ひとつの器【カラダ】にふたつの精神【ココロ】


 液体の中で溺れた僕の意識は、いつしか闇に包まれていた。


 身体に纏わり付く液体の感触も、鼻をつくアルコールの臭いも、四肢の自由を奪う流動も、次第に感じられなくなって――【僕】は、まるで何もない空間にぽつんと浮かんでいるかのような感覚の中で【溺れていた】。

 

『ふ、なんと無様な格好か――それでも貴様、【俺】の【器】か?』


 【俺】の声が聞こえる。


 【俺】の名はアシャ。


 僕の身体に入り込み、僕の身体を乗っ取って、僕の身体を【器】と呼んで憚らない、僕の身体の中にいる、【僕】ではない存在。


 僕の四肢に嵌められた枷によって、自我ココロ無限の能力チカラを縛られた、【異界の覇王】。


「あいにく僕は、君と違って普通の人間だからね――だから、もうすぐ死ぬかもしれない」


 訥々と語る【僕】に、【俺】は嗤うように応えた。


『その割には随分と落ち着いているではないか』


「現実感が――無いからかな。君が僕の中に入ってきてから――僕の身体は、【僕】だけのものではなくなったから――僕は【僕】として生きているのか、君の【器】として生きているのか――なんだか、とても曖昧で――」


『ふむ――だが、それは俺とて同じこと。


 ひとつのカラダに、ふたつの精神ココロ


 それはヒトとして、本来、ありうべからざるカタチ。


 それゆえ、いつか――いつしか、我らは俺でも貴様でもない【別の何か】になるやも知れぬな――もっとも今の俺にとって、この先どうなるかなど知ったことではないが』


 僕の中に【僕】と【俺】が混在することで、やがて僕らはそのどちらでもない【何か】に成り果てる――かも知れない。そんな【俺】の言葉すら、僕にはあまり響いてはこなかった。


 そんなことより、もっと大事なことがあったはずだから。


 溺れる意識の中で、僕は思い出した。


 そうだ――何故、死を前にしてもこれほど何も感じないのか。


 死ぬよりも前に、やるべきことが残っているから。


 あのたちをそのまま放っておいて、死ぬなんてことはできないから。


 そして、その気持ちを抱いているのは、たぶん――【僕だけじゃない】から。


 だから、思い出そうとしている。暗転した思考の中で、なにより優先すべきことを。全神経を注ぎ込んで思い出そうとして――。


『ふ、それにしても【死にたくない】と泣き喚いていたこの間とは随分と違う』


「今だって【死にたくない】よ。だけどその思いは――もう【僕】だけのものじゃないから」


 【僕】の言葉に、【俺】は何も言わず、眉を潜めているかのような束の間だけが残った。


「さっき君は言った。ひとつのカラダにふたつの精神ココロ――抱く気持ちが同じならば、【僕】の受け持つ分は半分でいい――」


 【俺】は黙ったまま、【僕】の言葉を聞き続ける。


「そう、【死にたくない】のは君も同じだろう? せっかく手に入れた僕というカラダを君は失いたくないはずだ。だって、カラダを失えば、君はまたあの何もない空間へ逆戻りだから」


 少しの間を置いて、【俺】は言う。


『――それは違う、と言ったら?』


「君は僕だ――自分に嘘はつけない」


 【俺】は、ふんと不愉快そうに鼻を鳴らし、押し黙った。


「だから、僕の中にいる君にお願いだ――【死にたくない】のなら、僕に力を貸してほしい。そして、僕たちを――あの女の子たち――瑞穂ちゃんたちを――その力で助けてほしい」


 その時、僕の腕を何かが掠めた。と同時に、枷の重みが抜けていく。


 枷が断ち切られたのだ、とわかった。


『ふん――案ずるな、今しがた俺を縛りし枷は断ち切られた。我が力を以てすれば、この程度の敵などものの数分で殲滅してくれよう』


 僕の額に何かが触れた。


 あの時と同じだ。そこを起点にして、ぐいぐいと【僕】ではない【俺】が、頭の中へと流れ込んでくる。まるで、ドロドロに溶けた何かが、僕という器の中に注ぎ込まれていくかのような。


「それと、もうひとつ――お願いがあるんだけど」


 薄れていく自我の中で、【僕】は目の前にいるだろう【俺】へと語りかける。


『なんだ――? 単なるカラダの分際で、覇王である俺に命令するなど身の程をわきまえよ』


「いや、だから【お願い】だ――その敵というのを、殺さないで欲しい」


 少しの沈黙。【俺】は、意味がわからないとでも言いたげに【僕】へと問いかける。


『それは――何故だ?』


「あれは――人間だから」


 耳元で響く【俺】の嗤い声。


『クハハハハ……! だから何だというのだ貴様。人殺しは嫌ということか? 何という甘さだ。それで【俺】の【器】というのだから笑えてくるわ。よいか――覇王の【器】として覚えておけ。敵を殺さぬ甘さは自身を殺し、滅さぬ慢心の因果は廻りて己が国を滅ぼす、と』 


 一頻り嗤い終えると、ぐいぐいと【僕】の中へと流れ込みながら【俺】は続ける。


『それに、あいにくだが【断ち切られた】のは【右腕の枷】だ。知っての通り、あれに封じられしは純粋な破壊と殺戮の力。そうだな――せめて苦しませることなく瞬間的に蒸発させてくれようか。もちろん肉片ひとつ、塵ひとつ残すことなく、すべてを滅するようにしてな。これもひとつの救いのカタチと言えようか』


「それじゃ駄目なんだ――!」


 残り僅かになった自我の中で、僕は叫んだ。


「方法はある――そう方法なら考えてる。君になら簡単なことだ」


『ほう――? だが、何故そこまで、人間を殺さぬことに拘る? その敵とやら、かつては人間ではあったが、今は魔族マギアイドラに取り憑かれ変貌した外れし者であろう。もはや人間としての自我など欠片ほども残ってはおらぬかもしれぬ。それに、外界から隔絶された【領域・白アルバレア】の中であれば、肉片ひとつ残さずに滅してしまえば、この世界での罪殺人罪に問われることもあるまい』


 嘲るような【俺】の声を遮るように、僕は呟いた。


「それでも――僕は人間を殺したくない。そんなことをしたら――これ以上誰かが死ぬようなことがあったら――。


 ――たぶん、瑞穂ちゃんは、とても悲しむだろうから――」


 頭の中が泥で満杯になりつつあった。


 もはや自分で話している内容を自分でも聞き取れないくらいに、意識は薄らいでいた。ただ一本だけになった細い糸のような視界の中で、【僕】は【俺】の口元が歪むのを見た。


『ふん――そこまで言うのなら、考えてやらんこともない――か』


 それは意外な【俺】の言葉。


 唯一残されていた細い糸は途切れ、暗闇へと落ちていく【僕】の意識は、完全に失われる間際、最後の最後のところで、【俺】の呟きを聞いた。


『勘違いをするなよ。貴様の願いを聞いてやった訳ではない。


 ――ただ単に、俺も――あの小娘の泣き顔を見たくはないと思っただけだ』



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