第52話 アンジローの決意③


 三十分後。

 安藤は兄、一郎のマンションの私室兼仕事場にいた。

 デスクには様々な機材が並び、映像クリエイターである一郎はパソコンのキーボードをかちゃかちゃと操作する。


「ようするに、旅費がほしいんだな?」


 ディスプレイから目を離さずに兄が後ろに立つ弟に言う。


「う、うん。パリから鉄道で行くのが一番安くて……航空券はこれから買うんだけど、帰りの航空券とか、向こうで使うお金が必要なんだ」


 一郎はなにも言わずにマウスを動かす。静かな部屋でカチカチとダブルクリックする音。

 

「もちろん、お金は時間かかっても返すから……」

「ふーん……ちなみにいつまで向こうにいるんだ? 宿泊費とかどうすんの?」


 いきなり投げかけられた質問は的を射ており、安藤はすぐに返答できなかった。


「え、あ、泊まるところは教会のマザーさんが用意してくれてて……とりあえず、今月の第四日曜日まで彼女を探そうと」


 以前に彼女が語ってくれた誓願式の日付だ。

 ちらりと一郎がディスプレイ脇に置かれた卓上カレンダーに目をやる。

 

「いつから行くんだ?」

「出来るだけ早めがいいんだけど、準備もあるから……明後日かな」


 となると、明後日から出発したとして実質十日間の滞在かとふたたびカレンダーを見ながら。


「なぁ次郎。俺が前に言ったこと覚えてるか? 人生は一度きりだって」

「うん、覚えてるよ」

 

 忘れようがない。兄からかかってきた電話がきっかけで彼女を追って空港まで行ったのだから。

 もっとも、間に合わなかったのだが……。


「もしかしたら、今度もまた会えないかもしれないぞ」

「うん」

「その覚悟は出来ているのか? だいいちお前、受験控えてるだろ。時間をムダにするかもしれないし」


 たしかにそうだ。スペインに行ったからといって、少ない手がかりで彼女に会える可能性はごくわずかと言っていい。

 それこそ奇跡でも起こらないかぎりは、だろう。

 だが、それでも……それでも、だ。


「俺、それでも行くよ。もう二度と後悔はしたくないから……今度はちゃんと自分で納得のいくまでやり遂げたいんだ」


 兄の頭がわずかに動いたかと思うと、くるりと体を弟の方へ。


「そうか」


 にかりと笑うとデスクチェアから立ち上がるなり、弟の頭をくしゃくしゃと撫でる。


「でかくなったな。まだちいさいときはいつも俺の後ろを付いてきてたくせに」

「ちょっ! いまさらそんな子どもの頃を言われても……!」


 照れるな照れるなと髪型を直す安藤をからかう。


「もういいよ! 兄ちゃんにお願いしようとした俺がバカだったよ」


 顔を赤くしながら踵を返そうとするところへ、一郎が「待て」と呼び止めたのでしかたなく振り向く。


「なに?」

「持っていけ」


 一郎が放り出したのを慌てて受け取ったそれは封筒だ。それも厚みがある。

 中身を確認すると万札がぎっしりと入っていた。


「え、これ……!」

「それぐらいあれば充分だろ? 出世払いでいいぞ。あと、これも持ってけ」


 次に受け取ったのはスマホを一回り大きくしたもの――Wi-Fiルーターと変換プラグだ。


「ヨーロッパでも対応してるやつだ。それとルーターは充電器にもなるからな」


 使いすぎるなよと念を押す。


「ありがとう! 兄ちゃん!」

「なに、フランチェスカさんと、ついでにかわいい弟のためだからな。そういえば親父とおふくろはこのことは知ってるのか?」


 そう問われ、うっと言葉を詰まらせる。


「実はそれが一番の問題なんだ。正直に話しても行かせてくれるかどうか……」

「熱意を見せれば大丈夫さ。お前の行きたいという気持ちをな。俺が映像クリエイターになりたいって言ったときも反対されたもんさ」

「そうなの?」


 一郎がこくりと頷く。


「自分の好きなことを仕事にしたいという気持ちを打ち明けて、ようやく今の仕事に就けたんだ」


 だから次郎、と正面を見据える。


「お前もフランチェスカさんに会いたいという気持ちをぶつけてこい」


 サムズアップしながらぱちりとウインクしようとするが、片方の目が半目になってしまっている。


「兄ちゃん、ウインク下手すぎだよ」

「ほっとけ!」


 †††


 翌日。安藤家では親子三人がダイニングにて夕食を囲んでいた。

 テレビからはニュースが流れ、父が「物騒だな」とこぼし、母が「そうねぇ」と合いの手。

 安藤は話すタイミングを掴みかねているのか、いつまでももぐもぐと咀嚼そしゃくさせていた。

 やがて画面のなかのキャスターが「ニュースはこれで以上です」と頭を下げ、テーマソングが流れたところでごくりと飲み込む。

 話すなら今しかない。すでに旅行代理店で航空券を手に入れ、旅支度も整えている。

 かちゃりとはしを置く。


「あ、あのさ」


 そう声をかけようとした時、父が言葉を発するのが早かった。


「次郎は最近、勉強頑張ってるな」

「へ? あ、う、うん」


 しまったと思っても後の祭りだ。それに構わず父がさらに続ける。


「調理師目指してるんだろ? 良いことだ。自分のやりたいことが見つかったことは」


 うんうんと頷く。


「でも油断はするな。気を引き締めるんだ」

「うん……」

 

