ロン ~僕の父親~

杉本らあめん

ロン

 あれは僕が幼稚園の頃だっただろうか。いつものように最寄りのバス停で送迎バスを降りると、母が手を握ってくれた。冬の始まりを告げるように木枯らしが吹く並木道を、僕は母と手を繋ぎながら家へと歩く。木々たちが落とした茶色い葉っぱをザクザクと踏みしめながらふと空を見上げると分厚い灰色の雲が地上に蓋をするように覆いかぶさっていた。いつもと変わらない、ありふれた光景だった。しかし隣を歩く母の、周囲の光景に馴染むようなかすんだ瞳はいつもとは違った様相を呈しているように感じた。


「ねえお母さん、今日ね、お弁当一番に食べたんだよ。」


「そう。」


「すごいでしょー。」


「すごいね、しょうちゃん。」


「ねえお母さん疲れちゃった?」


いつもと同じ声、いつもと同じ言葉。それなのにどこかいつもの母とは異なるものを感じていた。

母は僕の言葉に驚いたようにこちらを見つめ、そしてふうっと大きく息を吐いた後、笑顔を作ってこう言った。


「しょうちゃんすごいね。お母さんが疲れてるってなんで分かったの?」


僕もなぜなのか分からなかった。ただ、母がいつもの母じゃないような気がして聞いてみただけだった。ただ、その違和感が良いものではないことだけはなんとなく感じ取っていた。



 翌月、僕の家族は隣町へと引っ越した。母にどうして引っ越すのかと尋ねてみると、お買い物が便利だからだと言っていた。僕は幼いながらにも、今までの友人と離れてしまい、新しく出会う人と仲良くできるか不安だった。だが、新しいところへいざ通い始めてみると、そんな不安は跡形もなく消え去った。他愛もないことで大笑いできる子や、僕の腕をつねって気を引こうとする恥ずかしがり屋な子など、意識せずとも僕の周りには友人と呼べる子が増えていった。しかし僕には気がかりなことがあった。引っ越しを終えて数日が経ってから、父がめっきり姿を見せなくなった。引っ越す前、夜八時頃には額に汗を浮かべて帰宅する父を、お仕事って大変なんだなあと感じながら出迎えていた。しかし引っ越して数日の間はバタバタと家を出入りしていたのだが、その後は一度も帰宅することがなかった。何度か母に尋ねてはみたのだが、お仕事が忙しいからだと答えるだけで、いつ帰ってくるのか教えてはもらえなかった。



 電話の音がけたたましく鳴り響いた。どんよりと沈んだ憂鬱な空から大粒の雨が打ち付け、風がごうごうと鳴り響く中でも耳についたその音に、僕は妙な胸のざわつきをおぼえた。その後すぐ、何かが崩れ落ちる音がして僕は階段を駆け下りた。そこで崩れ落ちていたのは、雨に流された土砂でもなく、風に倒された自転車でもなく、受話器を握りしめたままの母だった。その手は小刻みに震え、目は焦点が合わず、言葉にならない声をもらして床に倒れこんでいた。僕は母に駆け寄り、その腕を必死に抱きしめた。こうしていないといつもの母がどこか遠い所へ行ってしまいそうで怖かった。わけも分からず泣きじゃくりながら強く、強く母を抱きしめた。



 父が死んだ。落ち着きを取り戻した母に連れられて行った病院でそう告げられた。何を言っているのか分からなかった。父は目の前にいる。ただ寝ているだけだ。またすぐに起き上がっておはようと言うだろう。そしてまたお仕事に出かけていくだろう。


「ねえお母さん、お父さんなんでお昼から寝てるの?」


僕の問いかけに対して、母からは何も返答がなかった。いや、もしかすると雨の音で聞こえなかっただけかもしれない。ふと母を見ると、雨で顔がびしょぬれになったままだった。そのあとのことはあまりよく覚えていない。ただ、黒い服を着た大人が大勢集まって泣いたり、難しい言葉の羅列を聞いたりしていたような気がする。それから父には一度たりとも会えなかった。



 時は過ぎ、僕は小学生になった。以前はたくさんいたはずの友人たちも、もう僕の周りにはいなくなった。学校の昼休みや放課後、他の子たちはグラウンドに出てボールを蹴ったり投げたり、廊下で走ったり騒いだりしていたが、僕はそういったことに全く関心がなかったので、よく図書室にこもるようになった。特にこれといって読みたい本があるわけでもなかったのだが、まだ読んでいない本を見つけては、そのシリーズを全巻読みつくす。ひたすらそれを繰り返した。当然外で遊ぶことも無くなり、次第に目も悪くなった。同じクラスの友人たちは学年が上がるにつれ、どんどんたくましく成長していったが、僕はいつまでたっても小さく細いままだった。学校の図書室の本をほとんど読みつくしてしまって、特にやることもなかったので早めに帰宅すると、庭の方でガサガサと物音がした。母が植木の世話でもしているのだろうかと思い、家に入らず庭を覗く。


