3-2『自己否定な僕と社長のS』
エタノールと薬物の匂いがふわりと鼻を通る…。
まだかまだかと待機する病人と、歩き流れる人々の様子は、まるで枯れかけているシクラメンの並ぶ花壇のようだ。
それを他所に、丁度、僕が扉の前に到着すると同時にエレベーターが開き、それに乗り込んでボタンを押すと、上階めがけて動き出した。
「元気かな…」
ポツリと呟きつつ、壁に背をつけながら、エレベーターの起動音だけを聞いていた。
花菜村から二つ程隣の街にある病院、そこには僕にとって大切な人間がいる。
僕の用事と言うのは、その子のお見舞いだ。
昨日はここに来れなかったから、彼女は心配しただろうか…?
そんな心配を胸にしていると、エレベーターから到着のアナウンスが流れ、扉が開いた。
そこから降りると、消毒液の匂いの中に、煮物や洗剤のような生活感のある匂いが混じっている…。
点滴片手にリハビリをする人や、病室内でテレビをみている人等、チラリと見える病人同士の生活に「治る見込みのある人は良いな」と少し僻みながら、僕はナースステーションの受け付けに着く。
「すみません。ユウキアヤノの見舞いなんですが…今、大丈夫ですか…?」
僕が声をかけると、受付の人は、少しだけパソコンを動かし、改めてこちらを向いた。
「今の時間は大丈夫だと思います。どうぞ」
「ありがとうございます」
微笑む看護師に礼を良い、僕は彼女の待つ部屋へとまた歩き始めた。
あの子が体を拭いている途中だったりしたら困るからな…。
「うむぅ……」
だが、お見舞いに行く道中だと言うのに、こんな僕の頭の中では、まだ先程の勧誘の話が頭を巡っている。
「どうしようかな……入るか…入らないか……」
彼女のことを思うと、あまり危険なことはしない方が良いとは思う。
けれど、特異点として知りたいことが知れて、自分が彼らにとって役に立つことができると郷仲さんが言ってくれるのだとしたら、スプリミナルに入ってもメリットはあると思うんだ。
しかし、身体的にも精神的にも、それなりのリスクが伴うと言うところであったり、その『役に立つ』と言う認定が貰えるなんて確証はないというデメリットも大きい。
「……もしも…」
もしも、母が生きていたなら、僕がスプリミナルに入るのを止めるのか…止めないのか…。
たらればからそれの想定を考えることすらできない僕に、入社資格など本当にあったのだろうか…。
ただ、自分の特異点を狙ってるだけなんじゃないのか?
なんて考えすぎて、そのまま人間不信になってしまえば、もう末期だ。
「まぁ、いっか…。とりあえず、暗い顔せずに行かないと…」
そうだ、今はスプリミナルではなくて、お見舞いに来ているんだ。
あまり考えないようにしなければと、その悩みを今は胸の奥に封じ込め、僕はその部屋の扉を開いた。
カーテンが閉まった暗い部屋の中、その子はただ静かに息をしながら夢の世界に心を投じている…。
やれやれとため息を吐き、僕はその遮光性の窓掛けを一気に広げると、日の光が差し込み、点滴袋の中に入った液体が光り、真っ白な病室と彼女の体を包んでいるベッドが露になった。
「おはよう。アヤ」
未だに眠っている妹に僕は声をかけつつ、近くに備え付けられている椅子に腰をかけた。
「今日はどんな夢見てるの?」
日に背を照らされる僕は、彼女に声をかけるけれど、返ってくる訳がない。
彼女は昔、とある災害事故に遭ってからずっと眠ったまま、所謂、植物状態と言うやつだ。
どれだけこの暖かな日の光を浴びせようが、優しく声をかけようが、ギュッと手を握ろうが、返ってくるのは耳を澄ませなければ聞こえない寝息だけ…。
「そっか…。あ、まだ母さんに会いに行ってないよね?僕を差し置いて母さんに会いに行くのはズルいよ?」
だからお見舞いに来たときには必ず、彼女から言葉が返ってきたことを妄想して、他愛もない話を続ける。
