刻筆纏身【エイワズ・ナート】
甜白 和叉
序章 降生
境界より生まれ落ちる
宵闇が夏夜の熱を内包する四畳半。
陰鬱な雨に晒された矩形の硝子窓。
それでもなお、蒼白な月明りは零れ入り、この身体から
それを補うように、この醜悪な
いくら思考の朧が視界を遮ろうとも、脳裏は徐々に灼き尽くされる。
汗が滴り落ちるわけでもなく、涙が頬を伝うわけでもない。
ただ、苦しい。
胸に大きく空いた穴に虚無の風が立つ。
もう塞がる必然はないのだろう。
ならば塞がる必要もないだろう。
自身の影が覆う彼を月が暴くまで、己の耳鳴りが止むことはなかった――――。
*
「――――ここ、どこだ?」
「やあ、はじめまして。少年」
声のした方角へ振り返ると、そこには銀髪の男が一人、真っ白な石材の椅子に足を組んで座っていた。
「誰だ、あんた」
「僕はレクリム。キミの転生を導く神様さ」
「かみさま?」
「そう、神様」
神を名乗る男は肘掛けに肘をおいて頬杖をつきながら、絶えず微笑んでいる。狐を彷彿とさせる細目にキトン*のような白い服飾、それに軽い口調。間違いなく信用してはならないタイプの人だ。
「転生って、いったい何の話だ」
「別世界で生まれ変わるのさ。要するに死んだんだよ、キミは」
「死んだ――――……?」
座ったまま、自分の身体を眺めて確かめる。手を開閉したり、脚に触れたりするが特別何か変わったような感触はない。死んだという実感も当然ない。これが自分の夢なのだとしたらひどい話だ。
「キミは前世での役目を終え、第3転生使レクリムの施しによって異世界【リズ・ロノテリア】へと生まれ落ちる――と言った方が少しは神様らしくて信じてもらえるかな」
「信用しようがしまいが納得するしかないんだろ」
「まあね」
リズ・ロノテリア、当たり前だが聞いたことのない名前である。幾つもの巨大な王国が各地を統治し
「納得もしてもらったことだし、さっさと転生しちゃおうか」
「いや、納得もしてないし、まだ何の話もされてないんだが」
「仕方ないでしょ、こっちもキミだけに時間をかけられるほど暇ってわけじゃないんだ。必要なことは伝えたつもりだ。十分なことは向こうに着いてから知りたまえ」
神様というのはひどくドライな性格らしい。一から十までとは言わないが、せめて一くらいは説明してほしいものである。
「それで、俺はいったい何に生まれ変わるんだ?」
「それは今から決めることさ。それじゃあ、パパっと転生の手続きをしていくよ」
レクリムは微笑みを崩さず穏やかな表情のまま俯いて、しばらく黙する。何をしているのかと尋ねると、「過去を見て、未来のキミを決めるのさ」と彼は話す。どうやら前世での行いから、種族や初期能力、異世界でいくつ願いを叶えてもらえるか決めているようだ。脳内で行われるのは頼りないが、その光景はいかにも神様らしい。
「――ふむ、生前は近所の老人を車両事故から防いでは川で溺れている子どもを岸まで連れ出したこともある作家志望の18歳の少年、と。まさに絵にかいたようなドリーマーだね」
「うるさいな!」
この神はいちいち人の心を逆撫でしないと気が済まないのか。
「だけど、これだとちょっと厳しいかな」
「何故だ?」
「だって、これって言える功績がほとんどないからさ。もう少し前世でいろいろ残しておいてもらわないと」
「人助けは功績に入らないのか?」
「確かに徳っていう点では評価は高いけど、生憎
「なら、それこそふたりは助かったんじゃないのか」
「それは彼らがそこで死ぬ世界があるかもしれないって思うからでしょ。出生と死没は明確な変化だけど、死の回避は大きな目で見ればただの存在維持でしかない。僕たちにとってそれは線の一部分に過ぎないのさ」
温和な声がこの身に重圧をかける。その重さに従うように、なるほどと首を縦に振る。これ以上話しても往なされるだけだろうし、俺としても痛いところを突かれているのは重々承知である。
