第42話 SKYFALL⑥

 階段を上がって右に曲がった突きあたりの部屋は白い漆喰の壁にベッドと年代物の書き物机がひとつのシンプルな部屋であった。

 隣を覗いてみると脱衣所が、その先にはシャワーブースだ。


 「さすがに高級ホテルとまではいかないか」


 バスタブがあればよかったのに……と零しながら、窓のほうへ向かう。見下ろすとさっきまでいた中庭が見下ろせた。ちょっとしたバルコニーがあるので横から入れるようになっている。


 「でも見晴らしはいいわね」


 すーっと深呼吸を。路地で嗅いだ悪臭はここではしないのがありがたかった。

 その時、窓の桟にやや右斜めを向いた矢印が書かれていることに気づく。


 「……? なんだろ、これ?」


 ま、いいやと窓から離れてぼすんっと音を立ててベッドに身を預ける。


 モロッコって田舎だと思ってたけど、案外良いとこじゃない。


 ふと思いだしてトートバッグを取り、中から折りたたまれた紙を取り出す。


 「えーと、明日の朝に迎えの車が来るのね。それまでは自由時間か」


 フランス語を教える学校のスケジュール表を確認すると、またバッグに戻す。

 枕にふたたび頭を預けると次第に眠気が襲ってきた。無理もない。朝早く起きてそのまま飛行機に乗ってここ、異国の地にやってきたのだから。

 フランチェスカは目を閉じ、やがて寝息を立て始めた。


 ――――どのくらい眠っていただろう? 遠くから聞こえてくる歌のような音で目を覚ます。

 むくりと半身を起こし、窓から差す光がオレンジ色をしているのでもう夕刻なのだとわかった。

 依然として歌のようなものは流れている。


 「なに……? 歌っていうか、お経みたいな……」


 耳を澄ますと、だんだんと何を言っているのかはっきりと分かってきた。


 アッラーフ アクバル。ラーイラーハ イッラッラー……(アッラーは偉大なり、アッラーのほかに神はなし)


 やがて終わったのか、それきり流れてこなくなった。それと同時にバルコニーに続く通路から一匹の猫が入ってきた。白い毛に青い目をした雄猫だ。

 尾を立ててとことこと歩くと、ぴょんとベッドに飛び乗る。

 フランチェスカが撫でてやると、猫は気持ち良さそうに喉をごろごろ鳴らす。


 「カワイイわね」


 そこへファティマおばさんの声が階下から響いてきた。


 「夕飯よ! すぐに降りてらっしゃい!」

 「はーい!」


 猫を抱きかかえて部屋を出、階段を降りると中庭からファティマおばさんがこっちよと手を振る。


 「あら、もうマリクと仲良しになったのね?」

 「飼い猫なの?」

 「いつの間にか住み着いたのよ。ここじゃ番犬代わりとして飼ってるの」

 「へぇ」


 中庭の中心に据えられたテーブルには食器や皿のほかに、蓋がされた小さな鍋のようなものがひとつ。

 ファティマおばさんがとんがり帽子に似た蓋を取ると、湯気とともに現れたのはほくほくと煮込まれたじゃがいもとニンジンにインゲン。


 「タジンだよ。熱いから気を付けてね」

 「美味しそう!」


 猫のマリクをひょいっと放してやって、椅子に腰かける。

 食前の祈りをそこそこに終えて、スプーンを手にするとおもむろにぱくりと口に運ぶ。


 「んんっ! んまっ!デリシオーソ!


