第十二節 親愛の情

 スグリが飛び出した部屋の中では、カタカタと震えていたヤクをアマツが宥めていた。ヤクは自らを守るように腕を抱え、ぎゅっと目を閉じ震えている。

 落ち着くようにと、背中をゆっくりとさする。呪文のように「ごめんなさい」と繰り返し呟く。その姿が、痛々しくてたまらない。この小さい体で、いったい何をされたのか。想像に難くない。否、それ以上かもしれない。


 今しがた叫びながら部屋を飛び出したスグリには、ヤナギを向かわせた。スグリの言っている言葉も、その気持ちも、わからないわけではない。スグリが己に向けている感情も、理解している。それでも、その気持ちを利用して他人を傷付けていい理由にはならない。そう、教えていたつもりだったのだが。少し理解が及ばなかったのだろう。冷静でいられなかったのだから、詮無いことではあるが。

 彼には、己の母親の記憶はない。彼を産んだ後、産後の肥立ちが悪くそのまま亡くなってしまった。それでもあそこまで真っ直ぐ成長した。母親が亡くなった理由を知っても己のせいでと悲観することなく、母親から命を託されたと彼なりに理解してくれている。それ故に、家族や己の周りの人物を信じ切っている。そして周りの人間もそうあってほしいと、願ってしまっている。そう、言い方を変えてしまえば傲慢になっているのだ。

 だからこそ、初めて己が信じている人物たちを信用しないこの子のことが、理解できなかったのだろう。それが転じて、怒りに変わってしまった。それはこれから正していかなければならないと、アマツは心の中で感じていた。


 どれくらい時間が経っただろう。しばらくヤクの背中をさすっていたが、不安そうに彼が己を見上げた。


「あ……あの……ゆ、許してくだ、さい。僕が悪いことした、から……」

「許すも何も、私は怒ってなどいないよ。安心しなさい」

「本当、ですか……?だって、その……僕は……」

「私を信用しきれていないことか?心配しなくともいい、私は気にしておらんよ。そもそも見ず知らずの誰かをいきなり信用しろなど、難しい話だろう」

「で、でも……」

「大丈夫だ。お前はベンダバルの名前を恐怖しているだろうが、この屋敷にいる間は、何も怖いことなど起きんよ。私が起こさせん」


 だから安心しなさい、と諭すように話しかければようやく力が抜けたのだろう。彼の体から緊張が解けたことを理解した。


「むしろ、謝るのはこちらの方よ。私の息子が、すまなかったね」

「……そんなこと、ないです。僕が、あの人を怒らせちゃった、から……。僕が、あなたのこととか……信じれない、から……」

「急に信じろ、とは言わんよ。ただ、少しずつ心を開いてくれると、私もこの屋敷の者たちも嬉しく思う。それは、わかってくれるか?」

「……は、い……」


 己の言葉に対して小さく頷いたヤク。その小さな頭を優しく撫でると、安心したのか息をつく声が聞こえた。


「……お前は、スグリのことをどうしたい?」

「……僕……怖い、けど……僕を助けてくれた、のは……あの人だ、から。許してもらえる、なら……お礼、言いたいです……」

「ほう、それはいいことだ。しかし何故?あれほど罵倒されたら、近付きたくないとお前は言うと、私は思ったのだが」


 アマツの問いかけに、ヤクは黙り込む。理由を考えているのだろう。しばらく沈黙が続いたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。


「……僕、僕は逃げてきた、んです。……みんな、を助けたい、から……。でも、痛くて苦しくて寒くて、何もできなくて。でも……あの人、は。助けてくれた……。はじめて、だった……知らない人から、優しくしてもらえたの……」

「だから、礼を?」


 小さく頷くヤクは、だめですか、と不安そうにアマツを見上げる。そんな彼に微笑み、頭を撫でながら彼は答えた。


「いいや、駄目などではない。優しいのだね、お前は。……私から一つ、お願いがあるのだが。聞いてくれるか?」

「おね、がい……?」

「そうだ。……ゆっくりでいいのだが、あの子の……スグリの親友に、なってはくれないだろうか?」

「しん、ゆう……?」

「時に支えあい、時に甘え、時に喧嘩もできる。そんな関係性を持つ友が、あれにはいなくてな。もちろん、村の中にはあの子と歳があまり変わらん子もいる。共に遊ぶし、仲もよい」


 ただ一つ、スグリと本音で語り合える人物がいるかと尋ねられれば、それは難しいと言えた。村の子供たちは確かにスグリを若様と慕い、スグリもまた子供たちを慕い、互いに笑いあえている。もちろんそれは良いことであり、子供たちは忖度なしにスグリと接してくれている。そのことは、心から感謝していた。

 しかし、それだけなのだ。それ以上の、時には喧嘩もするがその分絆を深めることのできる、親友にあたる人物がいないのが現状である。それはひとえに、スグリがこの村の領主の息子だから、という理由も一理ある。


 いくら歳が近いとはいえ、スグリと彼らでは立場が大きく異なっている。かたや村人の子供、かたやその村を治める領主の息子。その立場の違いが、見えない壁として確かに存在している。そのことにスグリは気付いているかどうかは知らない。しかし長くスグリを見てきたアマツの目には、その壁は視界に高く聳えていた。


 それともう一つ。これは親の目線から見えていることだが、スグリは誰かに甘えるということを、あまりしない。彼は己の周りには、甘えられる存在がいないと思っているのだろう。本来ならそういう役回りは、親である己がしなければならないことだというのに。甘えてもいいと話しかけても、大丈夫だと笑う子供の姿に、ある種の痛みさえ感じている。どうにかしてあげたい、というこの気持ちは親の勝手かもしれない。

