愛の不戦、あるいは付箋
柿尊慈
愛の不戦、あるいは付箋(前編)
「
隣の席の
私たちの通う高校は名ばかりの地域名門校で、それを反映するかのように生徒たちも中途半端に乱れているのだが、千賀くんはその中でも、いかにも優等生です、といった風貌をしている。学ランの襟の内側には、きちんと白いカラーがついており、私より少し高いくらいの身長は、これまでに運動ではなく勉学の方を優先させてきた成果物だと思われた。フレームの細いメガネをかけており、ガリ勉やオタクというような印象はなく、学級委員や生徒会長だと言わたら、納得してしまうであろう雰囲気だ。とはいっても、記憶が正しければ、彼はそういった――つまり、権力を手にして、目立つような――役職にはついておらず、登下校の際もしっかりと赤信号を待つような、模範的でありながら自己主張の強くない男子高校生だった。
自称進学校である我が校は、3年生になると文系と理系に分かれることになっていて、この文系クラス、3年3組は女子の割合がやや高いため、男子の千賀くんは少しだけ目立つ。
「うん、いいけど……」
そういって私は、机の中に置いてある、昨日返ってきた地理のノートを取り出した。くにゃりと、指の圧でノートが歪む。私がすっとノートを差し出すと、千賀くんは頭を下げてからそれを手に取った。
彼は私のノートを開く。見入っている様子だ。しばらくして、ふうと小さな息を吐いてから、お礼の言葉と共に私へノートを返した。
「ありがとう、真波さん。メモし忘れていたことがあった気がして、誰かに聞こうと思ったんだけど、地理選択の友達がいないから、困ってたんだ」
やたらと早口で以上のようなことを言うと、彼は視線を逸らして、恥ずかしそうに座り直す。
地理の松下先生は、テストが終わったその日に、私たち地理選択者のノートを回収していた。おそらくは、関心・意欲・態度とやらの評価をするために使用するのであろう。松下先生は、授業中に様々な知識をひけらかしてくる。ためになりそうなものもあるので、私はそれをいくつかメモしておいたのだけれど、残念ながら先日のテストには、メモは全く役に立たなかった。とはいえ、抜きうちにも等しいノートチェックで高い評価を受ければ成績に反映されるので、全くの無意味というわけではないのだろうけれど。
そのメモを含んだノートを、私は先ほど成績優秀な千賀くんに見せたのだが、さて、私よりも点数が高いであろう彼の役に立ったのだろうか。いうなれば格下の女のノートが、優秀な彼の学習の手がかりになるとは、とても思えない。
ふと、彼のノートを借りたならば、私のテストの点数も、数点くらいは上がるのではないかというような考えが浮かんだ。次の期末試験で試してみようかなとまで考えたが、私は頭を振ってその考えを捨てる。私たちはそんな仲ではない。
「私、告白されるはずだったの」
昼休み、私のクラスにやってきた冬子は、私の隣の席――つまり千賀くんの席の上で、弁当箱を包む薄ピンクの布を解きながらそんなことを不満げに言った。
「……はずだったって、どういうこと?」
私は、昼休みの前に購買で仕入れていたチョコクロワッサンの袋にしつこくへばりついたテープを、爪の先でがりがりと削りながら、冬子の話に相槌を打つ。
高校入学と同時にこっそり少しだけ染めたらしい茶髪。ふんわりとカールしているのは、朝の少しの手入れ、および前日夜の必死のケアの賜物であろう。
告白されるはずだったという奇妙な話に、私は怒りにも似た感情を抱いていた。もちろん、矛先は冬子ではない。冬子の口振りから、少なからず嫌な目にあったということが窺えるので、その張本人――誰かは知らないが、私の大切な友人を傷つけたであろう誰かに対して、私は小さな苛立ちを覚えたのである。そしてそのイライラは、なかなかチョコクロワッサンのテープが剥がれないことによって、より一層大きくなるのであった。
「5時に自転車小屋って指定されたから、ウキウキして待ってたのに、約束の時間から1時間経っても誰も来なかったの」
「先に帰っててなんて急に言うもんだから何だろうだと思ってたんだけど、そういうことだったのね」
私は昨日、いつも一緒に下校している冬子から、下校のドタキャンを喰らっていたのだ。なるほど、冬子の期待通りに事が進んでいたならば、私がひとりで帰った後、冬子は放課後の自転車小屋で熱烈な告白を受けて、相手の顔や性格が彼女の眼鏡に適うものであればそのまま交際し、一緒に手をつないで駅まで帰る予定だったのだろう。
それが、裏切られた。冬子を呼び出した相手は自転車小屋に現れなかったのだ。
「恥ずかしくなって、帰っちゃったんじゃない?」
ようやく剥がれたテープを、指先でころりと丸める。