「そうだね、まあひとつってところが限界かな」
「ひとつ、か」
「これでも無理矢理引き上げたようなものなんだよ」
確かに今までのことを加味すると良い条件なのだろう。俺は軽くうなずいて了承する。
「納得してくれてなによりだよ、そうでないと後々面倒だからね」
「どういうことだ?」
「それもリズに着けばわかるさ。ほら、決まったら早くキミの願いを僕に伝えてくれ」
変に急いているところが妙に気になるが、俺の知るところではないんだろう。
「願いは何でもいいのか?」
「叶えられる範囲ならね、もちろん『最強にしてください』なんていうのはナシだよ」
「それくらい言われなくてもわかる」
そんな願いが通るなら、異世界は間違いなく強者の溢れた地獄と化しているだろう。俺としても、叶えたい願いはもう心のなかである程度決まっている。
「あと、これだけは言っておかないと」
そういって、レクリムは人差し指を口もとで立てる。
「願いは決して口外してはいけないよ、でないと穢れてしまうからね」
「なら、どうやって伝えればいい?」
「目を瞑って、心の中で唱えるのさ。それで僕には届く」
「テレパシーか」
「まあ平たく言えばね」
目を閉じて、心中の言葉を紡ぐ。文章を起こすことには慣れているが、それを頭の中で留めておくというのは意外と難しい。しかし、下手に曲解されては困るので、出来るだけ正確かつ具体的に思い描く。
「もう目を開けていいよ、キミの望みは届いた」
目を開くと、自分の周囲に青白い光が発現し、
――――転生の時間だ。
「あの」
おもむろに口が開き、顔を神の方へ向ける。
「いや、何でもない」
再度横へと向き直し、俯く。
「勿体ぶらなくてもいいよ、キミが知りたいのは自分の死因なんでしょ」
レクリムは目を見開いてこちらを見る。
「キミの死んだ理由、それは――――」
無意識にもレクリムのほうにゆっくりと目が向く。彼の口はゆっくりと開かれ――
「残念、時間切れだ」
「―――― へ?」
突然、自身のいる床に大きな穴が音もなく開いた。
「いってらっしゃい、少年」
「おわああぁぁあああ――――!」
こうして俺は、異世界リズ・ロノテリアへと生まれ落ちることとなった。
§
「よう、レクリム。今回の仕事は結構速かったじゃねえか」
男の活発な声がレクリムの後方から聞こえる。
「なんだギルベルト、見ていたのなら出て来てくれても良かったのに」
「なかなか珍しそうな件だったからな。でもホントに良かったのか? 勝手にあんなことやっちまって」
短い赤茶髪に鋭いはレクリムの右側に立ち、椅子の側面へ寄り掛かる。
「いいのさ、少しくらいおまけしたってバチは当たらないよ」
「そういうことじゃねえっつうの。ったく、どうなっても知らねえぞ」
「悪法も法さ、だからこそ僕らには破る義務がある」
「んなことやってたらいつか誰かに後ろからグサッといかれるぞ」
「そのときはキミに背中を預けるよ」
「また調子いいことばっか言いやがって」
レクリムの微笑みを見てギルベルトは溜息を漏らす。
「そんなことより、彼はうまくやっていけると思うかい」
「さっきの奴か? 人間なら運頼みだな。転生者狩りと出くわせば十中八九消え去るだろうし」
「だけど、もし"左手の秤"に拾われたらなら」
レクリムは頬杖をついたままギルベルトのほうに目を向ける。
「生き残れるだろうが、確率的には低いだろ」
「それで十分さ。何なら賭けでもするかい?」
「上等だ、俺は去絶に50魂分の仕事を賭けるぜ」
「なら僕は生存にその倍の仕事数を賭けるよ」
「相変わらず嫌なくらいの自信だな」
「僕が送り出した人間だからね。
――――さあ少年、第一関門だ。せいぜいうまく生き延びてくれたまえ」
*キトン:古代ギリシアにて用いられていた衣服。
UP:1〇
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