第五十節  寂しさに耐える

 士官学校が休学になってから二日目の今日。ヤクは気だるげにベッドから起き上がり、ぼんやりと窓の外を見た。昨日は宿舎で睡眠をとることにしたのだ。昨日から校舎全体のメンテナンスが始まっていたが、宿舎に設置されてあるシャワールームは通常通り使えたことが幸いした。スグリに顔を合わせづらいこともあり、孤児院に足を向けることができなかった。


「っ……」


 片膝を抱えて、自分を守るように蹲る。



 先日の中間成績発表のあと、ヤクは数名の士官学生と共に第三講義室に赴いた。しかしその場に教官は誰一人としていなかった。呼び出しを受けたというのに何故と、無人の講義室の中でヤク達は混乱する。数分後にはある人物が入室してきたが、その人物は教官ではなく、ミズガルーズ国家防衛軍の軍人だったのだ。彼は困惑していたヤク達に対して、こう告げた。


「諸君らの常日頃の活動は、軍としても大変喜ばしい。そこで我々が独自で選んだ諸君らには、ある特殊な訓練を与えようと思う。突然で申し訳ないが、私と共に在る場所に来てほしいのだ」


 その言葉に期待が大きく膨らんだ一同だったが、連れていかれた先はそんな期待を悉く粉砕する空間だった。案内された場所は薄暗く、全員が部屋の中に入った瞬間に理解してしまった。自分たちは騙された、と。

 加えてその空間にはすでに他の軍人も多く存在していた。すぐさま脱出することも考えたが、所詮士官学生──軍人の半人前である自分たちが、本職の人間たちに敵うはずもなく。捉えられた自分たちは、獣の本性を丸出しにした軍人たちに食われた。


 ヤクにとってそれは、二度目の絶望の始まり。生暖かく、どろどろとした白い欲望と暴力にまみれた、地獄のような時間。ねっとりとへばりつく肉の温度に、封じ込めていた記憶が無理矢理呼び起こされる。今回はと違い自分一人だけではないにしろ、されていることは全く同じ。


 それまで抱いていた軍への憧れが、一瞬にして砕け散る瞬間だった。何故、こんなことがまかり通るのか。何故、こんなことが許されるのか。


 本当はすぐにスグリに相談したかった。助けを求めたかった。しかしそんなことも見越していたのだろう、軍人は脅しをかけてきた。密告をすれば、ルームメイトも同じ被害に遭ってもらうと。その脅しが、ヤク達から助けを求める声を奪った。

 ヤクには、スグリを彼らに差し出すなんてことはできない。できるはずがないのだ。これ以上自分のせいで、彼が苦しむ姿を見たくないのだから。


 だからヤクは、自分を取り繕うための演技をすることにした。一人称を変え、話し方も変え、犯されている自分とは違う自分を演じて、少しでも気を紛らわそうと。はたから見たら、なんて滑稽なことだと思われるだろう。それでも今のヤクには、こうする以外の手段が思いつかなかった。


「……行きたくないな……」


 今のこの姿をルーヴァが見たら、どう思うだろう。心配させてしまうだろうか、それとも悲しませてしまうだろうか、もしかしたら怒るだろうか。

 スグリに強制的に約束させられた、ルーヴァとの再会の日。本当なら喜べるはずなのに、こんなにも心も体も重い。約束を破りたいとも考えたが、それはそれで後々面倒なことになってしまうだろう。気が進まないが、鉛のように重たい体を引きずりながら、出かける準備を始めたヤクであった。


 ******


 朝方は晴れていたのに、今はどんよりとした暗く厚い雲が街の上を覆っている。もしかしたらこの後、雨が降るかもしれない。そういえば、結局どこで待ち合わせるなどの予定を全く聞いていなかった。久々に歩くミズガルーズの街を横目に、そんなことを考える。どこへ向かえばいいのか見当もつかないが、士官学校以外でルーヴァと出会える場所なんて、やはり孤児院以外に思いつかない。

