目羅の章

「目羅さん」


 誰だ、こいつ。

 ひしゃげた絵の具チューブみたいな男。


「目羅さん、今、三崎くんと一緒に住んでるって本当なんですか?」

「ああ、うん」


 誰だ、お前。なんで知ってる?

 三崎の同僚?


「へぇ~。ふたりで暮らしてみて、なんか戸惑ってしまったこととかないんですか?」


 別にない。


「犬が……」

「犬、飼ってたんですか?」

「いや、同居人がね」

「その犬が?」

「見ていて面白いね、ああいう生き物は」

「私も犬飼ってるんですけど、結構表情豊かで面白いですよね」


 おおっと。同居人の飼っている犬などという、居もしない生き物を産み出してしまった。

 僕の犬なんだよ、同居人が。分からないかなぁ。たぶん、分かられなくて良かったのだろう。

 彼が、とても従順だから何も困っていないんだよ。


「あ、可愛いとは思ってない感じですか?」


 僕の表情を窺い、何を思ったのか、どうでもいい質問をしてくる。


「時々は可愛いく見えるよ」


 あの犬が画廊主を説得してくれなければ、僕の絵を置いてくれることはなかっただろう。

 使える犬だ。あの画商……見習い……? とにかく、あの若者は…………若いっけ? 確か、8つ下? そもそも僕は何歳だ? 30は超えてるはずだが。

 まあいいや。

 画材を買ってから帰宅する。

 三崎は仕事でいない。

 さっさとアトリエへ向かおう。

 そして、書きかけの絵と向き合う。

 僕がデザインした世界は暗鬱で、濁っていて、錆び付いていて、生臭い。

 それを見た三崎は、君は、「美しい」とか「綺麗」とか言う。頭おかしいよ、君。

 そして、僕も頭がおかしくなったのか、そんな君を好いている。

 三崎は、僕の絵が好きなだけなのに。これじゃあ、僕が可哀想だ。

 でも、ここは天国のようなところなのだろう。三崎が甲斐甲斐しく世話をしてくれるから、何不自由ない。

 田園地帯に、ぽつりとあるふたりの家。

 僕と、君の帰る場所。

 胸の内に暖かなものが流れ込む。

 段々、自分の人生が素晴らしいもののような気がしてきた!

 この世界は美しい! 世界、最高!

 今描いてる陰鬱な絵なんてクソだ!

