第17話 ある老人の物語⑤

 がらりとコンパートメントの扉が開いた。

 それでアダムたちとシスターは祈りの手をほどいた。


 「失礼します。ハンス・シュプリンガー少尉です。この部屋を使わせてもらいます」


 そう言うなりシュプリンガー少尉は長身を屈めて入った。

 制帽の髑髏どくろの記章が蝋燭の明かりを受けてきらりと鈍く光る。

 「失礼」と断ってシスターの隣に腰かける。


 「伍長、ただちに検問を開始する。まずは最後尾からだ」

 「了解ヤヴォール!」と敬礼してその場を出る。


 「お騒がせして申し訳ない。出来るだけ手早く済ませますので……」


 親衛隊の将校にしては珍しく丁寧な言葉遣いだ。隣のシスターを見る。


 「どこから来られましたか? お嬢さんフロイライン

 「Ich komme aus Japan.(日本からです)」と流暢なドイツ語で答えたので、少尉が驚く。


 「同盟国のシスターがはるばるここへ?」

 「奉仕活動に来ました。ヴィエヴェジャ駅へ向かう途中です」

 「なるほど……して、こちらの方々は同伴者ですか?」


 アダム一家を見回す。


 「いえ、たまたま乗り合いになっただけです。ちなみにポーランド人です」

 「そうですか……」


 シュプリンガー少尉がなお問おうとしたところへ、伍長が戻ってきた。後ろに老夫婦を従えている。


 「連れてきました!」

 「よろしい。ではパスポートを」


 夫が震える手でパスポートを差し出す。

 少尉が受け取るとページを開いて確認する。


 「目的地は?」

 「わ、ワルシャワです」


 ふむと少尉がぱらぱらとページをめくる。


 「スタンプもあるな。よろしい」


 老夫婦がほっと息をつく。


 「だが、このスタンプは鷲のマークがない」


 偽造パスポートだと少尉が返し、伍長に目配せした。

 「降りるんだ!」伍長が老夫婦を追い立て、列車の外へと出す。

 別の兵士が老夫婦を連行するのが窓から見えた。


 「お前は見るんじゃない」


 アダムがヤコブの目を手で覆う。

 「次」と少尉の声が無情に響く。


 「あの、彼らはどうなるのでしょうか?」


 尋ねられた少尉がシスターの方をむく。


 「アウシュヴィッツに送られます」


 アウシュヴィッツ。ポーランドの南に位置する強制収容所の名前が出た途端、全員の顔が凍り付いた。

 それもそのはずだ。あの強制収容所へ送られたものはまず生きて出られないのだから。

 それから乗客たちが次々とコンパートメントを訪れ、ある者は車両に残り、ある者は車両から追い立てられた。


 「よろしい。次だ」


 その時だ。銃声が響いたのは。


 「どうした!? 何があった!?」と立ちあがった。

 「申し訳ありません! 少尉殿、逃亡を図ったものがおりまして……」


 伍長からの報告を受け、少尉は腰を下ろす。


 「そうか……監視を厳重にしろと伝えろ」

 「了解!」


 伍長が伝令に出ると、少尉は制帽を脱いで額の汗を拭う。

 ふと顔を上げると、少年がこちらを見ていた。ひどく怯えている。


 「坊やユンゲ、そんなに怖がらなくていい。おとなしくしていれば大丈夫だ」と落ち着かせようとするが、効果はなかった。


 「私にもきみと同じくらいの子どもがいる」

 「この子はドイツ語がわからないので……」


 エマがヤコブの頭を撫でるが、やはり彼女も怯えている。


 「あの、不躾かもしれませんが……亡くなった方のために祈ってもよろしいでしょうか?」


 シスターが少尉を見る。そのまっすぐな黒い瞳で見つめられ、少尉は思わず顔を背けた。

 「どうぞご自由に……」と言うのが精一杯だった。

 「ありがとうございます」と礼を言うと手を組んで祈りの言葉を唱える。


 †††


 「よろしい」