 頑張れよと父に笑顔で励まされると、ずきりと安藤の心に棘が刺さるような感覚が。


「ごちそうさまでした……」


 そう言って食器を下げ、ダイニングを出る安藤の背中を母が見守る。


 †††


 自室に戻った安藤はそのままベッドに倒れ込み、大の字になった。


 まいったな……完全にタイミングを逃した。


 ぼんやりと天井を見つめたのちにパジャマのズボンのポケットからスマホを取り出し、画面を開く。

 最初にラインを開いてみるが、相変わらず彼女からメッセージはなにも来ていない。

 戻って彼女から送られたビデオメッセージをタッチして再生を。

 彼女がスペインに帰ってから送られたものだ。

 動画が再生され、画面の向こうの彼女は次第にこらえきれずにぼろぼろと涙を流す。

 

「あたし、ホントは日本に帰りたい。アンジローと、まいまいのいるところに帰りたいよ……」


 窓の外から聞こえる鐘の音が止むのを待ってから話し始める。

 やがて父が来たらしく、ノックの音が。次に画面にフランチェスカの手が伸びたかと思えば、動画は止まった。

 何度この動画を繰り返し見たことだろう。彼女の悲痛な顔を見るたびに、安藤はいたたまれない気持ちになる。

 自分の無力さを嫌でも実感させられてしまう。


 ――――今までの安藤ならそうだったろう。

 

 だが、この時の安藤は違っていた。目には力強い決意がありありと出ている。

 机の脇のほうに目をやると、旅支度が済んだバックパックが。

 ベッドから起き上がり、机に向かうとその上に置かれたものを手に取る。

 紺色の五年用パスポートだ。最初のページをめくって有効期限を確認する。

 スペイン滞在期間が90日間の場合はビザは不要。出国時に必要な三ヶ月以上の残存期間も充分にある。

 何度も確認し、うんと頷く。

 もう後戻りは出来ない。

 今度こそはきっと、いや必ず彼女を探し当ててみせる。


 もし会えたら、その時は――――


 窓の外に広がる闇夜を、安藤は揺るぎない決意をもって見つめる。


 †††


 夜明け前。遠くからうっすらと太陽のだいだい色の光が差しこもうとする頃――

 ひっそりと静まり返った自宅では安藤の部屋のドアが音を立てないよう、ゆっくりと開く。 

 そこから出たのはパジャマから服に着替えた安藤だ。背中にはバックパック。肩にはショルダーバッグを斜めがけに。

 ちらりと右奥のドアを見る。両親の寝室だ。


 父さん、母さん。ごめん。


 少しの間、立ち止まったのちに階段をゆっくり足音を立てないよう、慎重に一段ずつ下りていく。

 一階のフローリングに足がつくとふぅっと一息つく。

 玄関に行く前にまずはダイニングだ。

 抜き足差し足忍び足と、テーブルの前まで来るとポケットから一枚の紙を取り出し、広げたそれをテーブルの上にそっと置く。


 『すこしの間、旅に出ます。かならず帰ってくるので探さないでください』


 くるりと踵を返し、玄関までの道のりを慎重に歩いていく。

 段差に腰を下ろし、靴を履いて靴紐を二度三度と締め、立ち上がる。

 目の前のドアの鍵のつまみをゆっくり回し、カチリと音が響く。

 そしてノブに手をかけようとした時――


「どこへ行くの?」


 不意に後ろからかけられた声に安藤の心臓が跳ねた。

 振り向くと、そこには寝間着姿の母が。

 いつの間にか来ていた母の突然の出現に言葉が出ない。


「こ、これは、その……!」


 声が上ずっていたのだろう。母が静かにするよう、人差し指を唇に当ててしーっと。

 

「静かに。お父さんまだ寝てるから……ね?」


 そう言って母はにこりと悪戯っぽく笑う。


「フランチェスカちゃんに会いに行くんでしょ?」

「ッ! なんで……」

「そりゃあ昨日様子がおかしかったのと、あんたの部屋を掃除してるときに机にパスポートとその荷物があったら……それしかないでしょ?」


 ね、とまたにこりと微笑む。

 母は鋭い女だ。これまでも生半可なウソはすぐにバレた。

 思い切って打ち明けるしかない。


「俺、前にフランチェスカさんに会うために、空港まで行ったんだけど、会えなくて……でも、このままじゃダメな気がするんだ」

「そう……フランチェスカちゃんのことが好きなのね」

「そ、それはちがっ……!」

「いいじゃない。男の子が好きな女の子に会いに行くのに、特別な理由なんていらないのよ」


 予想外の言葉に安藤はぽかんとする。


「ただし、向こうに着いたら必ず連絡すること。あと危ないことはしないこと。いいわね?」

「う、うん……」

「うん、よろしい。フランチェスカちゃんに会えたら、よろしくね。さ、行ってらっしゃい」


 お父さんにはうまく言っておくからと茶目っ気にウインク。

 やっぱり母には敵わないなと思う。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」


 ドアが静かにぱたりと閉じられる。

 その四時間後に、安藤の乗った飛行機は乗り換え地であるフランスのパリ目指して上空へと飛び立った。





次話に続く。

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