 こうなってはスプーンを動かす手は止まらない。熱いのか、はふはふとじゃがいもを口の中で転がす。


 「あっ、はぁっ、はふっ!」

 「慌てて食べるからよ」と向かいに座ったファティマおばさんが笑う。

 なんとかじゃがいもをごくりと飲み込み、ふぅとひと息つく。


 「そういえば、さっきなんだかお経みたいなのが聞こえたけど、あれは……?」

 「アザーンのこと? あれは礼拝のお知らせよ。あれが流れたらメッカに向かってお祈りするの。メッカは聖地のことで、サウジアラビアにあるのよ」

 「へぇ。あ、もしかして窓にあった矢印って、メッカの方向?」

 「そうよ。で、一日に五回礼拝を行うの。今日はもう終わりよ」


 その時、近くから太鼓の音がした。


 「広場の屋台がすべて出たようね。屋台はもう見てまわった?」

 「少しだけ」

 「なら、見に行くといいわよ。あまり遅くならないようにね」


 フランチェスカはあっという間にタジンを平らげると、「行ってきます!」と言い残して広場へと向かう。


 †††


 その夜のジャマ・エル・フナ広場は活気に満ちあふれていた。

 昼に見たときと比べて屋台の数が増えており、そこかしこから焼けた肉の香ばしい香りが煙とともに立ちのぼって、通行人の鼻腔を刺激する。

 屋台の軒先にぶら下げられた電球の明かりを受けて料理が続々と客の前に出されていく。

 フランチェスカは串に刺さった羊肉を受け取って歩く。食べ歩きする彼女のその姿にはシスターらしい振る舞いなどそこにはない。

 旧市街メディナの中心地らしく、市場は喧騒や大道芸人の奏でる音楽に包まれ、遠くでは喧嘩しているのか、地元人の怒号も聞こえてくる。


 「ホント、お祭りみたいね……」


 もぐもぐと羊肉を食べていると、いきなり腕を引っ張られた。

 見ると、昔の民族衣装に身を包んだ老婆が聞き慣れない言葉で何かを言っている。見習いシスターが戸惑っていると老婆はいきなり彼女の手の甲に何かを描いていく。

 あっという間に出来上がったそれはヘナで描かれた花であった。


 「わ、スゴい!……って、勝手に描かないでよ!」


 だが老婆はお構いなしにチップを要求してくる。


 「明日から学校で授業しないといけないのに……5ディルハムね!」


 もっと寄こせとねだる老婆にディルハム紙幣を無理やり握らせてフランチェスカはその場を離れる。

 ヘビ使い、民族舞踊、ポット売りやシーシャと呼ばれる水タバコの屋台、腕にいくつもの額縁をかけて啖呵を切る額縁売り、はてはなぜか、帽子の先についた紐つきのポンポンを頭を回しながらくるくるまわす物乞いもいた。

 めくるめく異国情緒に見習いシスターは目眩がしそうになる。


 「帰るか……」


 そうぽつりと零してリヤドへの帰路につく。ふと横のほうを見ると、ここに初めて来たときに見た物売りの少年がいた。


 あの子、こんな時間になってもまだいるの……!?


 †††


 リヤドに戻ったフランチェスカは真っ先にシャワーブースへと向かった。

 修道服を脱いで一糸まとわぬ裸体になると、シャワーから迸る湯を一身に浴びる。ハンドソープをスポンジに染みこませ、全身を洗う。ときどき湯と入れ違いに出る水にぶるっと身を震わせながら。

 シャンプーを泡立て、腰まで伸びた金髪にまんべんなくつけて洗い、湯で流す。

 顔を上げて、湯と水が混ざってゆるくなったシャワーで全身を覆うかのように浴び、両腕で自分の胸を掻き抱くようにする。

 見習いシスターの脳裏には広場で見たあの物売りの少年がよぎった。


 あんな、まだ小さい子どもが物売りなんて……スペインじゃ、そんなことないのに……。


 栓を閉めると、きゅきゅっと鳴り、排水口がごぼごぼと音を立てた。

 シャワーブースから脱衣所に出ると、洗面所の鏡ではバスタオルを胸に巻くフランチェスカが。そして正面を向く。しっかりと自分を見据えるかのように。


 「気持ちを切り替えて、フランチェスカ。ここは外国よ。スペインとは違うわ」


 ぱんぱんっと両頬を叩く。自らを奮いたたせるかのように。

 よしっと脱衣所を出ると、目の前にマリクがちょこんと座っていた。


 「ん、どうしたの? マリク……」


 だが、マリクが口にゴキブリを咥えているのを見たフランチェスカは部屋中に響く悲鳴を上げた。




⑦に続く。

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