さっきの僕の言葉の後には、きっと「また新しい物語を描いていた」と言ってたと思うし、この言葉から返って来たのは「まだそんなことできないよ。そんなの死んじゃってるし」とブラックジョーク気味に笑ってると思う。
こんな姿を第三者に見られたら、僕は精神異常者にカテゴライズされるかもな…。
「そう……。そうだ、昨日と今日は沢山の人にあったよ。年下の子が二人と、年上の夫婦の方と。皆、悪い人には見えなかったかな」
僕は特異点が発症してからのここ最近の事を、彼女に少しだけ話した。
僕の妄想のなかでは、彼女はニコリと微笑んで、楽しそうだねと言ってくれたが、その後に「お仕事の調子はどう?」と聞かれてしまった。
「あぁ…仕事のこと聞く?……うん」
こういう時、普通なら心配をさせないように誤魔化すのが先決なのかもしれない。
「兄ちゃん…またクビになっちゃったんだ…。倒産だって…」
けれど、家族にだけはそう言う隠し事はあまりしたくない。
スプリミナルの事とか特異点のことは、機密情報だろうから、家族でさえも言えないのだけれど、それならせめて自分の事くらいは言ってあげないと、よけいに心配されてしまうから…。
「まぁ、こんなことでは、兄ちゃんめげないからな!すぐに新しい仕事見つけて、アヤをすぐに退院させてやるからな!」
意気込んでそう言って、妹からは「無理しないでね」と言われる妄想をする。
時に冷静になった瞬間、その一連の動作全てが、虚しく思えてくきてしまうこともあって…。
「だから……早く起きてくれよな…」
胸の奥から少しずつ、なにか塩臭いものが込み上げてくる…。
僕はなにをやってるんだろう…。
またそんな思いがこの体を巡る。
自分を揶揄し続けて、揶揄され続けて、その末には、生きているだけで、この空っぽの空間に押し潰されそうな程、自分自信が惨めで惨めでしかたがなく思えてきてしまうんだ…。
けれど、綾乃という存在があることで、なんとかその思いと生が繋ぎ止められている。
「そろそろ……兄ちゃん寂しくなってきたんだよ…」
だが、その存在自体がもう四年も眠っている…。
寂しいと言っても気分は晴れないし、虚しいと思っても彼女が目覚めることはない。
どんなことを願っても、起きる気配はないのだ…。
「早く起きてくれないと……兄ちゃん…安心できない…だろ……」
両目から流れた大粒の涙が、きれいに除菌清掃されたタイルに落ちていく。
もう嫌だって逃げたしたいときだってある。
何度この子のお見舞いに来たか、幾らこの子の入院費を払ったか、何回この子の身の回りの事をしてあげたのか…。
どうでも良いやなんて、言って居直ることができたらどれだけ楽なのだろうか。
こんな僕にはそんな権利すらない。
「…ダメだ……涙止めないと…」
僕がめげてはいけないんだ。
アヤが目覚めた時に、僕がいなければ、一人ぼっちになってしまった挙げ句、今の僕と同じ感情になってしまうと思うから…。
アヤのために生きる。
アヤには僕しかいないんだ。
いつか彼女が目覚めるのを期待して、これからも自分は働いていかねばならない。
例え、その仕事が危険なものであったとしても…。
◆
新人が去ってから、僕が一息つけたのは、ようやく店を片付け終えたときだった。
「あぁ…疲れた…」
綺麗に洗い終えた椅子に座り、ピカピカに磨かれた机の上に頬を付けて突っ伏し、大きく息を吐いた。
焦げていた店は水洗いやらワックスがけやらをしつつ、たまたま帰ってきた特異点の仲間にも手を貸してもらって、ようやく元のアンティーク調カフェに戻った。
ただ、完了したのはもう夕焼けが出そうな時間帯の頃だったのだが…。
「カドヤくんもアオイちゃんもお疲れ様ぁ…。ごめんねこんなにしちゃって」
こんなにした張本人である叶くんは、娘の子守りをしながら陳謝する。
「ほんっとだよ…特異点の集団じゃなきゃ、ここ直すのに一ヶ月はかかってたね」
「アハハ……申し訳ない…」
「ごめんね」
苦笑いの叶くんに合わせて凍治叶くんまで謝る。
「別にイチカくんが謝ることじゃないよ。これが仕事だから別に良いよ」
