4-6『Y講習中、K仕事中』
「娘さん。助かるよ絶対」
夕焼けに身を照らされながら、僕らは医務室の前のベンチに腰掛け、治療の完了を待ち望んでいた。
エタノールの香りが不安心を煽る中、兼森くんは頭の後ろで腕を組む僕に、青い顔を向ける。
「……どうして…わかるんですか?」
未だ震える声が、彼の不安を掻き立てている。
あそこまで傷だらけの娘を見たら、誰だって助からないと思うだろう。
しかし、スプリミナルにはそれを必ず治せると言いきれる自信がある。
「うちの医師は免許を持ってないけど、傷ついた人間を完璧に治すことができる。そういう能力を持ってる人なんだよ」
医務室内で絶賛治療中の彼女は、この組織の中でも重宝されなければならない程の特異を持っている。
正直、特異だけみれば世界自体から重宝されそうなのだが、性格や罪があれだからな…。
ただ、彼に自信を持って『大丈夫』と言えるのは、その様な理由があるわけだ。
「そう…ですか……」
「信じてない?」
彼が俯く様を見る限り、やはりこんな言葉だけでは信じられていないように思えた。
しかし、僕の考えとは反して、彼は首を横に振る。
「いえ…仮にも、私やユウコの命を救ってくださりましたから…嘘だとは思ってません。でも……」
スプリミナルへの不信を否定した刹那、彼は両手の指を絡めて俯く。
「自分は……本当にダメな父親だと思うんです。娘の事をもう幼くないと過信してしまい、一人のままにすることが多くなって…。できる限り、彼女の望むものは全部与えた筈だったんですが…それが裏目に出て、反抗に繋がってしまった……」
ため息混じり、彼の今にも泣きそうな声が、この夕焼けを悲しみの色に染めている…。
娘を気に掛けなかったから避けられて、そのせいでこんな事件に巻き込まれた。
その事実が、彼にとって強い傷になってしまっているのだろう…。
優しい人間は自分を責めやすい…ということか。
「……カネモリくんはさ…娘さんのこと、どう思ってるの…?」
単純に気になったことをふと聞くと、彼は少しだけ微笑んだ。
「…大切な存在です。この世のなによりも…。だから、娘自信を守るためにも仕事を選びました。でも…その選択のせいで、娘の処女や…命まで…」
娘のことを思うがあまり、兼森くんの両目には、また涙がたまってきている。
「私は…きっと芯からダメな人間なんです。娘の事が一番だと思いながら、結局仕事ばっかりして…自分の事しか考えられていない…」
哀愁漂う夕景の中、一人の父親は強姦魔を憎まず、自分自身を憎んでいた。
床に落ちた一筋の涙がどこか自壊的で、ここなら必ず治るという確証も、彼の中では逆転層に覆われた街並みのように、心の中が霞んでしまっている。
これからまた、一人の子供を育てあげなければならない人間が、これでは困る。
下手すりゃ、親子心中なんてことになる可能性もなくはないし、そういう奴もよく見てきた…。
「一つ、とある人の話をしてあげるよ」
しかたがないから、僕はそう銘打って、落胆する彼のためにノンフィクションの軽い物語を話し始めた。
「今やこの世界、リージェンの介入や、海外の大学からの見解によって、児童ポルノ法案の改正だとか、性教育の本格化を訴える論文だとかで、表現の自由が他国と比べて大きく守られてるよね。そんな中でも、少しの卑猥な表現ですら排除したいエゴイストが今でも存在してるの、君は知ってる?」
兼森くんは「えぇ」と相づちを打つ。
最早、表現の楽園だとすらも言われているこの国で、如何にもな主義者の名前を謳って差別を繰り返している人間は、昔から変わっていない。
正直、忌々しい物だ。
「そいつの母親はまさにその類いだった。彼女は一人息子を思うがあまりに、小さな頃から厳格で狂気的な教育をしていた。睡眠時間と起床時間を秒毎に決めつけ、学校以外はほとんど勉強。息抜きとして見ても良い番組は教育番組とニュース番組のみ。漫画やゲームなどの娯楽も無しの上に、自発的な性処理も禁止。その上、自分の部屋には母親専用の監視カメラを設置していたとか。決まりを破れば、家の中で裸吊りと暴力。友好関係も絶対に築かせない。そして母親は必ず彼に言うんだ『これもあなたのためなのよ』とね」
