内政改革③ 六角定頼の死

5月初めに父に千歯扱きと唐箕を見せて、父から「後は任せた」と製作の許可を得た後、俺はすぐに千歯扱きと唐箕の製作の手配に取り掛かった。だが、実際には俺は大まかな指示を出すだけで、実務は父の意を酌んだ家臣たちが率先して動いてくれたお陰で大変助かることになった。


実はこれは俺の意図したことでもある。俺がわざわざ評定が終わった直後に、父だけでなく家臣たちの前で千歯扱きや唐箕を披露したのは、家臣たちに俺を非凡な次期当主として認識させるためだったのだ。


その結果、家中で俺は"神童"の嫡男としての評価が確固たるものとなり、目論見どおり俺は8歳ながら家臣たちから一人前の男として扱われ、俺の指示に従って家臣たちが動いてくれるようになったのだ。


そして、千歯扱きや唐箕の実際の製作に当たっては、1枚の板を加工するだけだった洗濯板とは違って部品数が多いため、俺は分業制を採用することにした。領民の各家にそれぞれ1つか2つの種類の部品を分担させて、"規格どおりに均一に"大量に作らせ、それらの部品をプロの木工職人が組み立てる家内制手工業の仕組みを導入したのだ。


このやり方で最も重要な点は部品を"規格どおりに均一に"作らせることだ。この時代は物差しさえ不正確で、プロの木工職人が組み立てた製品もサイズが微妙に異なる一点ものばかりだ。これでは大量生産など不可能に近い。


そこで、俺は完成した千歯扱きや唐箕を分解させ、それぞれの部品を見本として領民の各家に配り、寸分の狂いもなく同じサイズの部品を作るように指示した。もちろん複雑で作るのが難しい風車の基幹部品だけは、プロの木工職人に任せることにしている。


この分業制により、5月下旬から始まった千歯扱きと唐箕の製作は次第に生産効率と部品の精度が向上し、収穫前の8月には1日3組のペースで千歯扱きと唐箕が完成するようになり、秋の収穫を前に領内に千歯扱きと唐箕が普及するに至った。


一方、同じ8月には木原十蔵に委託した洗濯板3万枚は京と堺で完売し、寺倉家に予想以上の収益をもたらし、千歯扱きと唐箕の部品を作った領民への報酬にも金銭を支払うことができるようになった。金銭を得た領民たちが領内で商品を買うようになれば、それを当て込んで領内を訪ねる商人が多くなり、寺倉郷は少しずつ賑わうようになるはずだ。


そして、収穫の秋を迎えた。稲作は今年は平年並みの作柄だったが、千歯扱きと唐箕が普及したこともあってか、領民の表情は明るく、笑顔に溢れていた。


10月中旬から領内で千歯扱きと唐箕が使用され始めると、脱穀作業が予想以上の効率で済むことが分かり、脱穀作業は主に老人たちが担当するようになった。そして、手先が器用な女性たちは翌春以降の販売に向けて千歯扱きと唐箕の部品作りに専念し、冬の農閑期に入っても千歯扱きと唐箕は1日3組のペースで量産されていった。




◇◇◇





天文21年(1552年)1月2日。


近江守護で管領代である六角家14代当主、六角弾正少弼定頼が年明けすぐに亡くなった。享年58だった。


六角家は定頼の嫡男である六角義賢が跡を継いだ。ただ、昨年から病に伏して余命が幾ばくもないと悟っていた定頼は、晩年は義賢と共同で領内統治を行っており、当主交代による混乱は最小限度に収まっていた。


ところでここ数年の畿内の状況だが、管領・細川晴元を中心とする幕府側と三好長慶の三好家との抗争は激しく続いている。3年前の「江口の戦い」で三好長慶に京を追われた12代将軍・足利義晴が、一昨年の天文19年5月に亡命先の坂本城で病死し、嫡男の足利義藤(後の義輝)が13代将軍の座に就いた。


だが、15歳の将軍・義藤に実権があるはずもなく、管領・細川晴元の意のままに操られた義藤は烏帽子親の六角定頼を頼り、11月に京の奪還を図るが、「中尾城の戦い」で三好軍に敗れて坂本城に撤退した。


そして今度は、昨年の天文20年2月に三好長慶が坂本城の足利義藤を狙って志賀郡に侵攻し、六角軍が迎え撃った。この「志賀の戦い」では六角軍が三好軍を京に撃退したが、正面からでは三好軍に勝てない義藤は、3月に2度刺客を送って三好長慶の暗殺を企てるが、どちらも失敗に終わったそうだ。


坂本城から朽木谷に逃げていた足利義藤は業を煮やし、7月に幕府側の三好政勝や香西元成に丹波国人衆を率らせて再度入京させるが、「相国寺の戦い」で三好軍に完敗した結果、将軍・義藤の武力による帰京は不可能となった。


それを見た六角定頼は管領代として将軍家への最後の奉公と考えたのか、三好家との和睦交渉を始めた。年明けに定頼が死んだ後も後を継いだ六角義賢が交渉を続けた結果、1月下旬に将軍・義藤の帰京が実現した。今は大きな戦もなく、京にもようやく平穏な状況が訪れたところだ。


だが、これも仮初めの平和に過ぎない。史実ではこの後も、元家臣である三好長慶に政治の実権を奪われ、和睦に不満な管領・細川晴元が三好家に徹底抗戦を続け、義藤も再び晴元と組んで三好家と敵対し、畿内の戦乱は続くことになるからだ。


そして、盤石だったはずの六角家の勢威も三好家と幕府の抗争に巻き込まれる形で、六角義賢の代で次第に減退し、「観音寺騒動」で一気に弱体化した後、15~16年後の1568年には上洛途上の織田信長に滅ぼされてしまうのだ。


六角定頼が死んだことにより、これで今年の天文21年が西暦1552年か1553年ということが判明した。「桶狭間の戦い」や「野良田の戦い」が起こる1560年まで後7年か8年ということになり、いよいよ生き残りを賭けたマッチレースの火蓋が切られることになった。


ただ、史実では蒲生家は蒲生氏郷を人質に出して織田信長に臣従しているので、六角家が滅んでも蒲生家が生き残る限りは、蒲生家の家臣である寺倉家も滅亡を免れることができるかもしれない。


しかし、既に俺という異質な存在によって、少しずつだが歴史が改変されているこの世界が、今後も史実と同じように進むという保証はない。ましてや、いつ寝首を掻かれるか分からないこの乱世において油断は禁物だ。


六角家の陪臣である寺倉家の嫡男に過ぎない俺が、六角家や蒲生家に未だ存在を知られずに内政改革をしていられるのは、神童と呼ばれながらも俺がまだ9歳の子供に過ぎないことと、寺倉家の当主である父・政秀に隠れ蓑になってもらっているお陰だ。


だが、寺倉家が資金を稼いで戦力を蓄えていけば、いつかは主家の蒲生家も気づいて警戒し始めるだろう。そうなれば六角家中で寺倉家がどういう扱いを受ける事態になるのか先は全く読めなくなる。


六角家にはそう考えると当面の間は力を維持してもらいたいものだ。この比較的平和と呼べる時期にこそ、もうしばらくは今のまま密かに資金稼ぎに励み、領内を潤わせ、富国強兵に努めるための政策を取っていきたいものだ。

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