そう言って、僕は彼女の謝罪を受容した。
嫌いというわけではないのだが、子供は皮肉混じりのジョークが通用しないから少し苦手だ。
ちょっとしたことも本気で捉えられてしまうと、調子が狂ってしまうから。
にしても、親に合わせて娘が謝罪をする姿には、カンガルーかイブクロコモリガエルか、そんな親子連れの動物を思い浮かべてしまうな。
まぁ、これで清掃作業は終わったし、後は昨日の報告書さえ書き終われば、それで今日の業務は終わりだ。
今日は色々と疲れたな。
主に叶くんと佑香くんの暴走にだけど…。
「はい。お疲れ様のカフェオレ」
先程まで明日の仕込みをしていたあおいが、いつものカフェオレが入ったコーヒーカップを僕の目の前に置いた。
「ありがと…アオイ…」
顔をあげ、いつもの甘い味付けのカフェオレを啜ると、体の芯から疲れが溶け出していくような感覚が走る…。
「これだな…」
なんて、少しおっさん臭いことを言ってリラックスすると、今度はあおいが机に頬をつける。
「ハァ~…せっかく後輩増えると思ったのになぁ~…」
彼女は残念そうな顔を浮かべながら、大きくため息を付いた。
やはり、あおいは悠樹くんのことを少し引きずっていたようだ。
まぁ、彼女の性格のことだ、折角の念願であった後輩候補からの返事が、想像していないものだったら少し凹むか。
あおいは長い間"戦力外"って感じだったわけだし…。
「しかたないわ。いきなり入れって言われて、即答できる人なんていないもの…」
「そうですよねぇ…諦めないと……。なんだけどなぁ~…」
娘を膝に置いてあやす叶くんが、あおいを宥めるけれど、やはりあまり納得は出来ないようだ。
まぁ、そもそも初めから当人に入ってくれそうな気はしていなかったが、今まで勧誘した中では、結果的に必ず全員が加入しているわけだから、流れ的には少し期待してしまうよな。
しかし…その勧誘を決定した社長も、予測をしていたのだろうか…。
「……あれ?そういや、サトナカくんどこ?」
周りを見回すが、先程まで手伝ってくれていた郷仲くんの姿がここに居なかった。
違う生業の方に言ったのだろうか?
「病院だってさ、四年目検診の結果取りに行くって」
僕の予測を切り裂くように、あおいが郷仲くんの行き先を伝うと、叶くんが少しため息を溢す。
「そっかぁ…なんだかんだで四年なのね…」
彼女の言葉を聞くなり、もう四年か…と僕とあおいも少し感慨深くなった。
確かに、ため息をつきたくなるほど、あれは大きすぎた災害だった。
あの血溜まりの光景が、いまだに僕の目に焼き付いているのだから…。
「なにが?」
しかし、その災害を知らない齢四の少女は、顔を見上げて母に聞く事くらいしか、情報を集める手段はない。
「イチカが四歳になったな~?って話」
「そっかぁ~」
叶くんが、その災害がなんだったのかを誤魔化すのは、きっと悲しき人災をまだ幼い子供に聞かせたくないからだろう。
あらゆる悲しい事件は、決して忘れてはいけないのかもしれないけれど、それを体験していない小さな子供に無理やりそれの怖さを押し付けるのは、僕は大人によるエゴではないかと思うのだ。
それが逆効果になってしまって、トラウマを植え付けてしまっては困るだろうし、なにより忘れてしまいたい程悲しいことがあるのは、僕にだってわかるから…。
「あーあ…入ってくれると良いんだけどなぁ…」
なんて少し締めっぽく考えている時でも、あおいはしつこい程に彼の加入を願っている。
「まぁ、あくまで保留だから、明日になったら心が変わることだってあるよ」
彼女のしつこいため息に呆れ混じりでそう言うが、あおいの顔は未だに晴れない…。
「そうかなぁ……」
「それに……4年以上いるならわかるでしょ…?もしも罪人が入社を拒否したら…ってこと……」
「わかってるから喜んでたんだよ…」
実はスプリミナルには一つ『絶対に入った方が良い』という条件が成されている。
