お題作品の匣
森川夏子
# 輪郭のない微笑み
老若男女に関わらず、分け隔てなく、主線なく、儚げに微笑む少女に、恋をいたしました。
斜陽の光と、少女に出来た影。
女神テミスの於母影を感じてしまう彼女は、まさに、僕たち画家にとって、高嶺の花なのです。
それを描けずに泣いていると、彼女はそっと、現れて呟いたのです。
「貴方は、ありのままでいいのよ」
その有難い言葉に、救われたひとりなのです。『ありがとうございます』
そう僕が言うと、鋭い獲物を睨みつけるような目に囚われてしまいました。
角度が変われば、まるで、聖母から悪女へ豹変する、マグダラのマリア。
謎多き彼女の微笑みに僕たちは、まるでなす術のない、タヌキにでもなってしまったように、うろうろ、うろうろしてしまいます。
彼女の一番が欲しい。彼女に認められたい。
愛されたい、ええい、僕が好きと囁いて下さいと、恋願う画家たちが、彼女の周りに一心不乱に一定の距離をぽつぽつととりながら、跪く。
貧乏ゆすりしたり、挙げ句の果てに発狂して、上半身を脱いで走り去ってしまう男まで現れてしまう次第なのですから、相当な重厚感のあるお方なのです。
彼女は色香を纏わせて、哀れな不男を惑わせているのでしょう。なんと、罪深いお方なのか!!
僕なんかには、到底、近づけない存在……。
もうだめだ、昼寝をしよう、眠ろうと決意してアトリエの隅っこの床で、惨めに寝そべっていると、彼女が、アトリエに現れたのです。
僕は、白昼夢をみているのでしょうか?
そんな彼女が、ゆっくり、ゆっくり、歩み寄り、僕の頬にふうーっと甘い息を吹きかけてきたのです。
ぞわりとした感覚、甘さのある蜜の匂いに、あああ、やめてください、僕が壊れてしまいます。
僕はひどく、狼狽るように、後退りすると、その動きに合わせるように、彼女は忍び寄るのです。
あの日の微笑みのままで、ずっと見つめる。
「貴方は、そのままでいいのよ」
彼女の輪郭のない微笑みが、僕を包み込む。
僕は彼女に恋をしてしまいました……。
どうか、この哀れな画家に、微笑まないでください、貴女のおかげで僕は筆を折ってしまった。
そして、僕は新たに、別の筆に持ち替える。
描けないならば、書けばいいのです。
書いて、書いて、書いて、書いて、書いて……。
貴方の微笑みだけを胸に抱き、書いていたい。
哀れな美を求める、強欲で傲慢で自惚れた堕天使に、どうか、罰をお与えください。
彼女は、弱り切った僕を抱え込むよう、抱き。
「貴方は、私のアダムよ。絶対に、殺したりなんかしないわ」
そう言って、抱きしめる。
既に陽はおちており、銀の月がぼうっとした円を描いている。
ここは、天国であり地獄であった。
画家の男はひどく混乱して、それでも、舞い降りたチャンスに心を震わせて、告白しました。
「貴方のことを……ずっとずっと、慕っております。どうか、僕の心を掻き乱さないでください」
彼女は、いたずらっ子が、無邪気に蟻や蝶を殺してしまうような微笑みで、答えます。
「貴方を愛しているわ、ずっと側にいなさい」
あれから、何年経っただろう。
私は、外の世界を知らない。
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