自分で話していても胸くその悪い話だ。
やりたいことが何一つできない上に、道を初めから決めつけられているなんて、地獄そのものなのだからな。
「そいつは、その刑務所的な教育下に22年間も耐え抜き、そのお陰で日本で有名な一流の大学にも行けた。でも…学業よりも"怒られずに生きること"に必死だった彼には、もはや常識など持っておらず、誰にも触れられず、誰とも関われず、更には自分から涌き出る性欲の処理方法も知らず…。自分自身のなかにいる母親と戦う中、最終的には…同じ大学の女性や、純粋な児童に手を出してしまった…」
手を出した、という単語に反応するように、兼森くんは僕に振り向く。
今、語っているこの話の主人公が誰なのか、彼はようやく分かったようだ…。
「その後、そいつは手を出したことがバレるのを恐れて、親元から逃げたが逮捕。その後、自分自身の性欲に耐えきれずに脱獄、数年の逃亡生活の後に、立派なミラーマフィアの仲間入りを果たす。マフィアと言う圧倒的な力を得たことによる快楽から、二ヶ月前に自分の母親を銃で撃ち殺した。その後、そいつは一人の社長の娘に手を掛けて、現在はこの中に捕まってしまいましたとさ」
僕は兼森くんに向けてプリズンシールを揺らしながら、少しの考察を含むその物語を終わらせた。
流れ的には、めでたしめでたしとでも言いたいけれど、こんな物をめでたいとして終わらせる程、僕は
ついでに、話を聞き終えた兼森くんが、まるで鳩が豆鉄砲を食らったどころか、投げナイフで打ち落とされたような顔をしていたもんで、それが少々滑稽にも見えた。
「えげつすぎて声もでない?」
驚愕な表情のまま、兼森くんは頷く。
「僕も同じ」
それに僕はニヒルに微笑みを返した。
犯罪者の中には、親の教育があまりにもえげつかった人間もいれば、自由すぎて何も教えてくれなかったからという人間もいる。
前者の事案をよく知っている僕だからこそ、今この手の中にいる犯罪者の狂った理由には、少し情けが持てる。
ただ、だからと言って、こいつの犯した罪を軽くするような愚行は決してしたくないが。
それどころか、いっそ地獄にでも落ちて、無に返るまで鬼に延々と掘られりゃ良いとすらと思ってる。
まぁ、そんなこと思ってても、被害を受けた人間と傷は元通りにならないのが悲しいな。
「水原さん…私は…」
皆まで言わなくても、彼がなにを言おうとしているのかは分かっている…。
「君の教育は、まだ間違いには値しない」
慰めも込めて僕がそう告げた瞬間、兼森くんの表情がハッと変わる。
「家事代行サービスの人にも聞いてたけどさ、君が会社を休みにしてたときに、君は必ず娘さんと話し合ってたみたいじゃん?まぁ、一部は君が依頼してたときから聞いていたけど…」
「それが…なにか…?」
「娘は、そう言うところに感謝していたんだよ。父の日やクリスマス、君が帰れなくても、必ず帰ってきてくれる君に、手作りのプレゼントを渡そうとしてたって、代行サービスの人が話してくれたよ…?」
僕が彼に安藤の生い立ちを話していたのは、全てはこの調査報告を伝えるための布石だ。
彼が娘の事を知れなかったのを後悔するなら、せめて娘が父親の事を愛していた証明をしてやるのが、僕にとっての最適解だと思う。
「時間ができなくても、君はあの子になにも押し付けず、大切に思っていた。そして、それはあの子にも通じていて、その愛を返すように、あの子も君の事を誰よりも大切に思っていた。その証拠に…」
この親子のことを話す刹那、僕は、パーカーのポケットの中から、少し濡れた形跡のある小さな小包を取り出し、自責に潰されている彼にそっと手渡した。
「これは…?」
「あの空洞の中に、娘さんと一緒に入ってた。空けてみたら?」
兼森くんは首をかしげながらピンクの紙を丁寧に開くと、そこから白い箱が出て来て、それを開けると、中にはシルバーの可愛らしいネコのネクタイピンが、箱の中でよそよそしく光ながら、そこに鎮座していた。
「……っ!」
そして、その箱の裏側には『HappyBirthdayFather』の文字が、金で印字されている…。
「ユウコ…おまえ…反抗してたんじゃ……」
娘のプレゼントに、涙する父。
