プールサイド

葉月空野

入水体験

 光る水面の浅い底を覗きながら、深く息を吸う。飛び込み台の上に立ち、振り返って手を差し伸べる。水香みずかは僕の手におずおずと捕まると、億劫そうに台の上に登った。人気のないプールサイドは人がいる時よりよっぽど誰かに見られているような気がして落ち着かなかった。


「やっぱ、プールって碌でもないね」


 水香は少し強く吹いた風に身震いし、両腕を抱くようにさすった。彼女はあまり肉付きが良くないためか、スク水の上に長袖のパーカーを着ても十分ではないらしかった。


「中入ったらマシだと思う」


「なんか、寒い方が生きてる感はある」


 これから自殺紛いのことをする人間の発言とは思えない。


「プール入るの嫌なだけだろ」 


秋野あきのくん。これ、全部、人間水。沢山溶けてるよ」


 そう言って水香がプールの中を指し示すので、僕は首をのばしてそこを覗いた。透き通った塩素水の中には、見えない人間の脂や垢、空気中の汚れなんかがきっと大量に溶け込んでいて、綺麗なわけが無い。水香はそれらが実際に目に見えているかのように、怯えたような視線を水面に注いでいた。


「これから入るんだから、少しは表現を遠慮してくれ」


 言いながら、僕はもう一度水底を見下ろした。そうしているとなんだか、覚悟を決めかねてグズグズしてるみたいで嫌で、水香を視線で急かすよう促した。水香はあまり見られたくなさそうに目を伏せながら、例の道具を取り出した。


「こんなんでホントにできる? 自殺のモノマネ」


「モノマネならそれで十分」


 それは、僕のベルトを用いて作った、簡易式自殺道具だ。二対のベルトを繋げ、人の首が入るくらいの円を二つ、バックルで止めてある。この輪に二人の人間が首を通して水中に沈むことで、皮の収縮で首が絞めつけられる。そして、もがけばもがくほど互いを死に引っ張り合う仕組みになっている。控えめに言っても、かなり趣味の悪い道具だ。心中を前提にした道具なのだから、仕方ないけれど。


 水香は不服そうに首を通すと、暗い眼差しを僕に向けてきた。


「本当に死ぬ可能性がないとやる意味ないからね」


 この道具の簡素な造形を目にして、水香は少し失望したのかもしれない。彼女は僕が本当に死ぬ覚悟があるみたいなノリでいることを本気で期待してるらしい。そんなノリ、別になくても死ねる。


「僕、あんま生への執着とかない」


「それはいいことだけれど、口じゃなんとでも言えるし。それに君、口先ばっかの無責任ヤローって感じじゃん。信用ないんだよ」


「大丈夫、いかに僕が信用に足らない人間だとしても、それとは関係なく案外死ねるんだよ人間ってやつは。コロッと雑にさっくりと」


 もしかしたら、倉知くらちの霊が僕らのことを恨めしく思って現れて、二人まとめてご丁寧に絞め殺してくれるかもしれない。


「さっくりだとコレみたいじゃん」と水香は心底面白そうに、バーコード模様の腕を見せてきた。何も面白くなくて、逆に笑える。倉知が見たらなんて言うだろう。


 お互い、向かい合う形でベルトの円を首に通す。色についてはあまり考慮してなくて、適当に太めの赤いやつを二つ選んだ。それが、水香にはお気に召したようで、大事そうにベルトを握りしめるから、僕の首は少し絞まった。


「運命の赤い糸だ」


「しょぼい運命に結ばれたな」


「とはいえ私が選んだことだし」


 ベルトをはめると、淡い不安が足元から這いあがってくる。やがてそれが頭の先まで達すると、無駄な考えを拒絶するように全ては錯覚だと思い込んだ。青い空は、嘘。夏が暑いのも、嘘。目の前にいる彼女すら、嘘。死にたくないなんて、それも嘘。大丈夫、覚悟は確かだ。思いを確かめながら、誓うように胸に手を当てた。

 水香はいつの間にかパーカーを脱いで、髪を留めていたヘアゴムを投げ捨てていた。趣味の良いカーテンのように、黒のセミロングが揺れる。塩素とシャンプーの匂いが混ざって、それが水香の匂いという感じがした。


