9 絵
「ごめん、お待たせ」
ようやく待ち合わせ相手が来た。ちょうど一つ目の鍵を手に入れて第一章をクリアした、キリのいいタイミングだった。ライフもなくなった。ライフは二十分に一つ回復するが、ゼロの状態だと課金しないとバトルができない。真波はスマホをブレザーのポケットの中にしまった。
「じゃあ、行こうか」
高根聖也は相変わらず淡白である。真波は一歩後ろについて歩く。顧問の先生とどんな話ししてたの?など、真波から気軽に訊けるような関係ではない。
高根は美術室の引き戸を開けた。ガラガラという錆びついた音がした。
「悪いね、二回も付き合ってもらっちゃって」
「いいよ。演奏会終わったあとで、部活も休みだし」
「じゃあ、またそこに座っててくれる?」
シンナーのような、鼻がツンとするにおい。教室の隅や棚の上が様々な作品や備品で散らかっている。床には様々な色の絵の具がこびりついている。
夕方の美術室は、窓の外の木々が影になることで日差しが入りにくく、薄暗い。高根は電気を点けない。そんな空間で見る肖像画や石膏像は少々不気味である。
逆さまにした背もたれのない椅子が六つずつ置かれた、二つの大きな木の机の間にポツンと、一つの椅子が置かれている。ちょうど、教室の真ん中。真波は机の上に鞄を置き、椅子に座った。背筋を伸ばして、顎を引く。やり場に困る視線は、とりあえず黒板の落書きに向ける。黒板と真波の間に、高根が真波のほうを向いて座った。高根の斜め前にはイーゼルの上に乗った、抱えるほどの大きさのキャンバスがある。高根は真波をちらちら見ながら、キャンバスを筆で撫でる。何を描いているのか、真波からは見えない。
先週、それまで特に話したことのなかった高根に声をかけられたと思えば、唐突に絵のモデルを頼まれたのだ。イメージしている少女の表情の参考にしたいとか、なんとか。
三十分ほど経っただろうか。時計は斜め後ろの壁にあるが、真波は振り返るタイミングを掴めずにいた。
高根はため息をついて筆をほうった。平筆を手に取ると、キャンバスの中央少し上にぐるぐると塗りつけた。
「ダメだ。ごめん、やっぱり顎を上げてもらえる?」
「え? こ、こう?」
「うーん、ちょっと下、もうちょっと上」
前回も描き直すたびに角度を注文されては、その日中に絵を完成させることができず、今日を迎えたのである。
「そう、そんな感じ。見透かすように、俺のこと見ててくれる?」
胸がキュっとした反動で、真波は目を見張った。目を逸らしたくてたまらないほど顔が熱くなるが、高根はあまりにも真っ直ぐ見つめてくる。いやいや、何恥ずかしくなってんのと、頭についた埃を払うように小さく頭を振る。
息を止め、意識して視線を固定していると、だんだん高根の目を見慣れてきて、肩の力が抜けた。でも、と、さっきの自問を何気なく否定する。普段の高根は陰気な印象が強いため女子からも人気はないが、案外綺麗な顔立ちでかっこいいと真波は思う。前髪の隙間からのぞく上目遣いの目なんて、特に。
かといって、高根の顔を眺めているだけで、息の詰まるこの時間の気が紛れるわけではない。
「明日からの修学旅行、憂鬱だなとか、考えてるでしょ」
高根の予想は大当たりだった。真波は視線を下へやる。
「そんなことないよ」
「見栄っ張りなんだね。修学旅行なんて行きたくないって顔が言ってる。気を遣う友達を持つのは大変だね」
「別に、気を遣ってるわけじゃ」
「どうしてあの二人と友達になったの?」
「どうしてそんなこと訊くの?」
「気になっただけ。答えたくないなら、答えなくていい」
「友達になるのに、理由なんてない」
「友達にならないのには理由がある。小田原さんは、俺と同じ種類の人間だと思うからさ。俺たちは校則や約束を破るようなことはしない。授業も真面目に受けるし、宿題だってちゃんと出す。いくら面倒でも、それが自分に返ってくることがちゃんと分っているからだ。他人が傷つくことがなんなのかも分かって、それをすることはないし、口にすることもない。だからこそ、人に土足で踏み入られたくない悩みだってある。俺は間違ったことに合わせたり、無理をして自分を偽るくらいなら、友達でいることなんて馬鹿げてると思う」
「柚果と詩織とは、同じ小学校だったの。でも、小一の途中からと、中学は同じじゃない」
真波は、柚果と詩織と出会った日のことを思い出していた。高根ではないどこか遠くを見ながら、絡まった毛糸をほどくように、つらつらと思い浮かんだことを口にした。
小学一年生のときに地元で地震があって、親の本社転勤とかをうまく利用して、互いに今の家に引っ越してきた。示し合わせたわけじゃない。地元の小学校で仲が良かったわけではないから。奇跡みたいな偶然で、この高校の吹奏楽部で再会した。それがきっかけで、『親友』になった。