社長である郷仲は、新人にそれについてを一切言わないのだが、この条件を言ってしまえば、100%に近い確率で、皆が首を縦に振る。
それなのに彼が言わないのは、郷仲にとってそれが『可否の自由を阻害する』として、絶対に口外しないようだ。
郷仲は自由と調和を重んじる人間であるから、拒否も領収も自由であり、決して否定してはならないと、緊急事態のアラートのように、僕らにも繰り返してその言葉を告げてきた。
「……まぁでも、あの人の性格なら、どっちを選んでも後悔はしなそうだけどね…」
出会ってまだ二日ではあるが、彼の言動や行動をみる限り、あまり『自分は悪くない』と自発的に思えることが出来ない性格のように見えた。
「確かに……なんか抱えてそうな人だったもんね…。それでも、ここに来てくれると嬉しいんだけどなぁ……」
あおいの言うとおり、彼の中で抱えているものが、その自己否定や自信への低評価に干渉しているのだろう…。
誰にだって、抱えてるものの一つや二つくらいある。
それにズケズケと踏み込んで事情を聴こうなんて気はさらさら無い。
だが、そう言ったものが行動に影響してしまっているのは、少々面倒なものではあるよな…。
―それは君もだけどね…
僕への嫌がらせかのように聞こえてきたその声に、僕は苛立ち、小さくため息をつく。
「うっさいな…」
自分でわかってるんだから、出てくるなよバケモノが…。
「なんか言った?」
おっと…心のなかで言っていたつもりが、声に出てしまっていたようだ。
「なんでも…」
僕は素っ気なく言葉を返し、またその甘いカフェオレに口をつけた。
とにかく、新人がどう動くとか、スプリミナルに入るか入らないかなんて、自分には興味がない。
窓から見える、落ちていこうとする太陽のように、結局は流れに任せるしかないし、それを覆そうなんて気も起きるわけがないのだ。
けれど"結局、悠樹哲哉はここに入るだろう"と、僕は心のなかで、自分の中のバケモノと、賭けていたりはする…。
◆
空が朱みがかってきた。
この真っ白な部屋での楽しくも切ない時間と、別れを告げねばならない。
この部屋がまた少し寂しくなるが、僕はそっとカーテンを閉じて、眠っている妹に向けて、にこりと微笑んだ。
「じゃあ、兄ちゃんまた明日来るからな。おやすみ」
僕はそう言って扉を開き、眠る妹から『おやすみ』と声が返って来る妄想をしてから、部屋を出た。
「…ふぅ……」
虚しいと思いつつ廊下を歩く。
今日までにやってきた事が報われてほしいと思ってきたことなんて何度あるだろう。
精神異常者だとバカにされているのではないかという思いも、いつまで妹にすがってるんだと思われるのではないかと言う恐怖も、そろそろ現実を見ろなんて言う絵空事も、なんとかこの地面と一緒に踏み潰してきた。
それでも、人生なんて報われないものだ。
今も通りすぎた病室から聞こえる「よくがんばったね」に妬んでしまっている思いだってあるのだから。
妹は頑張れる力すらないのに、僕は死ぬ程頑張っているつもりなのに…。
そんな負の感情すらも、消えちまえと床に捨て、僕はエレベーターのボタンを押した。
エレベーターが来るのを待つ。
携帯はほぼ全部捨ててしまったから、暇を持て余せるものがない。
詐欺をしていた事実を消さなければらなかったが故、プライベートの携帯電話すらも捨てるしかなかった。
いくら携帯電話を捨てても、僕が詐欺師であった事実は、死んでも消えない。
けれど、それだけでも少しは心がマシになったのは事実だ。
だからこそ、今日は少し冷静な判断ができたのかもしれない。
詐欺師を辞めれているわけではないのだろうけれど、こんなことで少し高揚する自分が、僕はなによりも嫌いだ。
「もしも…」
自分を否定し続けて頭に浮かんだのは、結局は一つのたらればだ。
「もしも…アヤじゃなくて僕だったら……」
妹があぁなってから、いつまでもずっと考えている…。
僕が彼女の代わりだったら、きっと何もかもが上手く言っていたと思う。
