第31話 サンフランシスコのシスター④


 マーセド湖。


 ――サンフランシスコ州立大学近くのマーセド湖公園にある淡水湖ではマティアス教授率いる学生たちが実証を行っていた。


 「わぷっ!」


 学生のひとりがバランスを崩して水の中へと。


 「きみの仮説、ニンジャが使ったという履き物ではバランスを取るのが難しいようだな。

 聖書にはイエスは歩いていたとあるが、この履き物はどちらかと言えば、すり足で進まないといけない。よって、この仮説は却下だ」

 「は、はい……」


 ライフジャケットを身に着けた学生はマティアス教授から浮き輪を受け取って岸からあがる。


 「それとそこの君、それは発泡スチロールかね?」

 「はい。これならその履き物と違って浮力が得られます!」

 「イエスがいた時代には発泡スチロールはまだなかったはずだが?」

 「あ……」


 やれやれと首を振って手元のレポート用紙に採点をつけていく。


 このぶんじゃAの評価はやれんな……。


 教授が溜息をつくそばでまた学生が水音を立てた。

 そういえば彼女は来ていないのだろうかと辺りを見回す。が、来ていないようだ。おまけにピーターの姿も見えない。


 仮説が思い浮かばなくて逃げ出したか……まったく最近の若い者は……。


 「お待たせしました! マティアス先生!」


 聞き覚えのある声が響き渡る。振り向かなくとも誰かはすぐにわかった。


 「やあ来てくれたようだね。シュヴェスタフランチェスカ」

 「はい! 今から仮説を実証したいと思います」

 「ほう……? ではその仮説を聞かせてくれないかな」

 「“一枚の写真は千の言葉よりも多くを語る”とことわざにもある通り、実際に見たほうが早いと思います。さ、こちらへ」


 フランチェスカが案内したのは歩いて5分ほどの湖畔だ。そこにはボートが繋がれている。

 そしてボートにはピーターがオールを手に乗っていた。


 「なんだ、見ないと思ったらここにいたのか」

 「彼にも手伝ってもらいます。まずこの仮説は実際に聖書に書かれた状況を再現する必要があります」

 「それでボートを使うのか」

 「はい。ですのでマティアス先生とあとふたり、学生のどなたか乗ってもらえますか?」

 「なるほど、我々がイエスの弟子役というわけか。面白い。いいだろう」


 マティアス教授が無作為に選んだふたりの学生とともにボートに乗り込む。四人乗ればいっぱいだ。


 「乗ったぞ。これでいいのかね?」

 「OKです。ピーター、手はず通りにお願いね」


 フランチェスカの指示の下、ピーターがオールを漕ぐと、ボートは段々と岸から離れていく。

 10メートルほど離れると漕ぐのをやめて止まった。


 「それで、いったいどうするのかね?」


 遠くの岸にいる見習いシスターにそう声をあげる。


 「今から水の上を歩いてみます!」


 フランチェスカは革靴を脱ぎ、次いで裸足となった。

 マティアス教授が見たところ、足には何の細工もないように見える。まったくの素足だ。


 いったいどうやって水の上を歩くというのか……。


 マティアス教授が顎に手をやってあれこれと考えを巡らすうちに、フランチェスカがゆっくりと水に足をつける。

 次の瞬間――――彼女は水の上に立っていた。いやそれだけではない。文字通り歩いたのだ。一歩踏むたびに波紋が広がる。


 「なっ……!」


 マティアス教授だけでなくふたりの学生も驚きのあまり口をぽかんと開けていた。

 目の前にイエスがやってみせたのと同じ奇跡が起きているのだ。

 修道服スカプラリオのスカートを摘まんで慎重に歩くその姿は典雅てんがで、神々しささえ覚える。

 ゆっくり一歩を踏みしめるように歩き、ついにボートの前まで来た。

 そのおかげでマティアス教授の驚く顔がはっきりと見える。


 「信じられない!ウングラオブリッヒ! 私は幽霊ガイストでも見てるのかね?」

 「安心してください。私ですよ」とイエスの言葉そのままでにこりと微笑む。

 途端、マティアス教授が立ちあがったのでボートが揺れ、神父プリースターことウィーン生まれの教授は湖へと転落した。

 ぷあっと水面から顔を出してボートに掴まる。

 その時、フランチェスカの足下に何かがあるのが見えた。


 「こ、これは……!?」

 「バレちゃいましたか。そうです、網ですよ」


 それは幅が彼女の肩幅と同じくらいある網だった。そしてそれはボートの舳先から岸までピンと張られていた。


 「こ、これが水上歩行のタネか! し、しかしよく気付かれなかったな……」

 「はい。この湖は少し濁ってるのと葉っぱでカモフラージュ出来ましたから。聖書ではイエスは夜中の3時に出たとあります。

 その頃は暗くて水中の網には気付かなかったはずです」

 「な、なるほど……しかし、ちょっと待ってくれ。これはとてもひとりでは出来るものじゃないぞ。それこそ協力者がいない限り……」

 「そこです! この仕掛けは協力者がいてこそ成しえる奇跡なんです」


 ごくりと教授の唾を飲む音。


 「だ、誰なんだ! その協力者は!」

 「イエスを信奉してやまない、かつ、網の仕掛けを編むことが出来、それを手にしても怪しまれない人物……」

 「ペトロか! 確かに彼は元漁師だ!」

 「はい! 聖書では逆風で進めないとありましたが、実際はそこで網の仕掛けが張られていたんです。イエスはそれを見計らって水の上を歩き、弟子たちの前に現れたというわけです。ちょうど今の私のように、ね」


 にこりと微笑んでお辞儀をひとつ。


 「素晴らしい!ヴンダバー! 完璧だ!ペルフェクト! 実に見事な仮説だ!」

 「マティアス先生、実は私が考えたんじゃないんです。この仮説を考えたのは彼です」とピーターを指さす。


 「ピーター! きみか! まさにピーターペトロの名にふさわしい!」


 湖にてマティアス教授は天を仰ぐように笑う。


 「また真理に一歩近づいたぞ!」




次話に続く。

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