 そう言って少尉がパスポートを返す。これでこの列車の検問は終わりだ。ただアダム一家を除いてだが……。

 最後は自分の番だとアダムは気が気でない。この少尉は恐ろしく目の利く男だ。このパスポートも一発で見破られるだろう。そうなれば……。


 「では」と少尉が言葉を発したので、アダムがびくりと身を震わせる。

 ぎゅっと目を閉じて上着の内ポケットに手を伸ばす。だが、次に少尉が発した言葉は信じられないものだった。


 「お邪魔しました。これで検問は終了です」


 すっくと立ち上がり、扉を開けようとしてくるりと振り返る。そして右手を制帽に当てて敬礼した。


 「明かりを貸していただき、感謝します」


 よい旅をと言い残して少尉は個室から出た。

 目の前で起きたことに一同はしばしその場を動けなかった。

 がくんと揺れて、列車が再び動き出し、現実に返った。

 夢ではない。検問をくぐり抜けたのだ。目の前で起きた奇蹟にアダム一家は抱き合った。そして神に感謝の言葉を述べた。


 「ありがとう……あなたのおかげです。蝋燭のおかげで命を救われました」

 「いえ、主が願いを聞き届けてくださったのです」


 シスターが手を組んで祈りを捧げたので、アダム一家もそれに倣った。


 †††


 「ここでお別れですね」


 翌朝、列車はヴィエヴェジャ駅に到着した。開け放たれた窓越しにシスターが別れを告げる。


 「本当にありがとうございます。なんとお礼を言えばいいのか……」


 エマが名残惜しそうにシスターの手を握る。


 「おねえちゃん、さよならしちゃうの?」


 ヤコブが窓から身を乗り出す。


 「泣かないで。願えばいつか、またどこかで会えるわ」


 ちょっと待っててねとスーツケースを開いてそこから一葉の写真を取り出して、それをヤコブに渡す。

 椅子に腰かけたシスターの写真だ。裏にシスターの名前が書かれている。


 「もし辛いことがあったら、その写真を見て私を思いだしてね。御守り代わりよ」


 汽笛が鳴り、やがて列車が動き出した。ヤコブはホームで手を振っているシスターの姿が見えなくなるまで手を降り続けた。

 この後、アダム一家は無事リトアニアにたどり着き、日本大使館の杉原千畝すぎはらちうねよりビザを発行された。



 「これで昔話はお終いです。なぜあのドイツ兵士が我々を見逃してくれたのかはわかりませんが……忘れていたか、あるいは良心に従って見逃してくれたのか。私は後者のほうだと信じています」


 上着の内ポケットから一葉の写真を取り出す。色あせてしまってはいるが、それはまぎれもなくあのシスターの写真だ。


 「やっと……やっと探し当てたのです……数少ない手がかりから……」 


 写真を胸に当て、ヤコブ老人は涙を流す。隣のフランチェスカも泣いていた。

 その時、礼拝堂の扉が開いた。雨はすでに止んで晴れていた。


 「フランチェスカ? 何をしているのです?」


 マザーがつかつかと奥へ進む。そして長椅子に腰かけたヤコブの姿を認めた。


 「……ヤコブ? まさか、あなた、ヤコブでしょう?」

 「……シスター?」


 ヤコブがよろよろと立ちあがろうとしたので、フランチェスカが支えてやる。


 「その目、昔と変わらないから……」

 「シスター……あなたにまた、お会いする日を夢見ていました……」

 「よく生き延びて……」


 マザーががしりと抱擁する。

 時を超え、この小さな教会にてまた奇蹟が起きた。



 大戦中、ホロコーストによって虐殺されたユダヤ人の数は580万人から600万人にのぼると言われている。

 また、生き延びたユダヤ人は約30万人だが、そこから母国に帰ることが出来た者はごくわずかであった。



次話に続く。

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