絶禍凛

梅星 如雨露

記事 1


 Φ


 読者諸氏は、字臥恭个(あざがきょうか)を知っているだろうか。新星の如く文壇に現れると、瞬く間に世間を巻き込み、その類い稀なる耽美なる世界を世に知らしめた気鋭の新人作家である。

 この記事に辿り着いたということは、少なからず氏の名前を一度は耳にしたことがあるのではないかと思う。そして、すでにその作品から溢れ出るカリスマ性を。圧倒的世界観で他の追随を許さない非凡な存在性を発揮する字臥氏を知っているというのならば、改めて氏の軌跡を辿っていこうではないか。

 字臥恭个の存在を世に広く知らしめる事となったきっかけは、読書家ならば誰もが知るであろうある新人賞からである。

 後の人気作家を数多く輩出する小説界の登竜門『×××××新人文芸大賞』に届けられた字臥氏の作品『絶禍凛(ぜつかりん)』。これこそがすべての始まりにほかならない。

 その場に居合わせた審査員一同を瞠目させ、否を問わせない衝撃を与えた。

 絶句。

 それ以外にどう形容してよいのだろうか。字臥氏の作品が読まれる段になって、それまで審査会場内に漂っていた弛緩した空気は、瞬く間に氷結され一同を冷厳なる世界へと誘った。


「優れた文学作品に触れた事による、悦び、興奮、感動、それらを包括する全能感……、それがすべて無為なものへと還元された。……。読了後、我々の内を占めたのは圧倒的な〝虚無〟であった」


 字臥氏の作品はその場の大御所作家陣を前にして、彼らを徹底的に打ちのめしただ一言、虚無である、と言わしめたのである。

 その後、満場一致で大賞に選ばれた『絶禍凛』は字臥氏の処女作品として出版され、世界に激しい称賛と、騒然の嵐を巻き起こした。

 いや。実際、言葉でいうような〝嵐〟などは起こらなかったのかもしれない。

 確かに、字臥恭个の『絶禍凛』は、昨今の出版不況をものともせず空前の大ベストセラーを弾き出した。それは事実である。しかし、それは声高々に宣伝された結果ではない。

 ただ静かに、それでいて確実に人から人へと伝播感染していった、と言った方が正しいように思える。

 単に作品が大ヒットしたことだけでは、字臥氏の本質的な才能を語り尽すことはかなわない。そして、単純な面白さだけで、これほどの絶大な支持を獲得する事はなかったと断言できる。

 予定調和の簒奪。それこそが字臥氏の『絶禍凛』を世に膾炙させた大きな要因であり、その虚無という名の病に罹患した人々の心を掴み、氏の作品を希求せざるを得なくさせた所以である。

 字臥氏の綴る物語は、私たちの無防備な心の隙間に易々忍び込み、その空白を埋める。そして、私たちにもたらされた充足感をまるで嘲笑うかのように奪い去って、私たちの心を虚無へと突き落すのである。

 字臥恭个の才覚。人の心を思うまま弄ぶ手腕。氏の鋭敏な臭覚は私たちの心を見定め、甘美な毒を流しこむ。それが当然である、と言わんばかりに無邪気な感情を与えて奪う。換言すれば、スーパースターのウルトラCによって、多くのオーディエンスの心を鷲掴みにするが、掌握した人心を簡単に手放すことを厭わない。

 氏の饒舌な語りに心酔し、思うがまま蹂躙され、圧倒的な絶望の淵に貶められた私たちは、そこで厳然たる喪失のカタストロフを戴く。あとには絞り滓も残ることはない。私たちは耐えがたい渇きに苛まれ、苦痛の裡に未開の地に放逐されるのだ。

 字臥氏の唱える理念の下では、私たちは綺麗に人間性を剥ぎ取られ畜生以下の物質と同義に扱われる。しかし、それは同時に私たちに自由を与える。無能と嘲られることで、すべてのしがらみから解放されるのだ。これ以上の甘美な瞬間が、果たして俗な人間社会の中にあるだろうか? 一つの無為な単位を享受された私たちはそこで氏の手中に堕ちることになる。

 そうやって、知らぬ間に育てられた暴力的な略奪行為に伴う悦楽を求めて、また字臥氏の作品に手を伸ばしてしまう。一度、虚無の味を覚えてしまった私たちが、どう足掻いても逃げ出せない仕組みを字臥氏は巧みに作り上げることに成功した。

 それこそが、字臥恭个という作家の持つ、真に恐ろしい才能の奔流であると私は考える。


 字臥氏の活躍は今尚絶大な支持を受け、精力的な創作意欲から生み出される数々の作品は出版と同時に大きく世に飛び立ち続けている。

 字臥氏の作品の中心を成すのは〝虚無〟であり、それなくして氏の存在を語ることは不可能であることを多少なりとも知っていただけただろうか――。

 ……。

                   〈『週刊×××』20XX/10/2X号 より一部抜粋〉

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