アヤは、たまに少し突っ走ったりすることはあるけど、自分よりも要領は良いし、正義感も強く、礼儀も正しい。
だから、スプリミナルに入れといわれても、きっと彼女はすぐにOKサインを出してくれると思う。
でも、ぼくは結局そうじゃなくて、今も特異点になったとしても、そんなにすぐに物事を決められるほどの性根は持っていない…。
それが、また少し悲しくて辛くて…。
チーン
エレベーターが到着し、目の前の扉が開いた。
自分自身への嫌悪と、誰にも見られたくない第三者からの目への恐怖に、頭を押さえつけられる。
目線を床に反らしながら、僕はエレベーターに乗った。
扉がしまり、慣れ親しんだ消毒液の香りと僕を共に運び出した。
「もしも…僕が……」
暇さえあれば、結局また自己否定になるんだ…。
「もしも私が君だったら。まずは明日のことを考えるかな」
「……やっぱりそ…うぉおうっ!?」
たらればを繰り返そうとしていたところに聞こえた声。
それに驚いて後ろを見ると、そこには、丁度昼頃まで話をしていたスプリミナルの社長がいた…。
「やぁ」
呑気に彼は笑みを浮かべながら手を振った。
「さ…サトナカさん…!?なんでこんなところに…もしかして、つけてきました!?」
「ハハッ。私にそんなストーカー趣味はないよ」
スプリミナルにいた時とは違い、少し気さくに笑う彼は、手に持っているクリアファイルを僕に見せる。
「私は事故の経過観察結果を貰いに来ただけさ」
どのような事故かはわからないが、そのパワーワードを聞き、僕の心臓がドクンと小さく波打つ。
「事故…?サトナカさんが…ですか…?」
「いや、これはカナエのさ」
彼の微笑みながら否定する姿にまた胸の鼓動がなる。
「奥さんが…でしたか……」
自分はお人好しでたらればな人間であって、よく地雷を踏む男だ。
これのせいで、昔やっていた仕事を解雇されてしまったことがあるし…。
ただ、今回ばかりはその時以上に不謹慎かつ失礼に値する場所を踏んでしまった…。
申し訳なさすぎて、今すぐこのエレベーターの天井で僕の体を押し潰して欲しい程の遺憾に襲われている…。
「あまり気負いはしないでおくれよ。私はそんなことで怒ったりしないからね」
「え…あ、はい…」
彼は僕の感情を汲み取ってそう言ってくれ、僕は少し戸惑いながら返事をした。
郷仲さんと出会ってから、数時間しか経っていないのだけれど、彼はまるでエスパーかメンタリストのように、どこかボクの心を見据えているような気がして少し不気味に感じる。
一応、彼にはそんな気はないと言われればそれまでなのだが…。
とりあえず、僕の発言に腹を立てていないのはありがたい。
「そうだ……まだエレベーターが降りるまでに時間はある。少しだけ昔話をしようか。私と君との親睦を深めるためにね」
エレベーターが下りていく中、彼は壁に寄りかかって、身体を僕と対面させる。
「あ…はい…」
でも、昔話で親睦を深めると言われても、あまり乗り気ではないんだが…。
「私の妻と子供は、一歩間違えてたら死んでいたんだ…」
ほら…やっぱり少し重めの話だ…。
地雷を踏んだ自分が悪いと心に言い聞かせ、僕は会話を続けた。
「事故で…ですか?」
「あぁ…」
まぁ、それでも重すぎる話は、あまり好きではないから、嫌なところは流し聞こう。
そう思っていたのだが、彼が次に口に出した言葉に、僕の中では興味のカテゴリーのスイッチが押される。
「君は『鏡面発光事件』というのを知っているかい?」
この事件の名前は、僕がこの世で忌み嫌う物であり、密かに真相を追い続けているものだった…。
「知ってます!鏡面がまるで核爆弾が落ちた時のように光って、多くの人が体調不良や喪失をしたって言う……」
これが、四年前に起きた大災害。
先ほど言った通り、ノーインの住まう鏡の中から、突然、強力すぎる光が放たれたのが事の発端だ。
