第十六節 悲しくそして美しく

 突然感じた強烈な寒さにスグリは何が起こったのか、すぐに理解することはできなかった。アマツの腕の中で頭部の痛みに呻きながらも目を開き、視線を動かしてみる。その先では、ヤクが慟哭している姿が視界に入ってきた。


 ──あいつが、泣いている。


 泣かせたくないと思った、守りたいと思った。そんなヤクが、癇癪を起こしたかのように泣いている。

 口の中で呟くように、彼はを呼ぶ。


「……ヴェル」

『聞こえているよ、スグリ』


 脳内に己を見守る女神、ヴェルザンディの声が響く。目には見えなくとも、きっと彼女は己を心配しているような表情で見下ろしていることだろう。


「この怪我……治せる、か?」

『そんなこと、造作もないよ。……あの子のことろに、行きたいんだろう?』

「……たの、む……」

『ああ、任された』


 その言葉のあと、頭に添えていた手に風のマナが集まる感覚を覚える。脳内でヴェルザンディが治癒術である『"精霊よりの抱擁"ガイストウルアルムング』を発動。優しい風が怪我を包むと、傷跡一つ残らないほどに傷が完治する。痛みも引いたようでなによりだ。

 そのことを理解したスグリはアマツの腕から立ち上がり、ヤクのもとへと走る。突然の様子に慌てたような父親の声が耳に届くも、今は一刻も早くヤクのそばに駆け寄りたいという願いのほうが強かった。

 ヤクを中心として竜巻のように荒れ狂う氷の吹雪。その中へと躊躇することなく突入する。小さな氷の刃が腕や足に掠るも、それをものともしないスグリ。何度も風圧に押し返されそうになりながらも一歩ずつ歩みを進め、ようやく中心部──ヤクのもと──へと辿り着く。腕を抱え込み、身を固め泣いているヤクの肩に手を置いてから、彼の名を叫ぶ。


「おい、ヤク!!」


 その声が届いたのか、恐る恐るといった様子で彼がスグリを見上げる。その双眸からは彼の遺恨の念が、ぼろぼろと流れていた。


「ぁ……」

「しっかりしろ、大丈夫だから!」

「ぼく、ぼく……みんなを、助けられなか、た……みんなを、守れなかった……ぼくが、弱いから……!!」

「違う、お前は悪くない!何も悪いことなんてしてない!!」

「そんなこと、ない!!僕がみんなを殺しちゃった……だから僕のせいなんだ!」


 ヤクの叫びに呼応するように、嵐は一段と荒れ狂う。すべてを凍てつかせるのではないかと思えるほどに、酷く冷たい嵐。僕のせいだと時に己を責めては、みんなを返して、と懇願するヤク。彼は何も悪いことなどしていないと、スグリは強く感じていた。何もかもヤクたちを利用しようと考え行動した人間たちが原因なのだ、ヤクたちは彼らの被害者だったのだから。


「違う、よく聞けヤク!」

「違わない、違わないよ!!僕がみんな悪いんだ!」

「ヤク!!」


 そう己を責めるヤクの両頬を手で包む。何がしたいのか、と言わんばかりの表情のヤクに、しっかりと理解できるようにスグリは伝えた。


「大丈夫、お前は何も悪くない!」

「っ……」

「お前は今日のために、勇気を出してきてくれたんだろ。みんなを助けるために、怖くても一生懸命だっただろ!そんなお前が悪いことなんて、あるもんか!そんなの、俺は認めない!!」

「で、も……ぼくはみんな、助けられなかった……こんなぼく、なんて……!」


 顔をくしゃくしゃに歪め、ぼろぼろと大粒の涙を流すヤク。その背後に、きらりとひときわ輝く物体が見えて。嫌な予感が胸を掠め、スグリは咄嗟にヤクを包むように抱きしめ、ぎゅっと目を閉じる。痛みを覚悟した直後、暖かくて大きなものに包まれる感覚を、スグリは確かに覚えた。

 いつまでたっても感じない痛みに違和感を覚え、恐る恐る瞼を持ち上げる。開けた視界に飛び込んできた光景に、思わず声を上げる。


「父上!?」


 輪郭を取り戻した視界の光景。自分たちの目の前には、身を挺して己とヤクを守ったアマツの姿。彼の口の端からは、ツゥ、と一筋の血が流れている。それでも彼は相変わらず優しく穏やかな笑顔を浮かべ、スグリたちを見下ろしていた。


「二人とも……怪我は、ないか……?」

「ぁ、あ……っ!」


 アマツが自分を庇ったことに気付いたヤクが、ひどく傷付いた表情で彼を見る。倒れこむように崩れ落ちるアマツ。そんな彼を抱きとめようとするヤクの背中を、スグリは支えた。


