私の片想い/無題
霧江サネヒサ
三崎の章
リビングの床に広がっている自分の吐瀉物の上に顔を押し付け、彼は倒れていた。
「先生……?」
俺は鞄を取り落とすように手放し、死体みたいに動かない目羅静一郎に駆け寄り、抱き起こす。
「目羅先生!」
よれよれのシャツに包まれた先生の体は、起きるのを拒否するみたいに、ぐにゃぐにゃしている。骨、ちゃんと入ってる?
息はしている。心臓は動いている。この人は生きている。
ほっと、胸を撫で下ろした。
「先生、起きろよ」
「うぅ…………」
頬を軽く叩くと、呻き声をこぼす先生。反対側の頬には、乾いたゲロがこびりついている。
先生の顔色は悪い。青ざめている。先生の髪は、いつものようにボサボサ。目の下の隈が酷い。無精髭が生えている。それも、いつものこと。ゲロを吐いて倒れてるのも、よくあること。嫌なことを思い出して吐いたか、キノコか何かをキメて吐いたか。
「ダメだろ、先生。俺を置いてどっかに飛んじゃあ」
あの世だろうが、宇宙だろうが、夢の中だろうが、許可できない。
貴方には、やらなきゃいけないことがあるでしょう?
「……みさき…………?」
「はーい、三崎帆希ですよ。おはよう」
先生の蚊の鳴くような声に返事をした。
「お、おかえり……」
「ただいまー。ストレス?キノコ?」
「キノコ」
現在の時刻は19時20分。もう効果は切れているみたいだから、キメたのは、おそらく14時頃。
もしかして昼食の後にやったのか?
キノコ食べると吐き気来るんだから、飯を抜けって言ってるのに。そろそろ、キノコも何とか禁止した方が良い。
「頭、打ちました?痛みますか?」
「いいや……」
大丈夫そうだ。
「先生、眼鏡は?」
「あっちで壊れてたから、踏んだんだと思う」
情けない顔で、リビングの片隅を指差す先生。
「素足で? 大丈夫?」
「だいじょうぶ……たぶん……」
「見せて」
先生をソファーに座らせて、足裏を見て、手で触れる。右足が終わったら、左足。傷はないようだ。
「顔洗ったり、水飲んだりしてて。俺が床掃除し終わったら、風呂ね。先生、あんまり目ぇ見えないだろ?」
「うん……」
先生が壁に手を突き、よたよた歩いて洗面所へ向かうのを見送った。
スーツを脱いで部屋着になってから、床を雑巾で拭く。眼鏡の残骸は拾って、捨てる。掃除機、は必要ないか。粉々になった訳でもないし。輪っかにした紙テープで割れたレンズの細かいガラス片を取ることにする。
後始末を終えて振り返ると、先生が背後にボーっと立っていた。
「先生、風呂入る?」
「……うん」
先生の手を引いて、風呂へ移動する。
湯を溜めながら、先生の服を脱がせる。
「先生、また痩せた? 吐いてるからかな。とりあえず、キノコは禁止で」
前よりも、あばら骨が浮いているように見える。
キノコは後で全部捨てよう。先生の金だけど、そもそも違法だし。
「…………三崎」
「なに?」
キノコ禁止についての文句かと身構えたが。
「絵が描き終わった」
「見たい!」
俺は手早く目羅先生を風呂に入れた。
まず髪を洗ってから、体を洗う。それから、しばらく湯船に浸かってもらう。
ああ、早く絵が見たい。
風呂から上がって、先生の体を拭き、髪をドライヤーで乾かす。
終わり。
再び手を繋いで、今度は納屋を改装したアトリエへ向かう。
この世で一番美しく、価値あるもの。
それが、目羅静一郎の産み出す抽象絵画たちだと信じている。
さて、今日はどんな絵を描いたのだろう。
先生が絵にかけられたシートを外すと、そこには。
「は…………?」
青空と田園と、ふたりで住んでいる一軒家が描かれていた。
なにその牧歌的な田舎の風景! つまんないよ!