それを浴びてしまった生命体は、身体が一瞬で消滅したり、風船のように破裂したり、意識だけがどこかへ行ってしまったように倒れたりと、医学や科学的には全く説明が出来ないと言われてしまうほど、甚大な身体的障害が多くの人間に起きてしまった。
それによって政府は対応に終われ、武装警察含む警視庁全体やレスキュー隊だけではなく、自衛隊まで駆り出される始末だった…。
しかし、光を浴びた人間全てに身体的障害を患ったわけではなく、中には何事もなく無事だった人間もいるし、意識が無くなっても、数ヵ月後にはピンピンした姿で目覚めたという人間もいる。
死んでしまったのは、なんの繋がりもトリックもない、不特定多数の人間…。
だからこそ、これに事件性はないとし、災害として片付けられたのだ。
「えげつすぎる…災害でしたよね…」
「あぁ…私たち家族は一次被害では無事だったのだが、妻は第二次災害の被害にあった。その時の妻は出産間近でね…。鏡面発光で妻の身体に以上は全くなかったんだが、近くで運転していたトラックが…彼女の近くにね……」
鏡面発光事件が多くの人に認知されているのは、勿論一次被害の経験談や未だに残る実被害が多いのだが、災害として認可される引き金となった要因として、二次被害も大きく関係している。
例えば、郷仲さんの奥さんが体験したような、運転をしていた人間が死に、コントロール不能になった車が人に突っ込んで犠牲になった物。
二次被害としてはこれが一番多かったらしい。
他にも、一部地域で飛び散った血液や内蔵の清掃が遅くなって病にかかってしまったり、自分だけが生き残ったという自責の念が爆発して自殺してしまったり…。
そのような事実をなかなか認知はされないのだが、その被害は一次災害とは引けを取らないほどに酷いものだったらしい…。
「事故の目撃者によると、胎児だけならぬ内蔵すらも、ぐしゃぐしゃに潰れてしまっていた…と言っていたよ……」
肝が冷えるような感覚が走る。
二次的被害にあった人間の気持ちは、一概には分からないけれど、それにもしも会ってしまったらというたらればを想像すれば、恐怖で身の毛がよだつどころか、心臓がキュッと縮み上がる…。
その上、事故に遭ったのが最愛の人だけではなく、生まれていない愛する我が子と共にだったら、絶望感も相当だ…。
「そ…それで…どうなったんですか…?」
僕は怖いもの聞きたさで恐る恐る聞くと、彼は大きくため息をつく。
「その連絡を聞いた時…私は慌てて病院に行ったよ……。もしかしたら、もうどちらにも会えないかもと思い、泣きながら走った……」
そう語ってくれる彼の目は、はじめてあったあの時よりも一層に冷たい。
それは恐れの冷たさではなく、あの災害の日を思い出す悔しさや悲しさ、恐れのようにも見えた…。
「でも…カナエさんは…生きてますよね…?」
僕がそう言うと、彼の目の曇りは一気に晴れる。
「あぁ。病院に言ったとき、カナエはピンピンしていたよ。傷もなにもない上に、あの時お腹にいたイチカも生きていた…。それは何故だったと思う?」
問いを問いで返すような言葉に、僕は焦った。
「え、そ…それは……お医者さんの腕がすごかったから…とかですか?」
なんとなく思い付いた言葉で答えてみるが、彼は首を横に振り「いいや」と僕に不正解を告げる。
「カナエとイチカが助かったのは、特異点のおかげさ」
特異点…。
まさかこんなところでそのワードが出てくるとは思っていなかった…。
「当時、鏡面発光事件の影響を受けず、たまたま事故を見ていた『治癒』の特異点を持った女性が、カナエを救ってくれたのさ」
「そんなことが出来たんですか…!?」
そもそも、治癒の特異点なんてあったのか…。
「あぁ。あの時は…本当に神を感謝したよ…。当時、神なんてものは、山奥のボロ小屋の中で首を吊っているような物だと思っていた私がね…」
少し独特な表現だが、なんとなく、僕にもその意味がわかる…。
今まで受けた苦痛を考えてみれば、神様なんてそんな物だと感じる。