それに気をとられ、包装紙と箱の間から一枚の手紙が落ちたことに、彼は気づいていなかった。
しょうがないなと、僕はそれを拾い上げ、嗚咽を漏らす彼の代わりにその手紙を読み上げた。
「お父さんへ。最近お話できなくてごめんなさい。いつもお仕事お疲れさま。私を育ててくれてありがとう。そして、誕生日おめでとう…だってさ」
丸っこく子供らしい綺麗な文字で書かれたその感謝の手紙は、父親が流している暖かい涙の量を、より一層多くさせた。
どんな形の文字でも、どれだけ文字数が少なくても、どんな形の便箋でも、心のこもった手紙は必ずその人間に届く。
と、確か、昔に叶くんが言ってた気がする…。
「きっと、反抗期なんじゃなくて、自分の感情を出すのが恥ずかしかったんじゃない?ちょっとしたツンデレみたいなさ…」
僕は気を遣って励ますけれど、彼はそれでも首を横に振る。
「でも…私は……振り向いてあげられなくて……」
今だ自己の失望感を感じ続け、涙で顔を濡らす兼森くんだが、僕は彼の今の自虐的意見への同意は一切ない。
だから、自分は彼に向けて首を横に振って応えられる。
「子供全てが、大人の"可哀想"という思想で動いてなんかいない。君の娘さんは、きっと寂しいからこそ"どうすればお父さんと触れあえるのか"を考えられる、賢い脳みそを持ってたんだよ、きっと」
自分に失望している彼にそう言ってやると、僕の言葉に励まされたのか、泣きながら頭を一回ゆっくり縦に振った。
ようやく兼森宍道は理解したようだ。
兼森親子の絆と言うのは、父が思っているほど、脆いものではなかったということを…。
そして、互いに愛しているからこそ、その思いが帰ってくると言うことも…。
「極めてベタな話だ…。でも、物語の序盤のお話としては、こういうの良いんじゃないの?ねぇ?」
僕がそう言いながら立ち上がると、兼森くんは顔を上げる。
すると、医務室の扉がいつの間にか開いており、そこには、施術の終わった高学年程の患者と、ロングヘアーを
「お父さん…」
どうやら、さっきから父の涙を見ていた兼森柚子も、目には涙をためていた。
先ほどまで精液にまみれ、傷だらけで死にそうだった彼女は、うちの女医の特異のお陰で、あの痛々しかった傷は消え、女医が買ってきたのであろう新品の洋服を身を纏って、すっかり子供らしい綺麗な装いになっていた。
「ユ…ユウコォッ!」
娘の無事に喜ぶ兼森くんは、プレゼントのネクタイピンを片手に、最愛の娘を力一杯に抱き締めた。
「ごめんなさい…私……私…」
「なにも言うなっ!お前はがんばった!生きてくれるだけで…本当によかったんだ!」
不幸だった親子の感情が互いの肩を濡らす。
こう言う感動シーンは、小説やら漫画やらでいろいろ見たことはあるが、こう言うのを目の当たりにすれば、僕の心でさえも、なんだか少しだけジンとくる物が涌き出てくるな…。
「傷は粗方塞がったし、受け答えもしっかりとしてるわ」
スプリミナルを支える若き藪医者、
「傷をつけられた箇所は、まだそこまで日がたっていなかったから、跡も残らずに済んだ。でも、私の処置は絶対に傷を癒すけれど、完全ではない。虫型からの強姦の影響で、残念ながら生殖器周辺には、少し異常が出てしまっている。今のところ、妊娠とかそういうのは問題ないみたいだけれど、今後、なにか異常が出て来たら、産婦人科のある病院に行ってちょうだい。連絡くれれば紹介状も書くし、スプリミナルの顔を聞かせて、資金の問題も無しにしてあげるわ」
「ありがとう…ございます……」
彼女の治療と対応を聞く兼森くんは、娘と抱きしめ合いつつ、涙ながらに感謝の意を深山女医に表した。
「ミヤマくん…結構奮発するねぇ?」
そっと彼女の近くに寄って
「うっさい。これは医務員として当然の事、囃し立てるな」
少々照れを隠しているような苦笑いを浮かべながら、彼女は僕をあしらった。
しかし、その後の彼女の表情はガラリと変わる。
「でも、純粋な女の子にこんな傷をつけるようなクズは…死んでも許されない…」
「おー怖……」
今の彼女の表情は、まるで衆合地獄で罪人の陰部を焼く鬼のようだ。
男嫌いの彼女だからこそ、今回の事件は、相当腹立たしいものだったと考えられる。