 本当はこんな姿を見せたくないのだが、ここまで来てしまったのだ。そこに向かうしかなかった。孤児院までの道を歩く。一歩一歩が重い。


「ヤク?」

「あ……」


 孤児院の手前ということろまで来た時、名前を呼ばれて視線を上にあげる。そこにいたのは、会いたかったが今は一番会いたくなかった、ルーヴァの姿。彼は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔に戻り優しく声をかけてきた。


「半年ぶりだね、ヤク。元気だった?」

「は……はい。お久し振りですルーヴァさん」


 自分は今、しっかり笑顔を作れているだろうか。取り繕ってみるが、果たして。ルーヴァは何か言いたそうな表情を一瞬見せたが、ヤクに昼食を食べようと持ち掛けてきた。ここで断ったら、確実に自分が何か隠していると知られて、探られてしまう。


「いつものお店、行きたいです」

「ああ、いいね。行こう」


 向かった場所は、昔よくスグリも含めて三人で食事をしていたレストラン。年数が経っても相変わらずの賑わいであり、店内の雰囲気はとても明るい。タイミングよく席が空いたようで、二人はテーブル席に通された。

 メニューを見てヤクはカルボナーラを、ルーヴァはデミソースオムライスを注文する。料理が来るまで会話しようと、ルーヴァが話しかけてきた。


「士官学校はどう?」

「訓練は大変だけど……それなりに」

「そう。聞いたよ、中間成績発表で一位だったそうじゃないか。それを聞いて、僕も嬉しくなったよ」

「ありがとうございます」

「そのまま頑張って首席で卒業すれば、軍でもすぐに活躍できるかもしれないね」

「っ……そ、そうですか。頑張ります」


 数十分後、出来立てのカルボナーラとデミソースオムライスが運ばれてきた。冷めないうちに早速、二人は食べ始める。カルボナーラの濃厚なクリームソースがパスタに絡み、口の中に運べば卵のこってりとした風味が口の中に広がる。パスタは程よく噛み応えのあるアルデンテ。噛めば小麦の味も、ソースの奥から控えめに顔を出す。焦がされたスライスニンニクと黒コショウもアクセントになり、ぴりりとした小さな辛みを舌に与えてきた。濃厚だが飽きない味わいは、昔ここで食べたときと全く変わらない、どこか安心感さえ思い出させた。

 ルーヴァも美味しそうにデミソースオムライスを食べている。その幸せそうな表情は、自分より年上であるはずなのに何処か幼さを感じさせた。今この時は、何も考えないでいい幸せな時間だったのかもしれない。

 食べ終わって食後の飲み物を楽しんでいたが、不意にルーヴァに名前を呼ばれる。


「ヤク」

「なんですか?」

「何か、悩んでいることがあるんじゃないかな?」

「ッ……!?」


 ルーヴァの突然の質問──というよりは確認に近かったのかもしれない──に、思わず動揺してカップを落としそうになる。射貫くようなルーヴァの視線と目が合わせられず、目を逸らした。気付かれないと慢心していた己を恥じる。やはりこの人に隠し事は通用しないのだと、改めて思い知らされた。


「スグリから聞いたよ。何か隠しているけど、話してくれないって。一人で抱えちゃダメだよって、言ったよね?」

「大丈夫です!他の士官学生の人、と……その、相談してますから」

「それは、スグリには言えないことなのかい?」

「魔術専攻科での、ことだから……。科の違うスグリだと、わからないこととかもある、んです。大丈夫です、抱えてないです」

「……、そう……。今の言葉は、本当だね?」

「はい。もう、嘘は吐きません」


 嘘だ、今も嘘を吐き続けている。何度でも、自分は己を心配してくれる人たちを裏切っている。それでも、知られたくない。彼らに話せるわけがない。

 大丈夫、まだ自分の心はギリギリのところで保てている。何より話したことで、今もなお信念をもって軍で日々の任務をこなしているルーヴァを傷付けてしまいそうなのが、とても怖い。まさか自分が、その軍人たちに凌辱されているなんて。言えるわけがないのだ。