ただ、その表現と言葉に込められた感情に、郷仲さんがあの時、如何に誰も信じられていなかったのかというのも、なんとなく感じられた…。
「元気に生きれて、本当に良かったですね……」
僕は作り笑いで言葉を返す。
冷静に考えてみれば、特異点はなんでもありの能力という印象があるから、確かに万能の治癒をもっている人間だっている…。
ただ、その奇跡のような出会いが、彼らのような人間を救った。
その経験から、水原くんが病とすら謳っていた"特異点"という概念が、この世に存在しても良いのではないかと言う思いを、彼の心に定義されたのかもしれない。
「僕の妹とは…違いますね…」
そんな奇跡を妬んでしまった僕が、つい呟いてしまったその言葉に、郷仲さんが反応する。
「君には…寝たきりの妹さんがいるんだってね……」
スプリミナルは、そこまで知っているのか…。
「はい…。アヤノという妹がいるんですが…。鏡面発光事件による一次被害をもろに受けてしまって…」
話すのは心苦しいが、どうせ隠したところで探られる。
「アヤは、事件当時に仕事のために外出したんですが…その途中で被害にあって…」
当時のことは、今も鮮明に覚えている。
あの日、自分があの子を止めていれば、疲れきって寝てしまっていなければ、後少しでもいいから話しておけば、なんて後悔をいつもしている…。
自分だけが生き残って、アヤは今も夢の中という状況に、僕の心はいつもギリギリと締め付けられている…。
そのせいで、もしも自分がアヤの代わりになれたら、と言うたらればを繰り返し続けて、もう四年も経っている…。
辛くて辛くてしかたがなくても、臆病だから死ぬことも出来なくて、死んだとてアヤを一人にすることになる…。
「それで、治療費を稼ぐために詐欺を…と……」
また郷仲さんの推測が見事に当たっているもんだから、また少し胸に痛みが伴う。
「はい…。まぁ、僕はお人好しの下手くそなので…あまり大きな収入にはならなかったですけど…」
それに、詐欺会社は倒産したしな…。
仕事はなにをしても失敗で、受け入れられることすらないから、僕一人で罪を重ね続けるしかなかった。
それがこの結果だ。
どれだけ詐欺で治療費を稼いでも、未だにアヤが起床することもないし、今や変な能力も目覚めてしまって…。
「……ずっと…抱えてきたんだね。一人で」
僕に向けられた憐れみの言葉に、ほんの少しだけ慰められる。
「……でも、僕が頑張らないと行けないから…一応兄貴ですし……」
罪を諦めきった今では、もうこんな感情論でしか考えられない。
これからも自分はこうして生きていくんだろう。
たった一人、誰にも理解はされずに、この世界の片隅で妹のために罪を重ね続ける。
最期には、その因果が応報して逮捕されるか、マフィアやノーインに殺されて死ぬか…。
このまま完璧なる堕落人生の道に、きっと歩んでいくしかないんだろう。
「……詐欺を選んだこと、後悔はしていないのかい?」
自分が勝手な想像を浮かべていた刹那、唐突に郷仲さんが僕に聞く。
「どういうことですか…?」
意味がわからないことを問うと、腕を組んで壁にもたれていた彼は、そこから背を離すと共に腕を開いた。
「人生というのは大きなキャンパスだと仮定する。始めに誰もがベタ塗りをする"命"というベースカラーに、次はどんな色を乗せるか?次はどんなものを描くか?次は何の加工をするか?作品作りと言うのは、まずそれを想像する」
彼の言葉を聞きながら、僕はその言葉の通りにキャンパスを、そしてそこに、いろんな色を塗りつける想像をしてみる。
「しかし、その絵を描く上で、塗ってしまった色というのは、水彩だろうが油絵だろうが、そのままの元の色に戻すには、なかなか難しい…」
確かに、どんな物にでも黒等の色をこぼしてしまえば台無しになってしまうだろう…。
この消毒液とエレベーター独特の匂いが降り混ざった空間を一枚の紙として、それに血の臭いを表す色が追加されれば、一気にこの場所は、恐怖や緊迫に支配されてしまう。
