間違った魔剣の使い方

朝霧楓葉

プロローグ

 ーーー草木生茂る江戸川の河川敷。

 季節はちょうど梅雨が明けた夏真っ盛り。

 昼間の余韻を残す熱帯夜は地球温暖化の危機感を与えるには十分過ぎるほどだった。

 時刻は真夜中、ちょうど日付が変わる頃だった。

 未だにほんのりと香る下水臭さはまさに今の自分にぴったりなのかもしれない。

 惨めさ漂う俺にとってコンビニで買ったストロング系チューハイが唯一の慰めであった。

 既に差押さえが決定している会社の車を乗り捨て、俺は河川敷の鬱蒼とした草の上にあぐらをかいて月明かりに反射する水面を眺めていた。


 例えばの話だ。

 社会人になってからそれなりに仕事が上手くいきはじめ、大学時代から意気投合していた同期と会社を起業したとする。

 そしてその会社は紆余曲折ありながらも何とか軌道に乗ってきた最中、その共同経営者たる友人に会社の全ての金を持ち逃げされたとしたらどうだろう。


「うっ、うぇろぁっ! うげっ!」


 死ぬほど酒を呷りたくなるのも無理ないはずだ。

 月夜に照らされた江戸川に浮かぶ有体物。

 先程まで俺の胃の中に入っていたそれは今は魚の餌になっていた。


「んぐっ!」


 失った胃酸の代わりにアルコールを胃に流し込む。

 既に空になった缶が俺の周りに散乱していた。

 ーーーもう全てがどうでもよかった。

 ここに来てからいっそのこと入水でもしようか、そう何度も思った。

 川は目の前だ。やろうと思えばいつでも出来る。

 しかし、小心者の俺にはそんな勇気は無かった。


「クソっ! クソっ! クソっ!」


 出来るのは何かに当たり散らすぐらいだった。

 もっとも自分でも何がしたいのか分かってはいない。

 既に役に立たなくなっている足腰をジタバタさせもがく自分のなんたる無様な事か。

 酔いのせいか、それとも暗闇のせいか、既に天と地の上下感覚も失っていた。

 いったいどれほどの量のアルコールを摂取しただろうか。

 学生時代の新歓で行った焼酎のピッチャー一気呑み以来、飲み過ぎは避けてきたはずだった。

 ーーーあぁ、今はあの頃よりも酷い。

 遠くて近い赤く灯ったスカイツリーがどうやら俺を嘲笑っているように見えて無性に腹が立った。

 その時だった。


「っぶぁ! はぁっ! がっ! ぶはぁ!」


 それは一瞬。

 ーーーまぁ、四肢の感覚ももう無いに等しい状態だったから当然の帰結かもしれない。

  俺はバランスを崩し川に落ちたのだった。


「がぼっ! はぼぼっ! ばっ!」


 肺に流れ込む冷たい水が意識を覚醒させ、痛みを実感させる。

 苦しい、苦しい、苦しい。

 あれだけ死を考えたのに実際にこんなにも死とは苦しいものなのか。

 足がつかぬほど深い川底にどんどんと吸い込まれていく。

 本来、泳ぎは苦手ではない。

 しかし、酔い潰れた体は想像以上に弱っていた。

 必死にもがき続けるも、それは僅かばかりの肺の空気を外に出すだけだった。

 我慢の出来ない痛みが容赦なく襲う。


『汝、力を欲するか?』


 それは唐突だった。

 真っ暗な川の中、その深い水底から鈍く光るナニカが俺に語りかけていた。

 それが何かは分からない。

 しかし、何故かそれに目が離せなかった。

 そして聞こえる声。

 ーーー力を欲する? なんのことだ。

 これは神の声か、それとも死神の声か。

 とりあえず、話しかけるよりも先に助けてはくれないだろうか。

 こちらはそれどころではない、生命の危機なのだ。


『汝、力を欲するか?』


 再び聞こえる同じ問い。

 もしかして、生死を彷徨う俺が聞いた幻聴か。

 だが、今は四の五の言っている暇はない。

