九歩目

 ざくざくと、裸足で落ち葉を踏み締めていく。

 地面を覆い尽くすのは枯れ葉だけでなく、折れた枝もある。昼ならば兎も角、宵闇に包まれた今、そうした枝の切っ先を見付ける事は難しい。踏み締め、小さな傷が足の裏に作られていく。

 だけど香は止まらない。真っ直ぐにこの道を――――夜の森を進んでいく。

 今回の山は夢ではない。記憶は途切れておらず、朝からずっと続いていた。そう、今朝方美絵の相談を受けた時から、ずっと……

 夜になるまで食事も取らなかった香は、皆が寝静まった頃、部屋を抜け出した。途中見回り中の信者と出会う事もあったが、彼等は香を見ても深々と頭を垂れるだけ。行き先を尋ねる事も、引き留める事もなかった。

 月明かりがあるとはいえ、木々が立ち並ぶ森の中は暗い。実際香の目には、景色なんて殆ど見えていなかった。しかしなんとなく、道のイメージが脳裏に浮かび、その通りに歩けばすいすいと進んでいける。

 ただただ歩いた。自然と足は速まり、けれども身体は疲れを感じず……


「……着いた」


 香自身驚くほどあっさりと、辿り着く。

 体験修業の時、何度も通わされた池だ。池は今も変わらず水を湛え、岩から染み出す音がちょろちょろ聞こえてくる。周りには大岩が重なり合って出来た岩場があり、木々が生えていたり苔に覆われていたり、昨日見た時と同じく長い時間の流れを感じさせる。

 唯一違いがあるとするなら……人一人が通れそうな洞窟の入口が、岩場の一部にある事だけだ。あたかも、何百年も前からそこにあったかのように。


「ようやく、見付けた」


 ぽそりと独りごちた香は、一瞬の躊躇いの後、池の中へと入る。ざぶざぶと腰まで水に浸かったが、気にも留めない。

 やがて香は池を渡りきり、陸に上がる。服はぐっしょりと濡れ、身体に張り付いた。指を生地と肌の間に差し込み、空気を入れて気持ち悪さを和らげる。

 その最中に、くるりと後ろを振り向く。

 気配がした訳じゃない。音も聞こえていない。強いて言うなら……のようなものに突き動かされた結果だ。

 だから、背後に人影があったのは本当にただの偶然。


「……………」


 人影を見たところで、驚きは特に覚えなかった。香はじっとその人影を見つめてみたが、暗闇の中とあっては輪郭すらよく分からず、誰なのか判別出来ない。

 だけど、もしかすると『彼女』かも知れないと思って。


「待っています。あなたの大好きな人と共に」


 だから香はそう言い残して、穴の奥へと進むのだった。

 ……………

 ………

 …

 中に入って数秒と歩けば、香は洞窟内の奇妙さをすぐに理解した。

 まず、明るい。

 洞窟内に光源らしきものはなく、ましてや壁や岩が光っているとも思えないのに、明るいとはどういう事か。香にもよく分からないが、兎に角明るいと感じた。岩の壁や凸凹した地面も、全てが『視認』出来る。もしも見えていなければ、何度も何度も転んでいただろう。

 二つ目の違和感は、水の流れ方。

 洞窟の奥から水はやってきていたが、その動きが異様だ。足下の地面を流れるのは普通だとしても、壁を這うように、天井に張り付くように、たくさんの水が進んでいる。いや、足下を水が流れるのだっておかしい。香が進む道は明らかな下り坂であり、水はその坂をどんどん登っているのだから。

 物理法則さえも滅茶苦茶な空間。

 そんなものが、宗教団体という馴染みの薄い連中が保有している場所とはいえ、その気になれば常人が歩いて行けるような場所に存在している。ならば似たような領域が、大勢の人が住まう場所の傍にあったとしてもおかしくない。皆が知らないだけで、超常の世界が隣り合っているとするなら……

 人の『常識』や『栄華』というものは、果たして人が思うほど確かなものなのだろうか?