「君が塗った『詐欺師』という色で、どんなものができあがった?どんな自分が表現できていた…?」
「……それは…」
その答えとしては、"僕が思ったものとは違う"となる。
元から無能という存在だった僕に、詐欺師という黒色を足されてしまえば、立派な屑という心像の完成だ。
描けば描くほどに、自分という人間がマイナスに定義されていくのだと感じている…。
「少し話を変えよう……。私からスプリミナルの誘いという色を受け取ったとき…君はどうしたいと思ったんだい?」
質問を変える郷仲さんに、僕は狼狽えた…。
「チューブからその色を排水溝に吹き出して、全て洗い流したいと思った?それとも、その色を使って、新たな世界を描きたいと思った?」
「それは…」
なんとか返す答えを見つけようとする自分だが、なんとなくその答えに『自分が役に立たないと思うから』というのは、相応しくないと思った。
「……よくわからないんです…。そりゃ…スプリミナルに入れば、特異点に関することがもっとわかるとは思うんですけど、なんか…足がでなくて……。ただ…『怖い』という思いが…先行してるんだと思ってます……」
俯きながら言葉を繕う自分は、本当に臆病だ。
新しいことをするのに、いちいち勇気を出さねばならないのが億劫に感じるほど、僕という人間はは自分に自信がない。
自分ではない誰かに、背を押してもらいたいとすらも、どこかで思っているのかもしれない。
他力本願の臆病者に…役に立つことなんてできるわけがないんだ……
「…怖いと言えるということは……君には"恐れを定義することができる"ということになるね…」
ふと、彼が発したその言葉を聞き、僕は顔を上げた。
「私は、鏡面発光事件による二次被害によって、君の描けている"恐れ"という色を捨ててしまった…。この存在は、私に出来ないことを君には出来て、君は自分自信をしっかりと描ける力を持っているという証明となっている」
「恐れなんかが…ですか?」
「恐れなんかが、だよ」
喜怒哀楽の喜と楽だけで生きていたい。
そんなことくらいしか考えたことのない自分にとって、その言葉は新鮮で刺激的な物だった。
恐れがなんのためにあるのかなんて、普通に生活して気づくものなんかじゃないし、自分では、その存在がなんのためにあるのか、曖昧よりも散らかった言葉でしか表現はできない。
けれど、その恐れという物も自分を証明するための概念であり、間違いなく自分を表現できる色だと、郷仲凍利は語り、僕はその言葉に間違いなく魅了されている。
しかし、彼の中から恐れが無くなったと言うのはどういう事なのだろうか…。
〈ポーン!一階です〉
郷仲さんのことを少し考えている内に、エレベーターからアナウンスが鳴った。
「一つ君に言っておこう…」
郷仲さんが話し始めた途端、エレベーターの扉が開くと、そこから漏れだした逆光が、彼の小さくも大きな背中を映えさせる。
「君の中にある色は一つじゃなければ、人生というキャンパスも決して小さなものではない。芸術への発達に働く可能性は無限大だ。だからこれからも、他人の物ではなく"君自信の色で自身と言う存在を定義"してみたまえ。難しそうに聞こえるが、君には簡単なことだよ…」
振り向き様、僕に向けて無感情の笑みを浮かべたその姿は、昨日僕を救ってくれた、あの少年の姿に似ていた…。
「自身を…描く……」
他人の物ではない、自分だけの感情で描くという言葉を聞き、僕の心は、新たなカメラのフィルムがパチンとハマったように、なにかなくしていた物を思い出した感覚が走った。
背を向けて歩きだす彼の姿は、スプリミナルの長としてではなく、郷仲凍利と言う一人の人間として、なにか大きな大きな感情を背負っているような、そんな気がした…。
To be continue…
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます