれを初めて依頼したのはもう六十年以上前の話になる。熱い時代だったよ、とにかく一流企業にのし上がってやろうと背伸びしまくってた時期だ。カレンダーだって一流のものを出してアッと言わせてやろうぐらいだった」

「だからオフォス加納に依頼を?」


 及川氏は含み笑いをしながら、


「アカネ君には想像もつかないかもしれないが、当時のオフォス加納といっても無名もイイところだったのだよ。オンボロ・ビルの小さな貸事務所だったからね」


 オフィス加納もそんな時代があったんだ。


「加納先生も売り出し中でね。ようやくその名が広がり始めたぐらいだった」

「では加納先生を見込まれて?」


 及川氏は悪戯っぽく笑われて、


「腕を見込んだのはウソではないが、加納先生を選んだのはコスパだった」

「コスパ?」

「そう、背伸びはしてたが足元は脆弱でな、わかりやすく言えばカネがなかった。限られた予算で一流のものを作れる可能性が加納先生にはあると思ったぐらいだ」


 加納先生にも苦労した時代があったのは前にも調べたけど、この頃はこれぐらいの扱いだったんだ。


「お聞きしても良いですか」

「かまわんよ」

「御社のカレンダーをすべて見させて頂いたのですが、一つわからない点があります。加納が撮ったのは記録から明らかですが、あれだけ撮って、一枚も光の写真が見当たらないのです」


 及川氏はニコニコしながら、


「たいした話じゃないんだが、依頼料を値切ったんだよ」

「それで」

「あんまり値切り過ぎて加納先生を怒らしてしまってな、


『そこまで値切るなら光の写真は使わない』


 こう言われてしまったのだ」


 どんだけ値切ったんだろ。


「私も若かったなぁ。光の写真を撮らない加納先生の写真なんて一文の値打ちもないも言ったんだ」


 こりゃ、子どもの喧嘩じゃない。


「そしたら、加納先生は光の写真抜きでも、私を唸らせる写真を撮るのは簡単だって啖呵を切ったんだ」


 加納先生も喧嘩っ早いところがあったんだ。


「撮れるなら撮ってみろってことで交渉成立」


 まさに売り言葉に買い言葉って奴だな、


「カレンダーが出来上がった時に驚いたよ。そして加納先生に惚れこんだ。それ以来のお付き合いだった」


 ツバサ先生も光の写真はトレード・マークだけど、光の写真を使わなくても凄腕なのはよ~く知ってる。加納先生もまたそうだったのも良くわかった。だって及川電機のカレンダーを初めて撮影したのはまだ三十一歳の時だよ。その時点であれだけの写真が、もう加納先生は撮れてたんだ。


「どうしてカレンダーの依頼を再び」

「老人の懐古趣味と笑ってくれ。死ぬ前にもう一度、見たくなった」


 げげげげ、こりゃ厄介だ。たとえばね、評判の良いレストランがあるとするじゃない。そこのシェフが下手に神格化なんかされちゃうと、二代目はムチャクチャ大変になるんだ。評価されるには先代を明らかに上回るぐらいでやっと互角って感じ。


 加納先生が亡くなられてから十年経つけど、そんな芸当が出来る人間はツバサ先生ぐらいしかいないと思う。アカネもいずれそうなる予定だけど、今すぐは無理。


「最初は麻吹先生にお願いするつもりだったんだが、どうしてもアカネ君にやらせて欲しいと頼み込まれてな」

「えっ」

「私も快く了承した。麻吹先生があそこまで推すのなら間違いないだろうって」


 ちょっとツバサ先生、無茶振り過ぎる。


「今日、アカネ君に会えるのを楽しみにしてた。期待してますよ」

「期待といわれても、あの、その、今の限界が・・・」


 あれ、及川氏の目付きが急に変わった。


「自分の可能性に限界を考えてはいかん。限界を考えた瞬間にそれが限界となる。いつも通過点だと考えるのだ。加納先生は偉大だったが、アカネ君、それさえ通過点だと思い給え。ワシはいつもそうしてきた」


 ビビった。なんちゅう迫力。さすがは老いても及川小次郎ってところかも。若い時はもっと凄かっただろうし、そんな及川氏と渡り合っていて加納先生も凄かったんだろうな。でもイイこと聞いた気がする。


 アカネもプロの端くれだし、これからもっともっと成長する予定。そうだよ、ツバサ先生さえ追い抜いちゃう予定なんだ。そのためには加納先生を抜かないと話にならないじゃない。もう少し先の予定だったけど、それが早まったと思うんだ。というか、そうでも思わないとシャッターすら切れないぐらい怖い。


「ところでアカネ君、良ければカメラを見せてくれないか」


 ヤバぁ、カレンダー写真に参考になりそうな風景があれば撮っとこうと持って来てるんだよねぇ。


「いや、まだ、えの、まだ駆け出しなもので・・・」


 おずおず差し出したら、及川氏はあれこれ触りだし、


「アカネ君、ちょっと撮ってもイイかな」

「かまいませんが」


 何枚か撮る度に首を傾げ、また何枚か撮っては考え込み、


「いつ買ったものかな」

「中二の時に」

「八年前か」


 ようやくカメラを置いた及川氏は、スマホを取りだして、


「ああ、及川だ・・・カメラのオーバーホールを頼む。これも悪いが急ぎでやってくれ・・・なに、バカ言っちゃいかん・・・もっと早くならんか・・・もっとだ・・・それ以上は無理なら仕方ない・・・泉茜君だ・・・よろしく頼む」


 電話を切った後に。


「私のカメラの腕は下手の横好き程度だが、根は技術屋だ。カメラの具合がどうなってるかはわかる。今すぐ、ここに行って見てもらいなさい」


 えっ、今からって思ったけど、及川氏の好意を無にするのは悪そうだから行ってみた。

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