Fragment-memory of moonlight-

黒乃

第一話

第一節 穏やかな心で

 その少年の両親は国際的に有名な楽曲団に所属している、天才と謳われた指揮者とピアニストである。音楽の世界において、その名は知らないといわれている由緒正しき音楽貴族、ダクター家。その家の家長と妻だ。楽曲団は一年のほとんどを、各国を飛び回り様々な劇場で公演を開くことに使っている。中でも少年の父親の指揮に合わせて奏でられる母親のピアノの旋律は、聴く者をたちまちに虜にしてしまうほど。


 そんな音楽の才に秀でた血を、ダクター家の一人息子であるヴァダース・ダクターはしっかりと受け継いでいた。彼はヴァイオリンの国際的コンテストで、何度も最優秀賞を受賞している実力の持ち主。また文武両道であり、魔術の腕も見込まれているほど。そんな優秀すぎる才を持ち合わせていながら、本人はそれを鼻にかけることはない。交友関係も良く、まさに非の打ち所がない子供とはこのこと。そんな彼は不在がちな両親に代わり、メイドたちや従者たちとともに自身の住む屋敷を守っている。一人心寂しい思いをしているはずの子供は、それでも屋敷に仕えているメイドや従者たちに今日も笑顔で接する。裏表のない対応は、そこで仕事をこなしている者たちからも愛された。


 今日は休学日。規則正しく起きたヴァダースは、いつものようにリビングへと向かった。すれ違うメイドたちや従者たちに挨拶を交わしながら、広いリビングへと到着する。中に入れば、初老の男性がにっこりと笑い彼を出迎えた。


「おはようございます、ヴァダースお坊ちゃま」

「おはよう、マエストン」


 マエストン、と呼ばれた男性はヴァダースのために椅子を引く。テーブルに用意されていた朝食プレートは、いつもこのマエストンが用意してくれている。彼はこの屋敷に仕える従者たちを取りまとめる、執事をしている。もう何年もヴァダースの父親に仕え、彼に奉仕をしていた。しかしヴァダースが生まれてからは、彼のお世話役としてこの屋敷で生活している。


 本日の朝食はエッグベネディクトのプレートだった。他にも屋敷に庭で栽培されているハーブを使ったサラダやコーンスープなど、今日もマエストンは腕によりをかけて作ってくれたと、一目でわかるプレートである。

 ヴァダースは礼儀正しく朝の祈りをささげてから、その朝食を口に運ぶ。


 半熟卵にナイフを入れれば、とろんと色鮮やかな黄身が顔を見せる。一口サイズにマフィンをカットしていくたびに、黄身が他の食材に絡んでいく。まずは一口口に運んだ。

 マフィンに乗っていた厚切りハムは、この間仕入れたというブランドもの。噛めば噛むほどに肉の味が広がり、ヴァダースの舌を楽しませている。しかもちょうどよい厚さに切れらていたそれは、マフィンと喧嘩をすることもない。

 二口目は、黄身とバターで作られたソースをつけて食べてみる。まったりとした風味の後に、アクセントとして入れたレモン汁のさわやかな風味が口いっぱいに広がる。付け合わせのサラダもさっぱりとしていて、口直しにちょうど良い。


「うん、今日も美味しいよマエストン」

「それはそれは。私も作った甲斐があります」

「マエストンは凄いよね、なんだって作れるんだから」

「ほほ、わたくしなどまだまだでございますよ」

「そうかなぁ……?」


 そんな会話も、ヴァダースとマエストンのいつもの光景だ。やがて朝食を食べ終えたヴァダースに、マエストンが今日の予定スケジュールを伝える。


 午前中は魔術の実践訓練の後に文法学の勉強、昼食後にはヴァイオリンの練習に天文学と、休学日であるにもかかわらず過密なスケジュールとなっている。しかしヴァダースは弱音を吐くこともなく、頑張るよと笑う。

 そんな彼に今日はご褒美があると、不意にマエストンが告げた。


「ご褒美?」

「はい。昨晩ご連絡いただきましてね。本日、旦那様と奥様が屋敷に戻ってこられるそうですよ」

「本当なのマエストン!?」


 マエストンの言葉を聞いたヴァダースは、きらきらとした瞳で彼を見上げる。その様子は、期待に胸を膨らませる子供そのもの。マエストンは一つ笑顔で頷くと、ヴァダースに本当のことだと答えた。


「お父様とお母様、帰ってくるんだぁ……!」

「ええ、到着は夕方になりそうだとのことです。実に半年振りですねぇ」

「そうだねっ。今回はどんな話を聞かせてくれるのかな?」

「きっととても素敵なお話を聞かせてくれることでしょう」

「ふふ、楽しみだなぁ」


 今から待ち遠しい、と言わんばかりのヴァダースをマエストンが窘める。


「ヴァダースお坊ちゃま、帰ってくる旦那様たちに恥ずかしい姿は見せられませんぞ。成長したお坊ちゃまの姿を見せるためにも、精進せねばなりません」

「わかってるよマエストン。じゃあ、本日も一日よろしくお願いしますっ」

「ええ、こちらこそ」


 その会話の後、ヴァダースの一日が始まった。なんでも優秀にこなすヴァダースは休学日の中で、ヴァイオリンの練習が一番好きだった。それは尊敬している両親と同じく、音楽が好きだからという理由もある。