今回の事件の担当が僕じゃなくて深山くんだったら、きっと犯人を僕よりもヤバイ方法で殺していただろうな…。
「とりあえず、この後の話をしようか…」
感動の再会に水を刺すのは申し訳ないが、今後についてをちゃんと話しておかないと、またこんな事件に巻き込まれる可能性が出てしまうからな。
「組員が逮捕された以上、君の会社はマフィアに狙われる可能性が高い。或マスは下級の中でも一番でかい組織だからね…。対策のため、社員の強制解雇と、武装警察の強いチームがいる
ここまで厚待遇にするのも、被害をこれ以上大きくしないようにするためっていうのが半分と、武装警察総隊長の優しさが半分だろう。
一度危険に晒された命を「はい、お疲れさまでした」と、また危険に晒すのは、さすがにおかしいと思うしな…。
「何から何まで…本当にありがとうございます…」
最後まで僕の話を聞いていた兼森くんは涙を拭い、娘の手を繋ぎながら立ち上がり、僕らに何度も頭を下げる。
「こっから、また大変だろうけど、君ら二人なら大丈夫だと思うよ」
僕は微笑みつつ、律儀な彼の身体を拳でポンと優しく叩いた。
まぁ、仕事としては当たり前の事をしただけだから、感謝される覚えもないが、言葉にされると少し嬉しいものだな。
「お姉さんも、ありがとうございました」
娘の柚子も父親同様、深山くんに律儀に礼を言うと、彼女はしゃがんで娘の視線に合わせ、頭をそっと撫でた。
「どういたしまして。お父さんと仲良くね」
僕らには殆んど見せない優しい笑顔(もしくは営業スマイル)を柚子くんに向けると、撫でられている彼女も、にっこりと笑顔を浮かべていた。
深山くんの事情を知ってるから、笑顔が胡散臭く見えるけれど、兼森柚子からしたら、父親以外の心の拠り所の一つになっているのかもしれないな…。
「すみません。お車の準備ができました」
スプリミナルの事務員が駆け寄ってきて、兼森くん達に伝えた。
そろそろ、依頼完了の時間のようだ。
事務員に「有難うございます」と頷いた兼森くんは、改めて僕らの方を向いた。
「ミズハラさん、女医さん。この度は本当に、本当に、ありがとうございました!」
別れの直前、ほぼ直角に腰を折って頭を下げながら、彼は心からの感謝を表す。
「そういうの良いから早く行きな。幸せにね」
少々照れっ恥ずかしい思いと共に、スプリミナル探偵課の僕らは手を振り、絶望の中から帰還した二人が横から射す夕焼けに飲まれながら帰っていくのを、静かに見守った。
彼らが進んでいくためのあまねく選択路に、強く暖かな光があることを願う…。
「……こういうの、あんたは嫌いだと思ってた」
親子二人が建物から出た後、ふと深山くんが目線を合わさずに僕に話しかける。
「自分の事と、あの人たちの事は別だよ。むしろ、君の方がこういうの嫌いだと思ってたよ」
対抗するように目線を合わせず、僕は答え、問いを返す。
「まぁね…。でも、ちゃんと愛してるなら良いのよ」
溜め息混じりに、彼女は答えを返す。
こんな少し無愛想な彼女にも、僕と同じく払拭したい過去がある。
前に少し話してもらったことがあるから、それについては知っているが、わざわざまたそこに突っ込むほど野暮でない。
ただ、自分自身、彼女のことも郷中のように、内心気に入らないと思ってたりもするのだが…。
「はぁ…疲れた…明日からまた出張だし…今度はプロミアの武装警察にヘルプですって。ハイカワの奴、暑苦しくて嫌なのよねぇ…」
女性らしからず、まるでおっさんのごとく、深山くんはグリグリと肩を回す。
ちなみに、こういうのと似たようなことをあおいもするから、別にこれが原因で嫌いだという訳ではない。
「そう、頑張って」
「なによ…素っ気ないわね…」
呆気な返事をした僕に向けて、彼女はまたフンとそっぽを向いた。
こう言う少し高飛車なところもあまり好きじゃないんだがな。
「別にぃ?」
生意気に少々ねっとりとした言い方で返してやると、彼女はまた僕を小突く。
「あ…そういや今日、話題の新人来てるけど、どうする?見に来る?」
僕が聞くと、彼女は少し考えた後に、首を横に振った。
「あー…いや、今日はめんどくさいから良いわ。食事の予約もしてるし、今日の朝、顎にニキビできてたのよね…嫌だ嫌だ……」
そう言って、ぼやくが彼女の顎にニキビはない。
恐らく、潰してから特異を自分に使い、綺麗に治癒させたのだろうな。
「食事ねぇ~。まぁた、男吹っ掛けてお金でもせびるの?」
にやにやと揶揄ってやると、如何にも「しつこい」と言いたげな冷ややかな目で、彼女は僕を睨んだ。
「もうしないわよ、んなこと。これ以上目ぇつけられんのめんどくさいから」
否定はするが、彼女の前職は悠樹くんと同じ(の上に超やり手)だからちょいと胡散臭い。
これが多分、自分が彼女に嫌悪を抱く大きな原因の一つだと思ってる。
偏見とかではないけど、彼女をみていると、少々記憶のなかでちらつくものがあって、それが僕にとっては、グシャグシャにしてゴミ箱に棄ててやりたい程忌々しかったりするのだ…。
「治療薬の換えはいつものところにおいとくから、欲しかったら勝手に取っといって。そう新人にも言っときなさいね」
そう言って、彼女は白衣の中から、特注の特殊形状の使用済みの注射器をゴミ箱に投げ棄て、新しい治療薬を冷凍庫に入れた。
「りょーかい…。とは言っても、彼が使うかはわかんないけど」
と言うのも、悠樹くんの特異が特殊すぎるが故だ。
無効化の特異点にこの特異も聞くのかは微妙だから、少々疑問である…。
しかし、それを知らない深山くんは、何故か僕に厳しい目線を向ける。
「んなこと言ったら、そいつ自惚れるわよ。どんな特異かは知らないけど、私らはハイドニウムを使われたら終わりなんだから、そう言う事もちゃんと言っときなさいよ」
藪だけれども、医療現場に立っている彼女の的確な指示に、僕は「へいへい」とテキトーに返事をする。
彼女も僕と同じく、多くの現場を体験してきた人間であり、失敗も成功も沢山してきている。
例え気に入らなくとも、彼女の隊員としての意欲や行動には、まだ尊敬の意くらいは持てるし、自分なんかの判断で折角の新人を殺すのは忍びない…。
「まぁ…それ以前にその新人が、今後足手まといにならなきゃ良いわねぇ…」
そう言って、会ったこともない新人に皮肉を飛ばす彼女の表情は、まるで絵に描いたような悪女のようなだった。
「…そうだね」
一応同意はしといてやるが、まだ彼の力を知らないから言えることだ。
彼女の場合、きっと彼の能力を見れば、心底驚くタイプだろうと妄想しながら、僕は少し笑った。
このいけ好かない女医が、彼の力を知ったらどう掌を返すのか、またはどう貶すのか、個人的に少々気になるところだからな。
なんて思う自分も、悪い人間の部類か…。
◆
夕日の朱が、夜の紺に侵食されていこうとしている。
物寂しげな夕景が街や人を照らし、それぞれの鬱屈が帰路を歩んでいた…。
事件が終わってから、僕は医務室から出て、郷仲に依頼完了報告(嫌味付き)をして、やっと今日の業務が終了したところだ。
まぁ、また報告書も書かなきゃいけないし、緊急のノーイン退治で無理やり起こされることもあるから、終了と言って良いのかわからないけれど…。
「はぁ~…疲れた……」
とりあえず、仕事終わりに一息付こうと、僕は会社の内部、店の裏側のドアからフェイバリットの中へ入り、適当な場所に腰を掛けた。
「アオイ、いつものカフェオレ」
「はいは~い」
二の腕を掴んで伸びをしながら注文すると、厨房からあおいの声だけが帰ってきた。
そろそろ閉店の時間だから、後片付けで忙しいんだろう。
「ふぅ…」
体幹を適度に伸ばした後、疲れたの息を吐きながら腕を下ろす。
カフェオレを待つまでの時間、窓側の席に座っていた僕は、頬杖を付きながら、外の景色を眺め始めた。
通りすがる人間達は、僕らのようなアウトローな存在に気も付かず、それぞれの寝床へと帰っていく。
兼森くん達も、これから新たな寝床へと帰っていくのだろう。
ただ、マフィアに目をつけられて、望んでいた日常の終点に着けた者は数少ない。
事件に絡んだ多くの者は、マフィアの飼っているノーインの餌食になるか、銃を持った奴らが来て蜂の巣にされたり、旧東京湾に沈められたりしてしまうか…。
政界本部や普通警察の本部を中心に建てられているバラーディア。