高一の頃は柚果も詩織もちゃんとしていて、三人が三人とも、平等に仲が良かった。同じ大学へ行こうって言ったり、模試の前には一緒に図書館で勉強したり。でも、二人はだんだんに勉強についていけなくなって、模試の成績も思うように伸びなくなっていった。やさぐれてと言ったら言い過ぎだけど、次第に今の状態になった。気づいたときにはもう遅くて、二人とは決定的に波長が合わなくなっていた。
真波はいつからか口を噤んで、頭の中だけで言葉を連ねていた。しかし、高根は何も言わなかった。
『親友』という言葉に縛られている関係。それが、今の柚果と詩織との仲を象徴するのにふさわしい。柚果が「私たち、親友になろう」と口火を切ったあの再会の瞬間から、実はそうだったのかもしれない。でも、二人が『親友』でなければ、ほかの誰が友達になってくれただろう。高根と違って、友達は必要だと思う。親には心配をかけられないから。
真波はこめかみを押さえた。
「大丈夫?」
「うん、ちょっと頭痛が。でも、もう平気。ごめん、何の話してたっけ」
「他愛もない話だよ」
真波は気づいたことがある。今朝から続くこの頭痛。ズキンと一瞬だけ痛みが走ったと思えば、それまで考えていた嫌なことを忘れている。
「なんだか、表情がちょっと柔らかくなった?」
「え?」
「うん、その表情、さっきよりもすごくいいと思う。しばらく、そのままにしてて」
高根は素早くキャンバスに筆を走らせる。確かに、気分は晴れやかだった。
「ねえ、今日こそどんな絵を描いてるのか教えてよ」
「前も言ったけど、見たらショックを受けると思うよ」
「だからそれ、どういう意味?」
「見たら分かる。でも、見ないほうがいい。ショックを受けるだろうから」
真波は頬を膨らませた。先週もこんなやりとりのループで、結局絵を見せてもらえなかった。
「その絵って、コンクールに出すんだよね?」
「うん」
「いつあるの?」
「来週と来月。これは来月のに出すつもり」
「来週には別の絵を出すの?」
「うん。別の絵はもうほぼ完成してる」
「どんな絵? あとで見せてよ」
「大した絵じゃないよ。……顎が落ちてきてる」
真波は顎を上げた。会話のキャッチボールは返ってこなかった。真空のような張り詰めた空気に変わる。美術室は高根の世界に取り込まれたようだった。
真波は高根の動作をじっと見つめて、羨ましく思う。人に気を遣わない自然体、他人に媚びない余裕。高根のようになれたならば、毎日生きるのがどれだけ楽になるだろうか。
「ちょっとトイレ」
高根は筆を置くと、美術室を去っていた。
緊張が解けた。真波は深呼吸して、腰を丸めた。キャンバスの裏側をじっと見つめる。
高根はどんなことを考えているのだろう。どんなことで悩んでいるのだろう。
見たらショックを受けるかもしれない。そんなこと言われたって、真波にだって怖いもの見たさはある。真波はおもむろにキャンバスに歩み寄り、絵を見た。
……絶句した。暗い靄のような背景。制服を着た少女が一人、頭から腰まで大きく描かれている。正面から風が吹いているようにボブのストレートの髪はなびき、何かを掴もうとするように、少女はこちらに向かって右手を伸ばしている。
少女の胸には、銃で撃たれたような穴が空いていた。銃創の周りは白い渦のようになっていて、弾が空気を突き破った躍動感を描いているのが分かる。血を表現する赤こそ塗られていないが、十分惨たらしい。少女の顔は下書きの段階で不気味だが、確かにそれは真波の表情だった。くすんだ、生気を失ったような瞳。
嫌な思いはしなかった。とてつもなく上手で、美しい絵に魅了された。艶やかな立体感に、凡人には真似できない色づかい。そういえば、高根はこれまでに数々のコンクールで入賞していると聞いたことがある。噂程度なのは、全校集会で表彰されているのを見たことがないからだが、高根は恥ずかしいからといってそれを断っているらしい。
すごい。真波は気持ちが高ぶっていた。高根のほかの作品も見てみたい。真波は辺りを見渡した。
教室の端にはまったくタッチの違う、高根の作品には劣る絵が並んでいる。ふと、廊下側の棚の上の、布を被った四角い板のようなものが目に入った。銃で撃たれた少女の絵と同じ大きさ。真波は吸い寄せられるように、背伸びをして布をめくった。
「あ――」
高根が戻ってくるころには、真波は元の椅子に座って注文された表情を作っていた。高根がキャンバスの前に座る。また真波のことをちらちら見ながら、静かに描きはじめた。
高根は手を止めた。
「絵、見たでしょ」
真波は目を泳がせたあと、こくりと頷いた。