 既に意識は遠のきはじめ、肺の中は水で一杯だ。

 もう限界は近い。

 ーーーだから願った。

 いや、願うしかなかった。


『あぁ、力が欲しい!』


 まるですがるような願いだ。

 苦しい、辛い、この痛みから逃れられるのならば悪魔とも契約しよう。

 気付けば水底に光るナニカに触れていた。


『……よろしい。 ならば契約完了だ!』


 何故か分からないが、その声はどこか期待に満ちたものだった。

 ちょうど、俺の視界が真っ暗となり意識が途切れる瞬間、一筋の悪寒とともに、


「っ! ごぼっ! っ! げぇっ!」


 俺の体は再び河川敷へ。

 まるでひょいと放り投げられたようだった。

 突然吸った空気により、一瞬、多くの水を吸い込むも、その反動で体の穴という穴から吸い込んだ水が流れ出た。

 見たこともない分量、まさにマーライオンである。

 鼻も口も目からもありとあらゆる場所から水分が排出された。

 もちろん下もである。

 一種の開放感のようなものを感じながら俺は河川敷の芝の上に横たわる。

 打ち付けられたであろう体が、川水で満たされた内臓が悲鳴をあげていた。


「うぇっ! あー、あぁぁぁぁ! ぐべっ!」


 汚い、それは分かっている。

 ーーー奇跡だ。

 あの状況から助かるなんて奇跡以外の何ものでもない。

 それとも何か俺は悪い夢でも見ていたのだろうか。

 少なくとも薬の類はやってはいないはずだった。

 しかしーーー


 目の前には一人の女がいた。

 それも全裸で。


『我が名は魔剣・啜姫、さて汝はその力を何に使う?』


 声の主、それは目の前にいる女だった。

 その見た目はおそらく、俺が芸術家であれば裸婦像を描いていたであろう美しさだった。

 艶やかで流れるような黒髪に凛とした蒼玉色の瞳は見る者を魅了した。

 体のラインも出るところが出ており、手足も長く非の打ち所がなかった。


 しかしーーー

 痴女である。

 ここは確か江戸川の河川敷だ。

 酔って回らぬ頭でも分かる、彼女はいわゆる不審者という奴だ。

 今の時刻はよく分からないが、深夜である事に間違いはないだろう。

 そんな時間に全裸で河川敷を歩く。

 痴女である。

 それ以外言いようがない。

 とりあえず大事なので二回言っておこう。

 痴女である。

 

「ごほっ! ごぼっ! っ! ちからぁ? さぁなぁ……」


『さぁなぁ……だと?』


「あぁ、力なんてあっても……あっても? というか啜姫? ったく今時なんてネーミングセンスしてんだ? っ……はぁ、お前だったらそうだな、『月夜』とかそんな感じの名前のほうがいいんじゃねぇの。 うっ! うげっ!」


『ふむ、月夜か。……悪くない。 それよりも汝ーーー』


「うげぇれれっ! うげっ! うげぇぁぇぇ!」


『……川を汚染する気か。 それにしても汝、ちと酔いすぎではないか?』


 あぁ、何か言っている。

 ーーー誰が?

 もう思考回路がめちゃくちゃだ。

 それにもう体力の限界だ。

 会社の後始末をして、酒に溺れ、川に溺れる。

 裸の女に和泉のクソ野郎、それに能登の馬鹿野郎。

 何がなんだか。

 そうだ考えるのをやめよう。

 全身を包み込む重さに全てを委ねようではないか。

 きっとこれはたちの悪い夢に違いない。

 起きたらきっといつもの日常が始まる。

 そう、そうに違いない。


『おい! 汝! 汝!』


 あぁ、誰がが叫んでるけどもうどうでもいい。

 俺は良くやったのだ。

 そうーーー

 良くやったんだ。


「ピィー! ちょっとぉ!君たち何やってるの!」

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