 しかしそれ以上に、ヴァイオリンを弾いていると遠く離れ活躍している両親と、繋がっているように感じるからだ。遠く離れている互いの音色を実際に聞くことはできないが、奏でる曲が家族を繋いでくれる。ヴァダースはそう信じ、心のままに弦を弾いていた。


 今日の練習ではいつもよりその感覚が強かったらしく、先生から叱責を受けてしまった。気持ちが先走りしすぎていると。


「お坊ちゃま、ご両親との久々の再会を前に、はやる気持ちはお察しします。ですが気持ちばかりで引く曲は、独りよがりな演奏にしかなりません。よいですか、ヴァイオリンは心を旋律に乗せて弾くものです」

「心を旋律に乗せて、弾くもの」

「そうです。お坊ちゃまはヴァイオリンで、何を思い、何を伝えたいのですか?」

「僕は……」


 先生の言葉にヴァダースは逡巡し、まっすぐに瞳を見つめながら答えた。


「僕は、お父様とお母様と遠く離れていても、ダクター家の子供として恥ずかしくない生き方をしています。だから、お二人は音楽で世界中のみんなを楽しませてください。それが、僕の願いです。この気持ちを、伝えたいです!」

「わかりました。では、今度は気持ちを落ち着かせて、その心を乗せて弾いてみてください」

「はい」


 指示されたとおり、まずは一つ深呼吸をしてから弦を弾く。頭の中で最初に両親を思い浮かべ、次に屋敷に住む従者たちを思い返す。他にも彼が親しくしている友人や、勉学の先生と。その人たちに囲まれて自分は幸せです、と。


 一曲弾き終わり先生を見上げると、にっこりと微笑まれる。それが正解です、と優しく伝えられたヴァダースは顔を綻ばせる。この調子なら、帰ってくる両親に素敵な演奏を聴かせることができるとも褒められ、思わずヴァダースは早く帰ってこないかなと考えてしまうのであった。


 その日のスケジュールを終えて、夕日が屋敷を照らす時刻になった頃。部屋の窓から屋敷に到着した馬車が見えたヴァダースは、期待に胸を膨らませながら部屋を飛び出す。エントランスまで辿り着いた彼は、先に待っていたマエストンに最初乱れていた衣服を直された。


「お坊ちゃま、落ち着いてくださいませ」

「ご、ごめんなさいマエストン。だって、馬車が見えたものだから……!」


 ふう、とヴァダースが乱れていた息をついた直後。屋敷の扉が開かれ、彼の両親──アニマート・ダクターとドルチェ・ダクター──が、笑顔でエントランスに入ってきた。父親であるアニマートは、ヴァダースの姿を確認すると笑顔で彼の頭を撫でる。


「おや、出迎えてくれたのかヴァダース」

「はい!おかえりなさいお父様、お母様!」

「うふふ、元気なお出迎えありがとうヴァダース」


 母親のドルチェも笑い、ヴァダースにチークキスを施す。アニマートは荷物を従者たちに預けながら、マエストンにも声をかけた。


「マエストン、不在の間ヴァダースの面倒を見てくれて感謝しているよ」

「いえいえ、身に余る光栄にございます。ヴァダースお坊ちゃまは毎日、ダクター家を継ぐために精進しておりますよ」

「はは、それでこそこのダクター家の息子だな」


 満足そうに笑うアニマートとドルチェ。いつまでも立ち話もなんだからと、マエストンが二人の荷物を持ち部屋へ案内する。ヴァダースもそんな三人にとことことついて行く。


「長旅、お疲れ様でございました。湯浴みの準備は整っておりますよ」

「おお、そうか。しかし私はマエストンと話があるのでな。ドルチェ、きみが先に入りなさい」

「お気遣いありがとうございます、あなた。それでは、お言葉に甘えましょうか。そうだわ。ヴァダース、久し振りに母と一緒に入りませんか?」


 ドルチェの提案に、思わずヴァダースは顔を赤らめて答えた。


「お母様、僕はもう12になります!恥ずかしいですよ……!」

「あら、折角の母子水入らずなのに。寂しいですねぇ」

「う……。その言い方はズルいです、お母様……!」

「じゃあ、決まりね。ふふ、楽しみで長湯してしまいそうですわ」


 楽しそうに語るドルチェに、ヴァダースもそれ以上反論はできず。話が決まったということで、まずは湯浴みの準備をするのであった。

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