第四十五節 傷心を癒す
メルダーが帰還してきたのは、その日の夕方を過ぎた頃だった。任務に発ったのが朝方であり、早くても午後を過ぎた頃には帰還できると聞いていたのだが。
まさかトラブルでもあったのだろうかと疑問に思い、執務室に戻ってきたメルダーに声をかける。
「随分と帰還が遅れましたね」
「……申し訳、ありません」
いつになく殊勝な態度のメルダーである。何かがおかしい、と視線を書類から上にあげた。視界の先では、膝から崩れ落ちそうになっている彼の姿が目に映る。気付けば椅子から立ち上がり、倒れ込む前にと受け止める。
「メルダー!?」
「っ……」
呼び掛けても返事がない。それに、彼の体に触れて初めてその異常さに気付く。まるで氷を抱いているかと錯覚してしまうほどに、彼の身体が冷たい。顔色はもちろん蒼白だ。唇はもはや、紫色に変色しかかっている。
凍傷、はしていないだろうがその一歩手前だろう。それにこんなに身体が冷えているとなると、低体温症も引き起こしている可能性もある。このまま処置を施さないとなると、命すら危うい。
「……まったく、世話の焼ける!」
そう誰に聞かせるわけでもなく吐き出してから、ヴァダースはメルダーを抱えて執務室を後にする。本部に設置されている医務室へと急いだ。
医務室にいた部下たちは、突然の最高幹部の入室に驚くも、即座に行動に移る。本部の医務室には、それなりの医療機器が常備されている。
何故、犯罪者集団である自分たちの本部に、そんなものが用意されているのか。それはカーサの戦闘員が一般の病院等にかかれないことを考慮したローゲが、精度の高い機材と技師を手配していたからだ。そのお陰もあってか、意識不明のメルダーに人工呼吸器等を取り付けることができた。
低体温症の治療では、患者の体温を上げる必要がある。メルダーの身体は薄めの毛布で何重にもくるまれ、そのうえでベッドの上に寝かされていた。体の外から熱を与えて、正常な体温に戻すための処置だそうだ。しかし一度に体温を上げすぎてはショック症状を引き起こしてしまう危険性もあるため、調整が必要だとのこと。
医療の知識にそれほど精通しているわけではないヴァダースは、医務室にいる部下たちにメルダーを任せるしかなかった。
「では、貴方たちに後のことは任せます」
「承りましたっ……!」
最高幹部である自分からの直接の命令に、部下たちは縮こまりながらも最敬礼をして頷いた。そんなに威圧的になってしまっていただろうかと考えられる余裕は、今のヴァダースには存在していなかった。
執務室に戻ってから放り出してしまっていた書類に手を付けようとするも、何処かでメルダーの安否を気にしてしまう己がいる。そのたびに手が止まり、そのことに気付いては何度もため息を吐く。
何故こんなにも気分が晴れない。何故こんなにも動揺している。何故こんなにも苦しい思いをしている。自分は、メルダーのことが嫌いだったはずなのに。
以前シャサールにも白状したように、メルダーがカーサの新たな戦力のために犠牲となることを、ひどく嫌悪したことは本心だ。ボスであるローゲに逆らった時もメルダーを嫌う云々と考えるより先に、彼の命を優先したことは確かだ。しかしそれは彼をカーサの戦力として数えていて、今失うべきではないと考えた結果でもある。
それ以外の、ヴァダース個人の気持ちが加わる猶予なんて、ないはずなのだ。
一人悶々と考えていたところに、執務室のドアがノックされる音で我に返る。短く返事を返せば、シャサールが神妙な面持ちで入室してくる。彼女は手にしていた書類をヴァダースに差し出しながら、声をかけてきた。
「はいこれ、提出分の書類」
「……ああ、受け取りましょう」
「……大丈夫?」
「なにがです?」
「アンタ、あの時と同じ顔してるわよ」
あの時とは、と尋ねる。ややあってから彼女は答えた。あの時とは、アジトを襲撃されてシューラを失った後のことを指している、と。一瞬息を呑んだが、誤魔化すように口を開く。
「……ご冗談を。シューラと違って、まだメルダーは死んでいるわけではないんですから。なにも慌てる必要なんて……」
「アタシ、メルダーのことなんて一言も言ってないけど?」
「っ……」
シャサールの指摘に、思わず手が止まる。しかし彼女はそれを咎めることなく、言葉を続けた。
「大丈夫よ、あの子ならきっと。強い子だもの」
「……」
「……ヴァダース。もういい加減、自分の気持ちと正直に向き合いなさい。いつまでも意地張ってたら、伝えたいことも伝えられなくなるんだから」
「……わかっていますよ」
「それならいいわ。じゃあ、確認よろしくね」
それだけ言うと、シャサールは執務室を後にする。閉められたドアを一瞥して、ヴァダースは天を仰ぐように椅子に深く腰掛けた。
言われなくても分かっている。この世界、いつ自分の隣にいた人が突然いなくなることだって少なくない。それが自分の身の回りでは起きやすいことなんて、理解しているつもりだ。瞳を閉じて思考を巡らす。そして、心の中である人物に呼び掛けた。
