15 美術館

「ねえ、もうソフトクリーム食べに行かなーい?」

「柚果、声大きい。ここ美術館」

「いいじゃん別に。周りが勝手に静かにしてるだけなんだしさあ。てか絵って、やっぱあんま興味ないんだけど」

「柚果」

「ごめん真波。私ももう飽きちゃった。橋村と横田もいつの間にかどっか行っちゃったみたいだし、柚果と私も先行ってるね」

「あ、ちょっと詩織まで」

 柚果と詩織は行ってしまった。やはりこうなったか。真波はため息をついた。

 柚果の大声でのせいで集まっていた視線が、パラパラと散っていく。柚果と詩織がどこかへ行ってくれて安心しなかったといえば、嘘になる。

 三方の白い壁に横一直線に並べられた絵。大型のものは迫力があり、小さなものには奥ゆかしさを感じる。磨き上げられた薄茶色の床には逆さまの絵が滲んでいる。ぽつぽつと点在する人はそこをゆっくりゆっくり踏み渡り、たまに立ち止まりながら、静かに絵を鑑賞している。地元住民と思しき年配の人が多い。学生は真波たちの他にはいない。

 ここ、一階市民ギャラリーは期間限定の展覧会になっているらしい。その名も小樽美術協会展。すべて現役の協会会員の作品であり、どの画家もまったく知らないが、大きな美術館に常設されていてもおかしくないクオリティーのものばかりである。

 真波は動く人々の中に、長時間立ち止まっている高根を見つけた。生気のない目は、前方の一つの絵をじっと見つめている。真波は忍び足で近づいて、恐る恐る声をかけた。

「なんか、みんなもう先行っちゃった」

「そうなんだ。じゃあ、俺たちも行く?」

 高根は絵から目を逸らさなかった。

「いやいや、まだ全部見れてないでしょ。予定を無視してるのはあっちなんだし、思う存分、見てたらいいよ」

「小田原さんはどうするの?」

「私は、あっちとか見てようかな」

 声が上ずって、密かに咳払いする。真波も、一人で絵を長時間見ていられるほど興味があるわけではない。高根のそばから離れるのはなんだか名残惜しいが、言葉通りその場を離れようとした。

 ふと、真波は高根が魅入っている絵を見て、足を止める。

 両腕を広げても及ばないほどの幅の、横向きの大きな絵。まるでCGのような、明るい緑の綺麗な森。それを取り囲むような灰色の荒波は、森とは反対側、すなわち観客に向かって押し返しているように描かれている。森も波も、すべてが左右対称である。

 ただ、目を奪われるのはそこじゃない。絵の中央上部には、真っ白な異形の城が霞んでいる。

 独楽のような物体――逆さまの平べったい円錐の上に、円錐の円と同じ底面積の平べったい円柱がくっついた構造体。それが、門の上に縦に二つ、積み重なっている。すなわち、逆さまの円錐の頂点が下の物体の円の中央に接しているだけで、独楽のような物体は静止している。何かの拍子にバランスを崩して独楽が転げて落ちてきてもおかしくない、建築学的にありえない構造。それゆえ独楽は個々に浮いているようにも見える。

 真波は思わず、声を漏らした。

「この絵、すごい」

「うん。引き込まれる何かがあるよね。小田原さんはこの絵のどういうところがすごいと思う?」

「え? えーっと」

 真波は言葉に詰まるが、適当にすごいって言っただけだと思われないよう、思いついた限りの言葉を口にする。「もの凄くタッチが繊細で、森の部分は写真みたい。でも、波といい、城といい、現実の風景を参考にしたんじゃないんだと思う。空想だとしても、本当にどこかに存在している世界みたいに見える。そうやって、ここまで忠実に描けるのはすごいと思う」

「夢で見たものを描く画家」

「夢?」

「そう、寝ている間に見る夢のこと。気になって、スマホで作者のことを調べたんだ。そしたら小樽ジャーナルってサイトで、そんな風に紹介されてた。記事によると、作者は夢を見るたびに、現実とは違うどこか特定の世界にワープしてるんだって。そこで見た景色や人物が、絵の題材になってるらしい」

 真波は絵の下のプレートを確認する。

『もう一つの世界 平野現夢』

「なんか、不思議。でも夢の中でどこか別の世界と繋がってるなんて、そんなことあるのかな?」

「まあ、ほんとかどうかは分かんないんだけどね。夢って不思議だけど、所詮は現実で見たものがごちゃまぜになってできた世界でしょ? この人が夢で見たっていうものも、案外現実で見たものが夢に出てきただけだったりして。ほら、こっちの絵なんて、ゲームに出てくるキャラクターみたいじゃない?」

 高根は真波を隣の絵の前に誘導した。城の絵よりも一回り小さい縦向きの絵が、短い間隔で横に数点並んでいる。クリーム色を背景にした全身の人物画だった。絵の彼らはそれぞれ色とりどりの西洋風の騎士服やローブを身にまとい、さまざまな武器を持っている。