すると、千賀くんが教室に戻ってきた。談笑する女子高生たちの間をするすると抜けてきたが、自分の席が冬子に占拠されているのを見て、おどおどしている。
「冬子、どいた方がいいかも」
「あ、まじ? ごめんね」
冬子が席を立ち上がろうとすると、千賀くんは勢いよく手を振った。
「ううん、大丈夫だよ。スマホを取りに来ただけだから……」
千賀くんは、冬子の足元に置いてある自分の黒いリュックサックの外側の小さなポケットから、スマートフォンを取り出す。
「あ、昨日の人じゃん。ありがとね」
冬子が突然声をあげたので、私はその声の向かった先が、まさか千賀くんだとは思いもしなかった。冬子の視線がしゃがみこむ千賀くんに注がれているのと、それを受けた千賀くんがびくりとしたので、冬子が彼に言った言葉なのだと時間差でわかる。
「いえいえ。無事に帰れたならよかったです」
そう言って千賀くんは、頭をぺこりと下げてからそそくさと教室を出ていった。地味目な私と違って、冬子の見た目は少しギャルっぽいから、彼は少し脅えていたに違いない。
「冬子、千賀くんと知り合いだったの?」
彼が教室を出て行くのを見送ってから、私は冬子に尋ねた。
「知り合いっていうか、昨日私に声かけてくれたの。いつまで待てばいいのかなって自転車小屋で立ってたら、あの男の子が駆け寄ってきて、もしかして告白の呼び出しを受けたんですかって。なんか最近学校で、告白の呼び出しをして、待ってる様子を影から笑うっていう陰湿な遊びが流行ってるとか言ってたわね。彼の友達もそれをされたみたい。で、昨日の私がまさに似たような状況だったから、見かねて声をかけてくれたんだと思う。待っててもたぶん誰も来ないだろうって。それでようやく、帰る決心がついたって感じね」
「たまたま千賀くんが見つけてくれてよかったね」
冬子に話しかけるには、相当の勇気が必要だっただろうなと、私は昨日の千賀くんを想像する。
「ううん、彼はずっと私の視界にいたのよ」
「はい?」
「自転車小屋からさ、剣道場につながる廊下が見えるじゃん?」
剣道場に行くためには、一度体育館の昇降口に入ってから、外の廊下を経由する必要があった。そこから自転車小屋が見えるので、逆もまた然りということだ。
「私が待ち続けてる間、彼はそこの掃除をしててね。剣道部の先生に頼まれたって言ってたわ。気が弱くてやさしそうだから、きっとコキ使われてたのね」
その様子が目に浮かび、私は何だか笑えてしまう。
冬子は、何者かに呼び出された。しかし自転車小屋には誰も来ない。剣道場前の掃除をしていた千賀くんはそれを見かねて、自分の友達と冬子を重ね合わせ、帰った方がいいと忠告した……。
「そのさ、呼び出しのラブレターみたいなやつ、見せてくれる?」
私の言葉に少し驚いてから、冬子はこくりと頷く。
「うん、いいよ。でも、今持ってないから、放課後ちょっと寄り道しようよ。ポテトでもつつきながら、私のグチを聞いてよ」
「そうね。昨日の帰りに話せなかったこととかも含めて」
そんなわけで私は、放課後に駅の近くのファストフード店でおしゃべり――および、推理する約束を取りつけたのである。
「なにこれ」
「ラブレター」
「付箋じゃんか」
脚の回転率を高めるため意図的に設計された硬いソファと硬いイス。ソファの側に冬子は座り、その正面に私は座っていた。
ポテトと飲み物しか乗っていないトレー。それをどかして、冬子は一枚の付箋をテーブルに貼り付けた。
付箋には、こんなことが書いてある。
あなたのことが好きです。7月14日の放課後、自転車小屋に来てください。
宛て名も、差出人の名前もない。それもそのはず、付箋の小さなキャパシティでは、それだけの情報量を書き込むことができなかったのである。書こうと思えば名前をねじ込めないこともなさそうだが、告白相手の名前を無理矢理に書いてあるのは興が削がれるだろう。まあ、そんなこと言ったら付箋という時点でそもそもどうなのだろう。
「この付箋は、どこに? クラスの机とか?」
「ううん、これ」
冬子は自分の隣に座らせてあるバッグから一冊のノートを取り出すと、私に差し出した。
「げっ、まだこれ使ってるの?」
「げっとか言わないでよ」
ノートの表紙には、化学の文字に二重線が引かれていて、倫理と書かれている。同じように、2年4組に二重線。2年4組は、去年の私たちのクラスだ。そして、今のクラス――3年2組と訂正されている。名前のところには、冬子ではなく私の名前が書いてあった。
さて、この奇妙なノートは、3年生になってからすぐに、私が冬子にあげたものである。倫理の授業を前にルーズリーフを切らした冬子が、休み時間に駆け込んできてたのだ。私はルーズリーフを使っていないから、リュックに入れっぱなしになっていた2年の頃の化学のノートを丸々渡したのである。どういうわけか冬子は、そのときの臨時のノートを使い続けているらしく、それどころか……。