 ルーヴァはしばらくヤクの顔を見た後、ため息を一つ吐いた。わかった、と彼なりに飲み込んでくれたのだろうか。


「なら、その言葉を信じるよ。でも、スグリにあまり心配かけさせないこと。言っていたよ、自分はそんなに信用されてないのかって」

「……ごめんなさい」

「それはスグリに言ってあげること。いいね?」

「……はい」


 そう忠告をして笑顔を見せたルーヴァだが、何処か悲しさを漂わせていた。呆れられた、だろうか。そんな表情をさせてしまったことに、罪悪感を抱く。会計を済ませて外に出れば、予想していた通りの大雨。その光景を見たルーヴァが、しまったと顔を青ざめさせた。


「うわ、思い出した洗濯物を外に出したままだった!ヤク、ごめんね。久々の再会でもっと話したかったけど、帰らなきゃ。キミ、傘は持ってきてる?」

「あ……はい。折り畳み式のを、一応」

「そう、よかった。じゃあ僕は帰るね。今日は久しぶりに会えて良かった。今度会えた時は、もっと沢山話をしよう。スグリも一緒に、ね。それじゃあ、また!」


 言うだけ言って、ルーヴァはその場から走り去る。さすが現役の軍人、といったところだろうか。瞬きの瞬間、彼の姿はもう遠くなっていた。疾風が駆け抜けたかのようでしばし呆然としたが、ヤクも傘をさして街を歩く。

 雨は思ったよりも強く、昼間なのに辺りは暗い。街の商店街通りを歩けば、店側も急いで雨避けのテントを張っている。どうしようか、このまま士官学校の宿舎に帰ろうかと考えた──その時だった。


「ん……?」


 不意に、商店街の路地裏に目を向ける。目的の店があるとか、そういうことではない。ごく自然に目を向けただけだが、その先に気になるものを見つけ足を止めた。

 その路地裏に、一人の幼子がいたのだ。雨宿りをする気がないのか傘もささず、蹲って一人雨に打たれているその姿を見て、過去の自分を思い出してしまう。

 気付けば、自然と足が幼子の方へ向かっていた。とりあえず雨にあたらないようにと幼子の上に傘を差しだすと、ゆっくりと幼子は顔を上げた。茶色の髪に、月明かりのような金の瞳のその子供は、ヤクをその大きな瞳に捉えて呟く。


「だれ……?」

「私は、ヤク・ノーチェという。お前、名前は?」

「レイ。レイ・アルマっていうの」

「レイ、か。お前は迷子なのか?両親はどうした?」

「親?……わからない。おれ、ずっとここにいた」

「わからないって……記憶が、ないのか?」

「よく、わからない。おぼえてない」


 レイと名乗ったその幼子は、心細そうに己の服を掴む。会話が成立している以上、ある程度の受け答えは可能だと理解できたが。両親のことは一切覚えていない、そして己がいつからここにいたのかもわからない、となると。

 考えられる可能性はある程度あるが、恐らく彼は自分と同じ孤児なのだろう。着ている服装は幸いにもではない。しかしこんな大雨の中で、ずっと彼はこの場所にいたのか。……あの時の、スグリと出会う前の自分と同じように。自分はあの時、スグリが手を取ってくれたから、今ここにいる。ならば今、自分がこの子にできることは──。


「レイ。お前さえよければ、私と共に来ないか?」

「にーちゃんと、一緒に……?」

「ああ。こんなところにずっといたら、風邪をひく。両親がいないというのなら、その代わりになる場所に、私が案内する」

「ほんと?」

「嘘は吐かない。約束する」


 そう言って手を差し出す。その手とヤクの顔を交互に見たレイだったが、やがて安心したように顔を綻ばせて、己の手を重ねるのであった。

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