「あぁ、あ、ぼ、ぼく……ぼくっ……!!」

「……そんな顔を、するでない……。息子の言う通り、お前は何も悪くないの、だから……自ら死のうとす、るな……。生きて、幸せになってほしい……」

「でも、でも!!ぼく、どうしよう、だって、だって……!」

「……聞きなさい、ヤク。お前は必死に、頑張った……。お前に非などな、い。むしろその助けに応えることができず、申し訳……なかった……」

「そ、そんなこと……でも、僕のせい、ぁ、あ……!!」

「父上っ!!」


 倒れこんだ時に、アマツの背中に受けた傷が見えたスグリ。ざっくりと切り裂かれた衣服の下からは、今もなお血が広がり布を赤く染める。子供心にも分かった。その傷が、致命傷だということが。もう父親は、助からないということを。

 アマツはスグリの呼びかけに、ゆっくりと視線を合わせる。小さく笑いかけて言葉をこぼす。


「スグリ……強く、生きるのだぞ……。私の代わりに、この子を……頼まれてくれる、か……?」


 その言葉は、もはや遺言のように思えて。手渡された刀を受け取る。それは絶対的な別れだということに、気付く。この刀は、アマツの死体代わりだ。アマツはもう助からない、助けることができない。そのうえここから彼を動かせる人は、ここにはいない。だからせめてもの代わりに、と。

 そう理解し、こみ上げそうになったものをぐっと堪えたスグリは、アマツの目をしっかりと見据えて宣言する。


「もちろんだよ父上!だって俺は、未来の領主なんだから……!」

「……ああ、よかった……。頼んだぞ……」


 それだけ言うと、瞳を閉じヤクによりもたれかかるアマツ。それに恐怖したヤクは泣きながら、必死に彼の体をゆする。氷の嵐はヤクが混乱したことで、どうやら少し落ち着いたらしい。耳を澄ませてみると、嵐の外からは何も音が聞こえないようだ。今なら、ヤクだけでも助けられる。そう考え、スグリは立ち上がる。


「ヤク、行くぞ!」

「でも、この人が、ぼくは、ぼくのせいで、どうしよう、どうしたらいいの!?」

「大丈夫だ!それに、父上はなんて言った?お前に、生きてほしいって言ったんだ。生きて幸せになってほしいって!」

「そんな、価値なんて……ぼくにない。人殺しの、ぼくになんか……!」


 泣き言ばかり連ねるヤクに少しばかりの嫌気がさし、しかし放っておく気にはならなかったスグリは有無を言わさずヤクを抱きしめる。


「俺が、お前を守るから!もう泣かなくていいように、守るから!!」


 だから、生きてほしいと。

 そう告げると、しばし硬直した後ヤクの体から力が抜けていく感覚を、腕に感じた。小さく嗚咽を漏らしながら、小さく彼が呟く。


「……ごめんなさ、い……すぐり……」


 弱弱しいその声が耳に届いた直後、気を失ったのか項垂れるヤク。倒れないようにと支えてから、彼を背負う。氷の嵐は収まっている。これなら安心して脱出できると考えるも、突如として氷の通路が膨張していく。


「なっ……!?」

『何をぼうっとしているのかいスグリ!早くしないと氷漬けにされてしまうよ!』

「でも、ヤクは気を失ってるだろ!?それなのになんで!」

『ここ一体のマナが暴走しているのさ。この子の抑えきれない感情がマナにも伝染して、その収拾がつかないんだ』

「暴走……?そんなことがあるのか?」

『そうさ。滅多にあることではあるんだけどね。そんなことより、出口に続いている道を風で教える。キミはその子を落とさないように頑張って駆けるんだ』


 彼女の言葉に呼応したかのように、ふわりとした風がスグリの頬を撫でる。背後からは迫りくる氷塊。ヤクを背負いなおし、きっと前を見据え駆け出す。底冷えする寒さの中で、背中に感じる温度を落とさないようにと必死に走る。

 走って走って、ようやく見えた出口。薄暗かったそこは、どうやら大雨が降っていたようで。ずぶ濡れになりながらも、スグリは外で待機しているであろうナカマドたちの元へと急いだ。


 研究所から少し離れた森の入り口。そこにナカマドたちは待機していた。遠めに見えた彼らの元へ走るスグリの姿を、彼らも確認したのだろう。茂みの陰から出るとスグリとヤクを保護する。


「若様、ご無事で!」

「いったい何が起きたのですか、村一帯が氷に覆われていきますぞ!?」

「説明はあと!まずは全員、ここから撤退するんだ!じゃないと、みんなあの氷に捕まってしまう!」


 スグリの切羽詰まった様子に、ナカマドは彼の言葉を信じてくれたようだ。気を失ったヤクを抱え、控えていた従者たちに号令をかける。その間も迫りくる氷塊は、本当に村そのものを包み込むように膨張していく。


 従者の一人が従える馬に乗り、スグリはちらりと後ろを振り返る。

 花が咲き乱れ、美しかったといわれたブルメンガルテンは、その一帯を氷の棺の中に閉じ込められてしまっていた。

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