「なんで名前消してないの?」
「いや、人の名前に二重線とか引きたくないじゃん? それに友達の名前だよ?」
「それはまあ、わかるけど……。新しいノート買えばいいのに」
「これ使ってると、真波に見張られてる気がしてさ。倫理の授業も起きてようって思えるんだよね」
自分への好意を示されたため、私は強く否定することができず、話を進めた。
「で、付箋は表紙に貼ってあったの?」
「ううん、ノートの中」
「中?」
冬子はノートを取り上げると、ある場所を開いてから私に返す。
「テストが終わって、ノートチェックされたのね。で、昨日ノートが返されて、最後にノートが書かれてるところに、ぺたっと貼ってあったの」
冬子はテーブルから付箋を剥がすと、ノートの見開き右側のページの真ん中あたりに貼り直した。そのページは、ちょうど上から数行書いたところで終わっているために、ほとんど文字が書かれていない。その余白の部分に、この愛の付箋が貼られていたという。
「あ、そっちの倫理って松下先生なの?」
「うん、そうだよ」
開かれたページの右下に、ひらがなで「まつした」と乱暴にサインされている。
冬子によると、松下先生は地理を専門としているが、人員の関係で冬子のクラスの倫理も担当しているらしかった。松下先生は1組と2組の倫理、3組と4組の地理を受け持っていることになる。他の学年についてはよく知らない。
私たちの学校では、地理・歴史科職員室と公民科職員室が隣接していて、松下先生は当然、地理・歴史科職員室で作業をしている。その隣の多目的室1で授業が行われていて、職員室と多目的室は内側のドアで繋がっていた。
公民科職員室の隣が多目的室2で、本来公民科に属する倫理は、その教室で行うことが原則なのだが、担当教員が地理の職員である関係か、松下先生の倫理は多目的室1で行われているらしい。
「しかし、よくこの名前でチェックしてくれたね、松下先生」
「ちゃんと提出するときに、友達からもらったノートなんです、名前は消せません、私は石川冬子ですって言ったおいたからね」
「ということは……松下先生は、このノートの持ち主が冬子だってことを、ちゃんとわかっていたということだね」
「え、うん。そうだけど……」
私はしばらく考え込む。冬子はそれを不安げに見ていたが、集中しているのに気づくと、冷めたポテトに手を伸ばし始めた。
例えば、冬子に告白しようとする誰かがいたとする。もちろんこれは、千賀くんが言っていたように、誰かのイタズラだという可能性もあるが。仮にそうだとしても、無差別な犯行でなければ冬子がターゲットになったということである。どのみち、付箋を書いた誰かは「冬子」を呼び出す必要があったと考えるべきだ。
だからこそ、その誰かさんは、確実に冬子に付箋を見てもらう必要があった。考えられる有効な手は、教室の机。しかしこれは、昼休みに千賀くんの席を冬子が借りているように、他の誰かの目に止まりやすいのでナンセンスだ。
王道で、靴箱なんてのはどうだろう。しかしこれも向いてない。冬子の靴箱は高い位置にあるため、彼女は少し背伸びをして靴の交換をしている。中に手紙を仕込んだところで、手紙の位置に対して背の低い冬子がそれに気づくとは思えない。
そうであるなら、たしかにノートに付箋を挟んでおくというのは有効だろう。粘着力があるため、ただの紙に比べて落ちてしまう可能性が低い。ノートの中に貼ってあれば、落ちる確率はさらに小さくなる。
だが問題は、冬子の倫理のノートだった。これには、私の名前が書いてある。告白にしろいたずらにしろ、冬子を対象としているのであれば、私の名前の書かれたノートに付箋を貼ろうなどとは考えないだろう。もちろん、冬子が倫理の時間になぜか違う人の名前の書かれたノートを使っていることを知っている人であれば、話は別であるが。この場合付箋を貼ったのは、冬子と同じ時間に倫理を受けている、1組か2組の生徒ということになる。しかし、これは考えにくい。ノートの表紙が見えているとき――つまりノートが閉じているときよりも、ノートを開いている時間の方が圧倒的に長いため、名前違いに気づける可能性がそもそも低いのだ。
そうなると、冬子のノートに私の名前が書いてあると知っている人物は、私を除けばひとりしか考えられない。
「冬子、思ったんだけど――」
あくまでも、いたずらの可能性には触れずに。
「その付箋貼ったの、松下先生じゃないかな」
(中編へ続く)
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