「俺は別にいいんだけど。ショックじゃなかった?」
「ショックっていうか、びっくりした。上手すぎて」
「そう? それは良かった」
「ねえ、その絵のタイトル、なんていうの?」
「なんだと思う?」
「うーん……希望、とか?」
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく」
「何それ。でも、いいタイトルだね。それ、もらってもいい?」
「決まってなかったの?」
「まあね」
美術室の影はだんだん濃くなり、窓の外は濃い橙色になっていく。高根がキャンバスに目を落とす瞬間を見計らって、真波は愛想笑いをやめる。
真波は廊下側の棚の上にある、布を被った高根のもう一つの絵が気になって、落ち着かなかった。
真波は一人美術室にいて、絵を眺めていた。
明日は修学旅行だからあまり遅くならないようにと切り上げることになった。銃で撃たれた少女の絵は、大体完成したようだった。一度は高根と一緒に帰路についたのだが、このもう一つの絵が気になってこっそり引き返してきたのだ。
外は完全に日が落ちて暗いため、電気を点けている。それだけで、美術室の雰囲気はさっきとは打って変わってメルヘンチックになる。そこにぽっかりと穴が空いたような、高根の絵。
青や紫混じりの黒で塗られた、全体の大部分を占める暗い背景。その中央下部に、闇に紛れている少年の姿が描かれている。少年は上部に向かって右手を伸ばしており、床を這うような体勢である。少年が手を伸ばしている先は白くなっているが、おそらく最初からそうだったのではない。
真波は息を吸って、大きなため息を吐いた。高根がトイレに行っている最中、この絵見たさに布をめくった瞬間、絵が真波に向かって倒れ、誰かが置きっぱなしにしていたパレットと筆に接触してしまったのだ。布が変なところに引っかかっていたことと、キャンバスの位置に対して真波の身長が十分でなかったことが引き起こした惨事だった。
運の悪いことに、パレットと筆には白い水彩絵の具が水に溶かされたままとなっていた。倒れた絵を起こしたときには、絵の上部、ちょうど少年が何かに向かって手を伸ばしていたその何かに、白い絵の具がべったりと跳ね返ってしまった。高根が戻ってくるころには、絵に布を元どおりに被せ、棚や床に飛び散った白い絵の具は拭き取ったため、高根はこのことに気づいていない。それでもこのまま隠しておくわけにはいかず、かといって打ち明けるわけにもいかず、悩みに悩んだ今となっては、こうしてその絵をじっと見つめている。
おそらくこの絵が、来週のコンクールに出すと言っていた作品なのだ。「ごめん、絵を倒しちゃって」や、「事故なの、事故事故」や、「誰よ、こんなところにパレットも筆も置きっぱなしにしたやつ!」など、高根にかける言葉のいろんなパターンを考えたが、それらを聞いた際の高根の顔が、まったく想像できない。見たこともない表情で怒るのか、「いいよ」と微笑んでくれたあとは、もう二度と顔を合わせてくれないのか。
刻々と、時間だけが過ぎていった。白い絵の具が跳ね返ってしまったところには、何が描かれていたのだろうか。
白い絵の具の痕をずっと見ていると、真波はそれが、少年に手を差し伸べている女性の影に見えてきた。長い髪の揺らぐ、光に包まれた女性。
真波はキャンバスを抱えると、近くのイーゼルの上に置いた。散在していた筆洗いに水を入れ、パレットに白い水彩絵の具を垂らし、濡らした筆に絵の具をなじませる。椅子に座り、絵に対して筆を構える。
もちろん、躊躇いはある。人の描いた絵に無断で描き加えるなんて、立派な破壊行為だ。でも、何が正解なのか分からない。絵を復元させる意図ではない。歪な丸を何重にもなぞり書きして、綺麗な丸に近づけるような心理だった。
『絵を見ようとして布をめくったら、倒れてしまい、前に置いてあったパレットの白い絵の具が跳ね返ってしまいました。素敵な絵を汚してしまって、本当にごめんなさい。小田原』
絵を元の棚の上に戻すと、そうしたためた手紙をキャンバスと棚の間に挟んだ。
特に絵が上手いわけではない真波が描いた、少年に手を差し伸べる女性の影。この絵を見た人にこれは何かと訊けば、八割は真波の意図するものを答えるくらいの出来ではあるが、高根の技巧の詰まった少年の絵と暗い背景に、明らかに馴染んでいない。
真波はまたため息をつくと、慎重に、キャンバスに布を被せた。
その帰り道に頭痛がしてからは、明日からの修学旅行で高根とどんな話をしようか、どうやって話すきっかけを作ろうか、そんな妄想ばかりを膨らませていた。
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