******
己の内に広がる光景を思い返す。頭上に浮かんでいる月を映しているそこに、自分は立っているのだと意識を置いた。やがてゆっくり目を開ければ、そこは見慣れた水面の上。時が経ってもここの光景は変わらないのだな、と陳腐な感想が浮かんだ。
目の前には己と瓜二つの、畏怖の概念が具現化したものが立っている。
「久しいな。お前がここに来たのは、実に三年振りか」
「ええ……」
前回ここに来たのは、彼が言う通り三年ほど前のこと。メルダーがカーサに所属して間もなく、自分が荒れていた頃だったような気がする。畏怖の概念は相変わらず余裕の表情で自分を見据えている。
「それで、お前が自らここに来たということは……またあの時のように、我に聞きたいことができたのか?」
「……それもありますが、話し相手になってほしかったんです。シャサール以外で私を一番理解しているのは貴方です。……一人で考えるより、彼女以外の誰かに聞いてほしかったんですよ。他の人間に話したところで、解決できない問題ですから」
「そうであろうな。……よかろう。一時期お前の悩みが色濃くなり、その結果負の感情も期待通りに成長していた。それを評価して、聞き役になろう」
どうやら上機嫌らしい畏怖の概念に謝礼の言葉を述べてから、ヴァダースはぽつぽつと語りだす。まずは三年前、彼に言われたことを確認の意味も込めて呟く。
「三年前、貴方は私に言いましたね。嫉妬は時に己の成長にも繋がるものだと。嫉妬している人物と己を分析して、その人物に何があって己に何がないのかを理解することが、嫉妬を成長に変える一歩となる、と……」
「そうだ、よく覚えていたな。どうだ、嫉妬の感情を楽しむことはできたか?」
「楽しむどころか……最初は苦痛でしかありませんでした」
メルダーに嫉妬しているなどあり得ないと、何度も考えを切り捨てようと思った。自分のこれまでの努力も知りもせず、平然とした顔で己と同じ椅子に座っているメルダーを疎ましく思い、毛嫌いしていた。そう、自分は嫌っているのであって、決して嫉妬しているわけではないのだと考えていた。
ただ当時、目の前にいる畏怖の概念から思考を放棄するなと言われていたこともあり、ヴァダースは単にメルダーを嫌うのではなく、自分が彼を嫌う理由をメルダーを通じて探ることにした。彼の何が気に食わないのか、その理由を見出そうと。
「なるほど、お前らしい理屈だ。しかしそれで、その理由とやらは見い出せたか?」
「……いいえ。自分が納得できる答えは結局、見つけられませんでした」
それどころか今から一年前の、あの闇オークションでの任務の時。自分が傷を負うことを顧みず真っすぐ自分を救出する姿のメルダーを前にしたとき、今までの感情が分からなくなってしまった。
そしてそこからあまり月日が経たないうちに、カーサの弱点を補完するためにメルダーを人体実験にかけると聞かされ、反発した。世界保護施設が行うような非人道的な行為は認められないと、ローゲに嚙みついた。結局、メルダーが人体実験にかけられることは決定事項になったため、止めることはできなかったが。
その後彼から感謝の言葉を述べられたことで、気付かされたのだ。いつの間にか自分は、メルダーをカーサの一員として認めようとしていたのだと。しかしそれを自覚してから、ヴァダースはますます混乱してしまったのだ。
自分はあれほど、彼を邪険にしていたというのに。それがどうして、こんなに苦しいのか。自分が抱いているこの痛みは、いったいなんなのかと。
「そうして一人で考えていたところに、シャサールが言ったんです。嫉妬が転じてその人のことを好きだって思うこともある、と……」
「真理だな。その女の述べていることは、何も間違ってはいない。人間の感情ほど複雑なものはない。嫌悪が転じて好意になることも、よくあることだ」
「そう、ですか……」
「お前自身、もう分かっていよう。だが口にすることで、まるで自分が負けを認めてしまうことになるのではないか、と。お前の考えは、こんなところであろう?」
畏怖の概念の言葉に、口を紡ぐ。図星だ。ヴァダース自身、今抱いている感情がどのようなものかを理解しようとしている。
ただ、言葉にするのが怖いのだ。誰と何を競っているわけでもない。だがその言葉を口にしたら、自分が過去に抱いていた感情が嘘に塗り替わってしまいそうで、過去の意固地になっていた己に負けたようで、恐ろしく感じてしまうのだ。
「案ずるな、ヴァダース・ダクター。認めることと負けることはイコールではない。寧ろ今の自分自身を認め、過去を見つめ直すということは、それだけお前が成長していることの裏返しでもある。恥じることもない」
こんな風に背中を押してほしかったのだろう、とからかわれるように告げられて、ヴァダースは肩の力が抜けたような感覚を覚える。嗚呼、そうだ。誰かに、その感情を持つことは負けではないと、確認したかったのだ。もう一人の自分でもある畏怖の概念からお墨付きを得られたのならば、もう大丈夫だ。
小さく笑ってからようやく、ヴァダースは己の胸の内に残った感情を、素直に受け入れることができたのであった。
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