画材の無駄とまでは言わないけど、でも画材の無駄だろ。
いつもの病気か?! この人は恋すると、ろくでもないもんしか描かなくなるんだよな!
でも、ここ人いないじゃん。そういう場所を選んだんだから。周り田んぼじゃん。カエルしかいねぇよ。夜、意識するとゲロゲロうるさいアイツら。
ここに来る人間も、ほとんどいないし。宅配の人ぐらい? それ? 宅配の人に惚れたの?
「せ……先生、もしかして…………」
声が震える。嫌な汗をかいている。
何度目だろうが、嫌なものは嫌だ。呼吸が荒くなっているのが分かる。言葉が、出てこない。
先生は、いつもの仏頂面で俺を見ていて、貴方は私のことを何でも分かってるみたいに、面白がってるみたいに、貴方は私をバカにして、でも私は貴方を、貴方は私の、いや私が貴方の、だから私には幸せを願えなかったけれども、それは本当にごめんなさい。
貴方は私を罵っていいし、嗤っていいし、呪っていいのです。
「君のことが好きだ」
先生、今なんて言った? なに?
あんたが、俺のことが好き? は?
これは現実……?
「……嘘ぉ」
情けない声が出た。それが精一杯だった。
きっと間抜け面をしているだろう。
夢なら覚めないで。いや、即刻覚めて。
性的指向のことをハッキリ訊いたことはないけれど、今までを考えると異性愛者だろうな、という感じで。雇ったハウスキーパーの女性に惚れたり、近所の人妻に惚れたり。そんなことが起きないように今の環境を整えたのに。
それでも恋心を持つんですか?
俺に? それって、刑務所内で恋人求めるみたいなやつじゃないの?
「あんまり失望させないでよ」
つい、口から言葉が漏れ出た。
あんたは、孤独の中にいなくちゃならない。
じゃないと、美しいものなんて描けやしないんだから。
先生は寂しがり屋だ。それはいい。じゃないと、孤独が孤独じゃあなくなっちまうから。
たまに、考える。絵を描かない先生を愛せるかどうか。
本当のところは分からないけれど、想像上では愛せている。
俺ってなんて献身的なんだろう。
「…………」
先生は、何も語らない。ジトッとした目で俺を見ている。
そして、一度溜め息を吐くと、絵にシートをかけ直した。
「先生、次はいつもみたいに素敵な絵を描いてくださいね?」
俺は先生の肩を掴み、半ば脅すように言った。
先生は、無言でそっぽを向いている。
◆◆◆
目羅先生が消えた。
「いない…………」
屋根裏にも。庭にも。アトリエにも。どこにもいない。
息が苦しい。
こんなことになるなら、縛り付けておけば良かったじゃないか!
下手に理性なんか残しておくから、一番大切なものを逃がすんだよ。
「目羅先生………………」
目羅静一郎がいなくなってから、数日が経った。正確な日数は把握していない。
俺は、昼も夜もなく、先生を捜し回ったが、見付からない。
疲労困憊だ。
食事が喉を通らないし、いっそキノコでも食べるか。
ヤバいキノコと知らずにキノコオムレツを作って食べてしまったという体で死のう。
前向きに死にたい。幸せに包まれて死にたい。
俺は調理を開始した。
食欲をそそる良い匂いがする。
「…………いただきます」
出来立てのキノコオムレツを、フォークで食べる。食べる。食べる。
あっという間に食べ終えた。
少し経つと。まず吐き気が来て、その先には天国がある。
世界一面に広がる、俺の好きな先生の作品群。
俺の好きな、先生の絵?
俺の好きな先生の、絵?