「今、いい雰囲気かも」


「なに、抱きたくなった? 死ぬ前に一発ヤラせろ的な? うわー、今日死んでおいでよかったね。このまま生かしておいたら君、危うく性犯罪者になるところだったよ」


「馬鹿かよ」


 軽く、膝に蹴りを入れる。それで、水香はバランスを崩して、前のめりに倒れてくる。抱きとめて、腕の中からアンニュイに見上げる水香の瞳を覗き込んだ。真夏の日差しを吸い込んで消してしまうほど、深い黒色だ。夏の、熱に歪んで、あまりに青い空の色に白んだ地上でただ一人、日陰の中で息をするように涼しげな水香が、僕は憎いとさえ思えた。その感情を、あるいは水面に叩きつけるような思いで、彼女を抱いて落ちていった。鈍い衝撃、そして沈没。打ち捨てられたゴミのように、どこまでも落ちていく。けれど、果てまではあまりに近い。ギュッと丸めた肩が冷たいコンクリートの床に触れた。水香の体温がまだ確かに感じられた。狂った乱反射模様の天蓋は、漂白されたように不純の無い青で、ぼやけている。まるで、その先に行けばぼやけた青は明瞭になって、全てが明白で、真実で、混じり気のない、透き通った素晴らしい世界が広がっていそうで、心の中で舌打ちをした。その楽園はきっと、僕のことも水香のことも倉知のことも拒絶する。ならば、そんな楽園は必要ない。ならば、そんな楽園の予感なんて、一生知らずに感じ取れない方がどれほど幸せだっただろうか。僕はどこに向かっている。楽園ではない場所だ。意識は徐々に霞んでいくけれど、まだ呼吸ができた。水香も僕も生きていた。けれど、水香がきっと望んでいるから、僕はベルトの輪を引き締めて、彼女を抱いていた腕も解いた。僕の元にあった体温が、青い空の方へと吸い寄せられていく。水香はそれを拒否しなかった。ただ、楽になることを拒むように、縋るように、ベルトの輪を強く引き締めた。僕らはただ、赤い糸にのみ繋がれていた。頭の中の霞は段々と濃くなり、靄のようにより不明瞭な領域が広がっていく。緩やかな水圧に縛り付けられ、鈍い耳鳴りがする。何もかもが水の中に還って、青くなっていく幻想を見ている。死にたいも、消えたいも、気持ちいいも、なにもかも無となって、残らなくなっていく。倉知の世界だ。あいつもこれを見たんだ。僕らの計画は上手くいってる。でもそれは、結局虚しいことでしかなくて、何が満たされるわけでもなかった。ただ、空漠くうばくの時間が過ぎた。



 ──僕は空白の中へと放り出された。無秩序な白の世界。そこには男がいた。呼びかけても、そいつは振り返らない。どこか余裕げに構えて、立っている。形の良いあごを突き出して、見下したような格好で、なにかを静かに睨みつけている。


「定義できなかった」


 倉知は多分、僕に話しかけていた。


「生きること、死ぬこと、俺たちが当たり前に悩んで、苦しんで、なんの答えも出せやしなかったあの、不鮮明な痛みのことを、俺は定義できなかった」


「定義できなかったってどういうことだ? お前、数学できないくせに」


 そう言うと、倉知は心なしか嬉しそうに笑っていた。それは、生前には一度も見ることがなかった、優しい微笑みだった。何笑ってんだよ。


「わかんないよ。お前が死んだ理由がなんであれ理解しない。したくない。」


「俺は、欲しかったんだ。全部が欲しかったんだ。分かるかよ、何が手に入っても、俺には虚しかった。何も手に入らないことよりも、何かを手にしたそばから全てが無駄になっていくようなあの虚ろな感覚が、俺をそこへ向かわせたのさ。実際それを虚無っていうんだろ。そう、俺はこの虚無がどこからやって来て、俺をどこへ向かわせようとしているのか、知りたかった。その方向性を定義したかったんだ。俺は虚無のせいで、手に入れるもの全て、この手の中に収めることで失ったんだ。手に入れる、ということは、俺の中じゃ捨てる、ってこととほとんど同じ意味だった。俺を殺し、見捨て、愚弄し続けた虚無が、俺を導く方向性ってのは何だったのか」