「……っ」


 考えが纏まる、寸前、開けた場所に辿り着く。『明るさ』が増した訳ではないが、今までと少し違う景色に香は身動ぎ。

 次いで、目にしたものに驚いて息を飲む。

 湖のように水を湛えた巨大な広間。その広間の中心に――――目玉があった。

 夢で出会った、あの目玉だとすぐに理解出来た。大きさも、瞳の色も、何より纏う雰囲気も、夢と同じだったから。

 広間に辿り着いた香は、湖に足を踏み入れ、目玉へと迫る。最早見慣れたと思っていたそれは、しかし『現実』でじっくりと観察してみれば、一つだけ違いがあると気付く。

 目玉全体から透明な液体が染み出しているのだ。

 表面を流れていく液体は粘性を帯び、ねっとりと下に流れていく。そして湖に触れると、一気に溶け出して広がった。粘性こそあるが色合いは透明で、水に浸かればもう見た目で区別は付かない。

 この湖の水は、香が通ってきた道を通り、山水神会の修行場である池へと流れ出ている。いや、それどころか山の湧き水にもいくらか含まれている筈。

 修業で、水道で、食事で、香達信者はこの目玉が流すものを体内に取り入れ続けていたという訳だ。こんな得体の知れないものから染み出した、訳の分からない物質を。

 気持ち悪い、と思うのが正常な考え方だろう。


「……」


 だが、香は表情一つ変えなかった。それどころか無意識に目玉の表面に触れ、撫でていく。

 目玉に触れた手には、ねっとりとした粘性の液体が付いていた。粘り気は強くないが、中々手から落ちていかない。

 それすら、香は気にも留めないが。


「……? 何、あれ……」


 目玉を観察していた香は、その目玉の後ろに『縄』のようなものがあると気付く。

 縄の太さは一メートルはあるだろうか。無数の細い糸が束になって出来たもので、見える範囲だけでも何十メートルと、洞窟の奥を目指すように伸びている。近付いて観察すれば、その糸が肉を捏ねて作ったような、醜悪な外見をしていると分かった。また血液のようなものが通り、目玉に力を与えていると感じる。

 一言で例えるなら、血管の纏わり付いた視神経、だろうか。

 これは何処へ伸びているのか? ふつふつと湧く疑問に従い、香は『視神経』が伸びている先へと歩く。道のりは平坦で、苦もなく辿れた。

 数十メートルほど奥へと進んだところにあったのは、大きな穴。

 穴の直径は……香にはよく分からない。あまりにも大きくて、ピンとこないのだ。百メートル、いや、二百メートルはあるだろうか? 小学校の陸上用トラックよりも遥かに大きい、という表現が一番正確かも知れない。

 視神経はその穴の中へと伸びている。

 香は少しばかり足取りを慎重なものにしながら、ゆっくりと穴の傍まで移動。視神経が伸びる、奥底を覗き込む。


「……アレは……」


 『それ』を目の当たりにした香は、ぽそりと声を漏らした。

 穴は、何百メートルもの深さがあった。本能的に意識が遠退きそうな高さ。しかし香の意識は、どんどんその奥へと向かっていく。

 穴の底にて蠢くものに、引き寄せられるように。

 それは肌色をした、巨大な肉の塊だった。いや、肉塊と呼ぶ事すら上品かも知れない。蠢き、沸騰するように内側がひっくり返り、ごねごねと形を変えていく。

 肉塊の輪郭は、まるで仰向けに倒れた『人間』のよう。頭なんてないし、手足は骨のように細く、胴体も痩せ衰えたもの。更に胸部が裂けて空っぽの中身を晒しており、お世辞にも人間と似ているとは言い難いが、兎に角人型をしていた。大きさは、ざっと五十メートルはあるだろうか。

 香はもっと身を乗り出し、更に肉塊を見る。

 本来なら、見える筈がない距離。だけど香の目には映った――――姿が。

 肉塊と癒着している人間達の多くは形を失い、顔の輪郭も性別も分からないほど溶けている。けれども明らかに手足が、顔が、何百と確認出来た。顔は微笑みながら自由に動き、腕は肉塊から出たり入ったり。まるでまだ生きているかのように活動している。