やめてくれ。そんなこと考えたくないんだ。
一度、嫌な気持ちに取り憑かれると、どんどん世界が嫌な方向へと動いていく。先生の絵は消えていき、そして。
「あ、これダメ」
おめでとう、バッドトリップ入りだ。ざまあない。
こっから持ち直すなんて器用なこと出来ない。明るく死ぬのは無理でしたね。
人生って、本当ろくでもない。
こんな惨めに死にたくないよ。
ああ、ダメ。部屋中が漂白されている。白くないのは、もう俺だけじゃないか。
ふいに、汽笛の音がした。
船?
ここは船だった。海の上だった。窓の外には魚が泳いでいる。
部屋ごと監獄船に捕まったんだ!
どうしよう。ここにいたら、カラスも真っ白にされる。逃げたいけれど、ここは一体どこの海の上なのか。
あああ、海なんて大嫌いだ。
なんであんな綺麗な海ばっかり出回るんだ! あんなの見たくないんだ!
一般的に、美しい風景とか、暖かい光景とか言われてるものが大嫌いなんだ。
どうでもいい人間たちとの行楽とか、どうでもいい人間が産んだどうでもいい赤ん坊とか、本当にどうでもいいんだ。
俺に何を言えってんだ?
私には到底得られないものをお持ちのようで、羨ましいです……って言わせたいの?
なんで皆、当たり前みたいに家族と仲が良いんだよ。趣味を全否定されたことないの? 人間性を疑われたことない?
それで病院に連行されて、木を描かされたり、インクのシミを見せられたりさぁ。
大切なものを勝手に捨てられたことない? 検閲を通ったもの以外の所持を許されなかったりしない?
なんで? 気持ち悪い。
窓の外の、忌々しい特大の海水プールを睨み付けることしか出来ない。
今、白い魚がいた!
奴ら絶対、漂白物質垂れ流してるだろ。そのせいで産まれた真っ白どころか透明の化物が、きっと、そこらに沢山いるんだ。
俺の隣には見えない血塗れみたいな赤い化物がいるし、部屋の天井にドブ色の見えない毛むくじゃらが張り付いている。
それに、透明な知らない人もいるし。
見てないで助けてよ。
俺のこと、見えてないようで、見えてるんでしょう?
分かってんだから、それくらい。
うわ。指先から、体が白くなっていく。ああ、これ。中身は、どうなってるんだ。中身は? まだ赤い?
リビングの電話台の上にあるペン立てに、あるはず。
あった。カッターを握る。刃を出す。
それから。それから?
それから、居るはずのない人が、俺の前に居て。ペンキ缶がはじけたみたいに、色が爆発して。飛び散った色は吸い込まれるようにして、全てが元の場所に。
気付けば、魚も化物もいなくなってる。
ここは監獄船じゃない。
本当に?
俺は、監獄船で死んだのかもしれなかった。
「ここは天国ですか…………?」
「そうだよ。おかえり、三崎」
「……ただいま」
先生の言葉が、音楽として耳から入り、あまりの美しさに涙が流れた。目に映る音の色も綺麗で、美しい。
「それ……」
珍しく素早い動きで、俺の右手からカッターを奪う先生。
別に、奪わなくてもあげますけど。
彼は刃を戻し、カッターから興味を失ったかのように。ぽいっと。
いや、それ。
「先生」
それ、ペン立てじゃないですよ。ゴミ箱ですよ。
「なんで捨てたの?」
「捨ててないけど」
なんで俺は両頬をつねられているんだ。
あと、体の色が塗り替えられている。先生がやったのか。
貴方は、いつも私を救ってくれるね。
「やっぱり、私は貴方がいないと死んでしまいますよ。どうか、ここに居てください」
思わず、両手を口の前で祈るように組んで、懇願してしまう。もうずっと涙が流れっぱなしだから、色が滲んでいないか心配だ。
「敬語、戻ってる。気味悪い」
先生は眉間に皺を寄せ、俺を見下ろしている。
分かってるよ、自分が卑怯者だってことくらい。
俺にだって、俺の恋愛感情に虚実入り混じってないなんて言えやしないんだ。
それでも俺は、片想いをしているって思いたいよ。それくらい、俺にも持つことが出来ていいだろう?
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