 別の絵を描こう。美しい天国を描こう。

 僕は筆を取って、今までとは全く違う風景画を描き出す。

 昼過ぎまで、夢中で描き、一応の完成を迎える。


「…………よし」


 青空と田園と、この家。美しい。

 ここには、愛しい三崎帆希がいる。

 しかし、はた、と気付いた。

 三崎は、こういう絵が好きではない。というか、嫌っている。憎んですらいるかもしれない。

 彼に、駄作だと言われることは想像に難くない。

 気分が落ち込んできた。

 いや、大丈夫、大丈夫だ。


「そうだ」


 腹が減っているせいだ。三崎が作り置いてくれている昼ご飯を食べに行こう。

 若干の目眩を感じながら、僕は歩いた。

 キッチンに行き、彼の作ったオムライスを電子レンジで温める。


「いただきます」


 美味しい。三崎は、特に卵料理が得意だ。

 早々に食べ終え、リビングからキッチンへ戻り、冷蔵庫から飲み物を取る。

 緑茶のペットボトルを戻す時に、それが目に入った。

 密閉された容器に入っている、乾燥キノコ。


「…………」


 しばし、それを見つめる。

 結局、僕はそれを口にした。

 吐き気の後に、気分が段々と上がっていく。

 窓の外の景色が、文字になった。

「樹」と「木」の違いなんて知らないから、全部「木」だ。

 僕の絵以外は全部、文字でいいんだよ、邪魔だから。漢字は元々は絵だったけれど、それは置いといて。

「鳥」が「空」を飛んでいる。

「蛙」が「田」を泳いでいる。

 僕は、「僕」になる。

 そして、頭の中の彼は。三崎帆希は。三崎帆希のままだった。

 どうしてだよ。

 気分が悪い。

 自分の人生なんてゴミだ。

 この世界は醜い。最悪だ。

 君は、なにもかもから例外になってしまった。僕は、君を深く愛してしまった。


「もうダメだ…………」


 僕は胃の中のものを吐き、その場で倒れた。


「三崎……」


 最後に、それだけ呟いて。


◆◆◆


 三崎に介抱された後、彼に風景画を見せると、面白いくらいに動揺した姿を拝めた。

 そして僕は、もののついでみたいに告白する。


「君のことが好きだ」

「……嘘ぉ」


 信じないって信じてたよ。

 やっぱり、三崎は風景画を気に入ってくれなかった。


 眼鏡を新調した後。限界を感じて、三崎から離れることにした。

 絵を描く道具一式と、財布を持って家を出る。

 田舎道を、独りでとぼとぼ歩いていると、涙が出てきた。

 なんでだよ。

 なんで、あんな奴に泣かされなくちゃならないんだ?

 カエルがゲロゲロと僕を嘲笑っている。

 晴天の下で濡れ鼠になっている気分だ。


「はあぁ…………」


 大きな溜め息を吐く。

 しばらく歩いて、河川敷で歩みを止めた。

 ここで、のんびり絵を描こう。

 流れる川の絵を描こう、そう思ったはずなのに。僕が絞り出した絵の具は、赤と黒。描くのは、ある人間。

 この絵が完成したら、帰る気が起きるだろうか?

 絵が完成するまでは、テキトーに公園や電話ボックスで夜を明かした。

 何度か三崎に見付かりそうになったが、その度に隠れてやり過ごした。

 僕は何をしているんだろう?

 気持ちが落ち着き、自分が馬鹿馬鹿しいことをしているように思えてきた。

 そうだ、帰ろう。


◆◆◆


 家に帰ると、三崎はカッターを握り締め、自分の腕を切ろうとしていた。


「それ……」


 僕は素早くカッターを奪い、ゴミ箱へ投げ入れる。

 どうも、僕の置いていったキノコをキメたらしい彼は、酷い有り様だった。


「ここは天国ですか…………?」

「そうだよ。おかえり、三崎」

「……ただいま」


 三崎は僕を見つめながら、泣いている。


「やっぱり、私は貴方がいないと死んでしまいますよ。どうか、ここに居てください」


 三崎は、両手を祈るように組んで、懇願している。


「敬語、戻ってる。気味悪い」


 随分前に、やめてほしいと頼んだこと。敬語を使われていると全く親しくない感じがするから、出来ればやめてくれと言ったら、君は快く了承した。

 驚くべき順応の早さだったなぁ。

 それも信仰の為せる業だったの?

 敬語がどうとか、そんなことは関係なかったのだ。これは、そんな表面の話ではなかった。

 君の、信仰心みたいなやつが嫌いだ。

 普段は友情とか愛情とか、そういうものを持っている振りをしていて、実は信仰一辺倒なんじゃないかと思わせられて気分が悪い。

 幼児みたいな純真無垢さで、そんな重苦しいものを持って来るから性質が悪い。

 それ、いらない。

 悲しいことに、僕らの間にはどうしようもない隔たりがあるようだ。

 信仰じゃ、物足りないんだよ。

 君は自分の片想いを信じていて、僕も自分の片想いを信じている。

 平行線。

 想いの真贋なんて、どうしたら分かる?

 鑑定士を呼べ、鑑定士を。


「絵を、描いたよ」


 僕は、人間の両目から死が流れている絵を三崎に見せた。

 題名を付けたくないタイプの絵だ。説明文みたいなものは余計だ。見た奴が決めろ。

 自分が何を描いたのかは、はっきりしているが、別にそれが正解という訳でもない。描いたものが何かを、教える必要はないだろう。


「きれい……」


 三崎は涙を流して喜んでいる。

 君がいくら涙を流しても、あの死の色は消えないね。それが消えたら、君に僕は、僕の絵は必要なくなるのかもしれないというのに。

 僕は、それを消したい。本当は、僕の方が献身的なんじゃないかと思う。


「人間ってこうだよ。俺には分かるよ」


 そう。それは人間だよ。君がそうだから。


「先生は俺と同じものが見えるの?」

「そうは思わないけど」


 僕は答えた。

 例えば三崎がトラウマを克服して、自分の絵を必要としなくなって、僕への献身さを持たなくなっても、僕は彼を愛せると思っている。

 どうすれば、同じように彼が僕を愛していると信じられるのだろうか?

 君を救わなきゃ良かった。残酷な感情が自分の内で膨張して、破裂しそうになる。

 僕が献身的ってのは嘘だな。

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