 それでも、と。スグリのことを知らず、領主の息子だからという固定概念を持たないこの子なら、と。そう考え、アマツはヤクに説明した。

 アマツの言葉に最初は俯いたヤクだったが、やがて「がんばります」と呟いた。


「ああ……感謝するぞ、ヤク。こんな勝手な願いだが、どうか頼む」

「はい……」


 その言葉に、よしよしと頭を撫でる。しばらくそうしていると、廊下から二つの足音が近づいてくる音が耳に入る。帰ってきたようだなと呟けば、不安そうにヤクが廊下を見る。

 やがて廊下の端から、ヤナギについてくる形でスグリが部屋の前に入ってきた。目頭が赤くなっているところを見ると、泣いていたんだろう。しばらく無言のまま俯いていたが、ヤナギに促されるように背中を押される。それからおずおず、といった様子で、呟くように話しかけられた。


「……さっきは、バカって言って……ごめんなさい……」


 彼の口から発せられた謝罪の言葉。それに対し、どうしたらいいかわからないといった様子でスグリと己を交互に見るヤク。アマツは小さく微笑んでから、静かにスグリを呼ぶ。


「スグリ、こちらに」


 とんとん、と畳を叩く。呼ばれたスグリはゆっくりと近付き、ヤクと向かい合う形でその場に座った。


「スグリ、謝ることはそれだけか?」

「……ううん。……服、掴んだし……怒鳴った……それも、ごめんなさい……」

「そうだな、ちゃんと言えて偉いぞ。……さてヤク。この子は謝ったが、お前はどうしたい?」

「……僕は……え、と……いい、です。許したい、です……」

「そうか。……それと、言いたいことがあるのだろう?」


 アマツの言葉に頷くヤク。今度はヤクを促すように、アマツが優しく背中を押す。最初は言い惑っていたヤクだが、スグリを不安そうに見ながらも言葉を紡ぐ。


「……あ、の……。あの時、林で助けて、くれて……ありがとう、ございました」

「え……?」

「……聞いたぞ。竹林で倒れていたヤクを、助けたのだろう?その時のことで、この子は礼が言いたかったそうなのだ」

「そう、なんだ……。えっと、じゃあその、どういたしまして……」


 ヤクの礼の言葉に、珍しくしどろもどろになっているスグリ。謝った相手からまさか礼を言われるとは思っていなかったのだろう、そわそわと落ち着かない様子で己やヤナギを見る。そんな子供らしい一面に小さく笑ってから、アマツは話す。


「二人とも、手を。まずは形からになってしまうが、握手をしてみなさい」

「え、あ、はい」

「……あくしゅ……?」


 服の裾で手をごしごしと拭うスグリに対し、ヤクはそれが何かわからないかのように首をかしげる。右手を差し出したスグリの手を、左手で握ってごらんと説明すると、恐る恐るといった様子で実行した。何も起きないと知って、ヤクの体から緊張が解けていくことが分かったアマツ。


「どうだ?」

「……あったかい、です……」

「これが、人のぬくもりというものだ。覚えておくとよい」

「人の、ぬくもり……?」

「そう。私が常日頃から、この子たちに教えていることだ。人と人が接するということは、その相手に対してゆっくりと心を開いていくこと。互いに心が開けば、そこに温かみを覚える。これを、友情という」


 アマツのその言葉に、ヤクは呪文のように友情、と呟く。握手を解いた手を胸の辺りにあて、確認するように右手で包む。その姿を見て、頭を撫でる。


「お前がどこから来たのか、なぜ竹林で倒れていたのか、それはもう私たちから無理に聞き出すことはせん。お前が私たちに話したくなったら、話してほしい。その時が来るまで、この屋敷で好きなように過ごしてみなさい。悪いようにはせんよ」

「その……俺も、手伝うから。男ばっかりの屋敷で、女の子一人だけど……。俺が守るから大丈夫だ」


 己の言葉に続くように、気恥ずかしそうに頬を掻きながら告げるスグリ。この子の中でも何か、いい変化が起きようとしているのだろうかと親として嬉しく思う。それに対し、ヤクが申し訳なさそうにぽつりと告げた。


「……えっと……そ、の……僕、男です……」

「えっ」


 彼の告白に、思わず動きが停止してしまったスグリ。しばらく沈黙が部屋を包んでいたが、畳がめり込む勢いで土下座を決め込んだ。


「ご、ごめんなさい!小さいし細いし髪も長いから俺、女の子だとばっかり!」

「スグリ……今のは、そうだな。私でも擁護は出来んな」

「父上は気付いてたの!?」

「……。さてはて」

「父上も気付いてなかったんだろ!?同罪じゃんか裏切り者ー!」

「落ち着きなさいスグリ。私は最初から声で気付いていたぞ」

「嘘つけこっちを見て言ってくれよ父上!?」


 わぁ、と叫ぶスグリを軽く受け流していたが、やがて小さな笑い声が聞こえる。声のする方を見てみれば、ヤクが小さく笑っている。その様子に、すっかりアマツもスグリも毒気を抜かれ、笑いあう。しかしその後ヤナギに窘められ、親子揃って彼に謝罪した。

 そこでヤクは己が笑っていたことを知られたことに気付き、謝罪しようとした。


「謝らなくともよい。お前は何も、悪いことをしたのではないのだから」

「で、でも……いつも、は。笑うと……殴られていた、から……」

「そうだったのか……。だがな、ヤク。先にも言ったろう、この屋敷で好きなように過ごしてみなさいと。それに暗い顔よりも笑顔でいた方が、私は嬉しいぞ」

「ほん、とう……?」

「無論だ」


 その言葉に、ようやく安堵してくれたのだろう。はい、と小さく笑って返事を返すヤクであった。

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