「確かに」

 真波の真正面の絵に描かれているのは、四人と一体の生物だった。宙に浮いている犬のような白い小さな恐竜。紫のローブを着て、手に炎をまとわせたひょろ長い色白の青年。赤い騎士服に大きな剣を担いだ、鋭い目つきの無愛想な青年。黄緑色の騎士服に弓を持った笑顔の少年。青色のローブを着た、手のひらの上に氷の塊を浮かせているボブヘアの少女。

 隣の絵には、三人が描かれている。橙色の騎士服で、柄の長い鉄の斧を担いだ青年。ピンクの騎士服で槍を持っている少女。黒い騎士服で細い剣を腰に提げた、目から鼻にかけて黒い仮面をつけた青年である。

 絵のタイトルは、同じような複数の人物画を総称して、『城を目指す者』。

「これって」

 真波の声は、背後から聞こえてきた男性の声に遮られた。

「これ、ファンワーに出てくるキャラクターみたいやんけ!」

 驚いたのは大声のせいだけではない。真波も同じことを言おうとしていたからだ。振り返ると、制服を着崩した短髪の男子生徒が立っていた。

「あんたあほちゃう、声でかいねん」

 スカート丈が短いポニーテールの女子が腕を組み、短髪の男子を睨んでいる。

理央りおもたいがいな」

 黒縁メガネの男子は、絵に集中しながら小声で遇らう。この三人組は真波と同じ学校の生徒ではない。三人とも灰色のブレザーの下に、思い思いのトップスを着ている。短髪の男子は橙色のニット、ポニーテールの女子はピンクのカーディガン、黒縁眼鏡の男子は黒のパーカー。真波の高校よりも規則が緩いようだ。

「だってえ、あたしこういう静かなとこ苦手やねんもん」

「俺も。お前がここ来たい言うからついて来たったけどさ」

「悪い悪い。次に描く絵の参考に、どうしても美術館に来たかったんや。でももうええよ。大分参考になった」

 真波と高根はその場を離れるかどうするか目配せしていたが、三人のほうが先に引き払うらしい。

「ちょっと待って」

 何やら鞄の中をごそごそとあさっていたピンクの女子が声を上げた。「スマホがない」

「はあ? ついさっきまでスマホ触ってたやん」

 橙色の男子が顔を歪める。

「どっかに落としたんかな」

「こんな静かやったら、落としたらさすがに気づくんとちゃう?」

 黒色の男子は辺りを見渡す。

「でもないねんて」

「ほんまお前、よう昔っから物落とすなあ」

 橙色の男子とピンクの女子の言い合いが始まる。

「なあ、あたしが最後にいつスマホ使ってた?」

「なんでオレらが知ってんねん。もーオレ腹減ったし、先行くで」

「さっき昼ご飯食べたばっかりやん」

「まあまあ。邦明くにあきも一緒に探したりいや」

「ほんまやで」

「お前が言うなや」

「だってえ」

「二人とも、声でかい」

 真波と高根は目配せして、結局その場を去ろうとした。しかし、行く手をのっそりとした人影に阻まれる。

「これ、お嬢ちゃんのかい?」

 息をのむほど年老いた風貌の、老人の男性。しわくちゃの震える手には、キラキラのデコレーションが施されたスマートフォンが握られていた。

「あ、あたしのスマホ!」

「二階の椅子の上に置いてあったんじゃ。係の人に届けようと思って持ってきたが、持ち主が見つかってよかった」

「おじいさん、ありがとう!」

 老爺はふぉ、ふぉ、ふぉ、と笑った。

「大切にしなさい。これから出会う仲間をのう」

 老爺は関西弁の三人だけでなく、真波と高根のほうも意図的に見た。皺だらけの顔で微笑みながら、ゆっくり去っていく。真波と高根、関西弁の三人はしばらくその後ろ姿を見送ったあと、それぞれ顔を見合わせた。

「爺さんの言う通りやぞ。スマホぐらい大事にしい」

「いやいや、これから出会う仲間をって言うとったから。あんた、耳悪いんか」

「物なくす奴が偉そうに言うな」

「まあまあ」

 真波は老爺のほうを振り返った。どこかで会ったことがある気がしたのだ。古い布切れのような服に、つばの垂れ下がった茶色いハット。朽ちた樹木のような身なりに、白い口髭。

 老爺の姿はもうなかった。老爺のあの足で、そんなはずはないのに。

「ほんなら、これから出会う仲間ってどう言う意味やねん」

「さあ、あたしに訊かれても知らんし」

 真波は不意に、関西弁の三人と目が合った。誰かが声をかけるわけでもないもどかしい状況の中、真波は思わず視線を逸らす。すぐにまた三人のほうを見たが、彼らは遠ざかっていくところだった。

「明日はスキーかあ」

 橙色の男子の声は相変わらず大きかった。彼らともどこかで会った気がしたが、老爺と同じく、気のせいだろうか。

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