それは逆に言うとデモ活動や抗議行動がやりやすいという事であり、数少ない武装警察の目が行き届きにくくなると言うこと。
その影響もあってか、ここは多くのミラーマフィアが活動しやすく、命も勿論狙われやすい。
だからこそ、武装警察の本部があり、マフィアが活動しにくい
マフィアは案外しつこい物だし、その上、今回の事件で父親は仕事を失って、娘の方は無惨にも純情を奪われてしまった…。
それによって、二人ともの心には深い傷がついてしまったと思われ、それをまた元の形に治すには、まだ長い月日が必要となるだろう…。
「これからどうなるかだね…」
そう呟きつつ、二人の姿を想像していると、窓の外から商店街の中にあるスーパーの袋をもった親子が「ゆうやけこやけ」と歌いながら、家へと帰っていくのが見えた。
こんな風に、二人が笑える日が来て欲しい。
僕ができるのは、そうやって二人の行く道に光があることを願うだけだった…。
「はいどうぞ」
カチャンと食器同士が擦れる音が聞こえ、机に頼んでいたものが置かれたことを悟った。
「あぁ…ありが……」
窓から目を離すと、目の前に飛び込んできたのは、愛用しているマグカップに入ったカフェオレと、頼んだ覚えのないスイーツが置かれている光景だった。
「なにこれ?」
「クレープ。さっき余った生地で作って遊んでたんだ」
「クレープ…って、うぉ!?」
僕が一番驚いたのは、持って来られたクレープではなく、これを持ってきたのが先ほど女医と噂していた新人だったからだ。
「なにしてんの!?」
「いやぁ…カナエさんから、スプリミナルの初仕事だ!って言って連れてこられちゃって…。なかなか大変だけど、やってみたら楽しかったんだよね。喫茶店業務」
銀色のステンレストレイを腋に抱え、エプロンを着て微笑む悠樹くんの姿に僕は戸惑う。
そういや大体サボるけど、スプリミナルは喫茶店業務も組み込まれているんだったな。
「そうそう!テツヤくん、お料理が超うまいんだよ!それに接客態度もなかなか良いし、対応も皆よりも早くてね!お陰でスッゴく助かっちゃったぁ…」
「いやぁ…それほどでも…」
あおいがカウンターから身を乗り出しながら、後頭部を撫でて照れる悠樹くんを高く評価した。
「へぇ……」
確かに、フェイバリットの制服である深緑色エプロンが、なんとなく似合っている気もする…。
確か、詐欺師であると同時に様々な掛け持ちバイトをしていたんだったな…。
「まぁ……それでもコンビニとかで働いてる人よりは全然遅いんだけどね…」
自信なさげに謙遜する姿は、相変わらずな感じか。
なんて思いつつ、僕はクレープを手に持ち、何気なくかぶりついた。
「あ、旨」
柔らかい甘さの生地と生クリームの優しい味が口のなかに広がると共に、チョコチップのポリポリとした軽い食感が楽しい。
あおいのつくるお菓子の味に、悠樹くんのアイデアが上乗せされている感じの味だな。
「でしょう?」
彼はそう言うと、カウンターにいるあおいに振り返り、大成功と言わんばかりに、二人だけでピースサインを出しあった。
「君…一応、
「た……多分?」
カフェオレを啜りながら僕が聞くと、悠樹くんは首をかしげた。
なんで疑問文なんだと突っ込みたいが…突っ込んでも良いものなのかわからないからそのままスルーしておいた。
「あっ、そろそろ店じまいしないと…テツヤくん!片付け手伝って!」
「はーい!」
あおいの号令と共に、悠樹くんは僕に「ごゆっくり」とだけ言い残し、そそくさと厨房の片付けへと向かった。
「足手まといねぇ……」
遠目からせこせこと働く彼の姿を眺めながら、僕はもくもくとクレープを食べ続ける。
彼と出会って、せいぜいまだ数日程だ。
これから彼がどんな活躍が出きるのか、彼の特異以外の利点はどこなのか、彼が本当に役に立てるのか。
まだ不安が沢山あるけれど、とりあえずはここの社員として、少しは仲良くやっていけるだろう。
「ほんと…ユウキくんがこれからどうなるかねぇ……」
なんて呟きつつ、僕は残り少ないクレープを口の中に放り込むと、夜空も共にオレンジの夕景を飲み込み終えた。
To be continue…
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