「ただいまー、うわああっ!」


僕は驚きのあまりしりもちをついた。犬だ。それも僕なんか簡単に押しつぶされてしまいそうな大きな犬だった。これが僕とロンの最初の出会いだった。そして、僕にとってかけがえのない出会いだった。



 その犬は次の日も、また次の日も、そしてまた次の日も、僕の家の庭に居座り続けた。首輪をしているところを見ると、飼い犬もしくは捨て犬だろうと判断できた。その犬はどうやら僕の家の庭が気に入ったらしく、いつまでたっても出ていこうとはしなかった。僕は母と相談し、飼い主が見つかるまで家で預かって面倒をみることにした。それからが大変だった。庭に糞は転がるわ、散歩に出ても言うことを聞かないわで、とにかく骨が折れた。しかしそのおかげで僕の生活はがらりと変わった。朝は早く起きてロンを散歩へ連れていく。学校が終わると真っ直ぐ帰宅し、2度目の散歩へ連れていく。これががまた一苦労で、ロンは僕なんかよりはるかに力強かったので、全身の筋肉全てを駆使してどうにかこうにかコントロールしている状態だった。それからしばらく経っても飼い主が現れることはなく、ロンは僕たちの家族になった。



 そんな生活にも慣れてきた頃、気が付くと僕は高校に上がっていた。引っ込み思案で図書室にこもっていた頃の僕が嘘のように、部活も勉強もその他の活動も、すべ

てにおいて活発に行動し、毎日生きいきとした生活を送っていた。体もすっかりたくましくなり、年相応の体つきになっていた。これも全てロンが僕を変えてくれたおかげだろうと思う。僕の本当の父は早くに死んでしまったが、ロンが父のように僕を支え、時には僕がロンを支える。僕とロンはそんな関係になっていた。



 その日、いつか母と歩いた時のように体のぬくもりをどこかへ奪い去ってしまうような冷たい風が吹き、どんよりとした分厚い雲が幾重にも世界を覆い尽くしていた。いつもの通り帰宅し、ロンを散歩に連れ出そうと声をかける。


「ロンー、散歩行くぞー。」


しかし、いつもは喜び飛ぶように駆けてくるロンの姿が今日は見えなかった。

その時僕は心にモヤモヤとしたものがうごめくのを感じた。


「ロンっ。どこだ?散歩だぞ。」


しばらくすると部屋の奥の方から這いつくばるように僕の元へやってきた。ロンはもう立ち上がるのもやっとといった様子で苦しそうに息をしていた。


「母さん!ロンが!病院連れていく!」


僕はロンを抱きかかえ、全速力で走った。途中で何度もよろめきながら、その度に気合を入れなおし、肺が痛くなるまで走って、走って。病院の入り口でついに倒れこんだ。駆け寄ってきた獣医さんにロンを託す。


「ロン、を、おね、がい、します。」


息も絶えだえにお願いすると、獣医さんはロンと僕の様子を見て状況を察したのか、すぐにロンを抱えて診察室へと消えていった。



 獣医さんの口から発せられたのは非情な通告だった。もう一日も持つかどうか分からない、と。僕はロンを抱きしめた。ボロボロと流れ落ちる涙も漏れ出る嗚咽もそのままに、強く、強く抱きしめた。獣医さんは僕に選択肢をくれた。病院で可能性の低い延命治療を施すか、それとも家で静かに見送るか。僕は迷わなかった。


「家に連れて帰ります。」


僕はロンを抱いたまま、走ってきた道をゆっくりと歩いて戻った。



 次の日、僕は学校を休んだ。ずっとロンのそばにいたかったからだ。ふと思い返してみると、最近は散歩のときくらいしかロンとの時間が取れていなかった。こうやって朝からずっと一緒に過ごすのは出会ってすぐの頃以来かもしれない。ロンはもうほとんど動かず、ずっと僕の膝の上で丸まっている。かなりしんどそうにしているが、どこか嬉しそうにも見えた。


「ありがとう、ロン。ありがとう。ロンのおかげで僕、元気になれた。友達もたくさんできたし、部活だって頑張れるようになった。ロン、ほんとにありがとう。お父さんがいなくなって僕どうしたらいいか分からなかった。でもロンがうちに来てくれた。新しい父さんができたみたいだったよ。ぽっかり空いた心が埋まっていくみたいだった。ほんとにありがとう。」


そう言い終えると同時にロンがスッと頭をこちらへ向けて、震える前足で体を支えながら僕の顔をペロッと一回。そのまますぅっと力が抜け、静かに、静かに息を引き取った。その表情はとても穏やかだった。僕は眠りについたロンをいつまでも、ずっと、ずっと抱きしめた。


「ありがとう。ロン。ありがとう。ありがとう。…さよなら。」



 僕は大人になった。素敵なパートナーと巡り合い、もうすぐ子供も生まれる。ロンのような、人を元気にすることができる立派な父親になれるかは分からない。でも精一杯頑張ってみようと思う。お父さん、ロン、僕を育ててくれてありがとう。そっちで見ていてください。またいつか、笑顔で会いましょう。



       

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