 いや、事実生きているのだろう。それも幸福に。


「良いなぁ」


 無意識に出てきた言葉は、羨む気持ちを隠さぬもの。あそこに行きたいと思ったら、もう、止められない。

 香は、服を脱ぎ捨てる。こんなものはいらない。何故かは分からないが本能的にそう思った香は、自分のしている反文明的な行いを躊躇わない。

 生まれたままの姿となった香は、ぺたり、ぺたりと前へと進んで、崖っぷちに立つやその奥底をもう一度覗き込む。

 無数の人間達が蠢く肉塊。そこに見慣れた『顔』がある。

 湯崎が居た。

 明人が居た。

 幸司が居た。

 彼等が手招きをした。

 それだけで香は一歩踏み出せて――――躊躇いなく、崖を飛び降りた。

 自由落下で感じる、奇妙な浮遊感。ただしそれは数秒で終わり、香は肉塊へと落ちた。衝撃なんて殆ど感じず、まるでそうなる事が自然であるように、肉塊と接した背中が溶けて消えたのを感じる。

 刹那、香は全身を駆け巡る『情報』に目を見開く。

 ――――大きな山が見える。

 山は木々に覆われていた。地平線の彼方まで森が支配し、人工物の姿など何も見えない。

 その大自然の中を、頭が目玉に置き換わったような裸の巨人が闊歩していた。

 巨人は一人ではない。森のどんな木々よりも大きな巨人が、何十と集まっていた。彼等は言葉を発しなかったが、拳で相手を小突いたり、肩を組んだり、虹色に揺らめくヘビのような生き物を食べたり……穏やかに暮らしていた。

 だがある時、空から『青いモノ』が落ちてきた。

 青いモノは巨人達よりも小さかったが、巨人達よりも強かった。無数の触手を振り回し、巨人達を八つ裂きにしていく。青いモノはやがて最も大きな巨人と相打ちになって倒れたが、その時にはもう人の形を残した巨人はいなかった。

 されど生命力に溢れる巨人達は、全てが死んだ訳ではなかった。

 肉体は切り刻まれても、幸運にも『中枢』である目玉が無傷だった巨人は生き延びたのだ。とはいえ目玉だけではまともに動けず、次元の狭間に転がり込んで身を潜めるしかない。傷を癒やすために何万年、何十万年……気の遠くなる年月、ひっそりと休み続けるために。

 その最中に現れたのが、人間。

 人間は良い生き物だった。巨人との『親和性』が良く、それでいて自我がちっぽけなため、。青いモノによりバラバラにされた肉体は時と共に少しずつ回復していたが、人間の身体を使えばその期間を短縮出来るのだ。

 しかしそのままでは使えない。如何に親和性が高くとも、巨人と人間は違う存在だ……種どころか、存在としての次元そのものが。それに小賢しい人間達は、そのままでは巨人を受け入れず、敵対するだろう。全盛期ならば問題ないが、傷が癒えていない今、人間と敵対するのは好ましくない。

 故に巨人は次元の狭間に身を隠したまま、流した涙を山の湧き水に溶け込ませた。巨人の体液を摂取させる事で、人間の存在を自分達の側へと引きずり込むために。故郷を求めるように、涙が流れた場所への想いを募らせるために。

 今はまだ、涙に含まれる因子との相性が良く、強く結び付いた者しか惹き寄せられないが……いずれ完全に復活すれば、ただそこに居るだけで、あまねく人間達の存在次元を引きずり込み、誘惑するだろう。

 七十億の人々の身体を用い、巨人はかつての栄光を、それ以上の繁栄を取り戻すのだ。


「(ああ、楽しみ……)」


 を理解して、香は微笑む。それは自分の意思なのか、はたまた巨人の意思なのか。溶けて、大いなるものと混ざり合う今ではもう分からない……そもそも大した問題ではない。

 自我が消えるほどに幸福に満たされ、人の記憶が薄れるほどに巨人の記憶が埋まっていく。そこにあるのは安らぎと幸福だけ。植え付けられた郷愁の念も、感じてしまえば事実となる。

 穏やかな世界の中で、祝詞が聞こえてきた。

 ディーダラヴォルを讃える歌だった。誰かが、みんなが、歌っていた。

 香は笑った。笑いながら、その祝詞を共に歌った。

 初めての修業で歌った時のように、自分自身の意思で。














 ディーダラヴォル


 ディーダラヴォル


 早くこちらにお越しください


 眠りを覚ますに至らぬならば


 我が身を捧げ


 御身と一つになりましょう――――



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川の流れが行き着く先 彼岸花 @Star_SIX_778

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