「それじゃあ、そいつを知るより先に命を捨てるのは惜しくなかったのか」


 僕は手を伸ばした。ただ、宙を掠めた。倉知は首を横に振る。言ってること、無茶苦茶だ。


「惜しかったさ。酷い気分だよ、死ぬなんてことになるのは」


 倉知は、白の向こう側へと歩いていく。引き止めるものなんて、何も無い。地平線のようなものがあって、彼はその中に紛れて見えなくなっていく。


「でも、仕方がないじゃないか。俺はあらゆることの必然性を失った。定義を見つけることは出来なかった。どうして神ってやつは、真水の中を泳ぐ魚を乾いた地面に打ち捨てるようなことを平気でやっちまうんだろう。俺たちが道に迷う時、奴は何も答えてくれないんだ。ただ、この先お前に行き場はないと冷酷に告げるだけなんだ」


「お前はそのお告げを聞いて、感じいっちまったっていうのか。無視が出来ないほど突きつけられてしまったとでも? 馬鹿げてる」


「そこまで分かってるんなら、こんなところまで来ることはなかったじゃないか」


 白い世界が閉じる。訪れた暗闇の中を、僕は漂う。このまま漂っていこう、と思う。漂って、倉知に会いに行きたい。体は黒い場所へと流されていく。まるで、自分が名状しがたいなにかに取り込まれ、変容していくように。


「お前にはいつかわかる日が来るかもしれない。いや、分からないだろうな、俺にわからなかったんだから、お前にも、水香にも。でも、探し続けてくれよ。いつか、俺の死んだことや、お前らが生きていくこと、その苦痛をあるひとつの、纏まった規範の中に括りつけて、暴いてやるんだ。やられっぱなしなんてやっぱり俺もいやだからな」


「でも、僕らだって、お前みたいに......」


 というか、そんなことを僕らに押し付けて、勝手に死んでんじゃねーよ。ごちゃごちゃうるさいんだよ、お前に生きてて欲しかったんだよ、僕は。水香は。たったそれだけのシンプルな感情が、それを伝えるだけの言葉に出来ず、組み合わせると全てが点でバラバラで、複雑化して、とうてい形にならなかった。僕にはロジックが必要だ。まるで数学の証明問題のように、過程を書き込み、定義する必要がある。倉知の心を動かすのは、数式のような、過程に裏づけされた証明だけだ。だから僕には、彼をどうにかすることが出来なかった。それは事実だ。紛うことなき現実で、もう覆すことは出来ない。


 けれども僕は、水香の言っていた『人間水』を思い出した。脂や、垢や、そういったものは、僕たちの認識の外側で、知らず水に記録される。水は僕らの形を受け入れ、やがて忘れる。僕らが残した垢や脂もいつか全て蒸発して消え去る。それでも、何も残らない、残せないと思っていた僕らを、水はただできる限り記憶する。人の顔を覚えては忘れていくのと同じように。それはなんて、優しいことなんだろう。羊水のような温い水中で、今度は、生まれませんようにと祈る。僕と水香が生まれて、出会いませんように。倉知が浮かばれなかった世界で、僕らは苦しみませんように。


「倉知、僕はお前を許さないし、納得なんてしないし、これからも恨み続けるし、大っ嫌いなままだと思う。僕はいつか死ぬ。そのいつかは今でもいい。お前の欲求とか、知らん。でも、ただ、決心はついたよ。やっぱり水香を付き合わせたくはない。お前みたいなジコチュー野郎は、節操なく人を呪ってしまうんだ。それは、お前自身の問題というより、人間とか、それらが織り成す世界ってやつの、仕業なんだろうけれど、関係ない。繰り返しになるけれど、本当にお前を恨むよ、倉知。恨んで、憎んで、刻みつける」


「お前が素直じゃないやつで良かったよ、秋野」


 霞んだ目で最後に、水香の姿を捕える。千切れたへその緒のように、ベルトは水中でバラバラになっていた。そして、ぐったりと綺麗な人形のようになった水香が、吸い込まれていく。


「なあ、最後に。死んでから分かったんだ、方向性の話。生きるってことは、矢印が向かい合うことだ。死につつ生き、終わりつつ始まり、別れつつ出会い、ちぎれつつむすばれる。矢印は向かい合うから、俺は虚無という矢印に対応する矢印を投げ返す必要があった。虚無の対岸にあるものはなんだろうと考えて、何もわからなかった。ただ俺は、水香はそのひとつの答えだったんじゃないかと少し思ったんだよ」


 乱反射の天蓋と水の音に、水香が溶ける。そして、僕も。透明な溶液の中で、形のない身体がまざり合う。するとそこには、結局定義も実在も曖昧な、心とかいうものだけが遺ってしまった。僕らの心だけが、酸素ではない何かでじっとりと息をしていた。声はもう、聞こえない。

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