魔神の写本  〜ギュスタヴ・サーガ〜

山野陽平

魔神の写本

第1話 草むらにて

 ベイクことギュスタヴ・ベキャベリが、いなり総本山、およびギルガン島に本拠地を置くいなり総合商社の社長の職を辞任したのは1ヶ月前だった。少しは新事業の立ち上げに協力するつもりだったが、まさか1年も在籍して、元々いた親方様に替わって指揮をとるとは思わなかった。


 研究、製造、販売に流通と様々な事を親方やみんなと話し合いながら行ってきたのはベイクにとっていささか楽しかった。


 会社を辞める事を告げると、親方がどうしてもと止めて、今は相談役として留まる事になった。しかし役目が来るのが何かあった時というだけで、ベイクはまた本来のように当てもない旅に出ている。


 ベイクは前みたいに頭と髭を剃り上げ、巡礼者のように白い布の服を着て、左腰には短い妖精石の刀剣、肩には友の形見のナタや食料、あと生活に最低限必要な物だけ携えて、草原に走る轍の上を歩いていた。


 辺りには木もなく風が強く吹いて草を揺らしていた。真昼間なのに太陽も雲に隠れていて、なんだか崩れそうだ。


 遠くに建物群らしきものが見えてきた。ベイクの足が自然と速まる。どこか遠くで雷鳴が鳴るのが聞こえたからだ。


 そこから進むと、左手の草が向こうに向かって剥げているのが見えた。その緑を荒々しく蹂躙した先には車輪が天に向かって馬車がひっくり返っている。白い塗装がなされていて、車輪の装飾といい、中々立派な馬車らしかったが、草で半分しか見えない。辺りにはもう馬はいないようだった。


 「ぎゃあああ」というような叫び声が辺りに響き渡り、ベイクはひっくり返った馬車から声がした方へ目を移した。


 向こうの草の中に何人かが集まっていて、下を向いて何かを取り囲んでいる。


 ベイクはとっさに走ってそちらに向かった。


 ベイクが草を掻き分けて行くと、数人の男はこちらを見た。彼らは同じように頭と顔に短くて太い毛をまばらに生やしており、毛のないのは猪のような鼻の先端だけだった。しかし、顔は獣のように流線型ではなく平たい。目が窪んでいて白目、いや目自体が異常に小さくおでこが出っ張っていて、異常に小さい耳の近くまで口が裂けて、そこから牙を生やしていた。腹の出た毛だらけの上半身を露出しており、首巻や腹巻巻いたり、趣味の悪い鎖などの装飾品を身につけている。


 草の合間から、彼らの手に持つ刀剣や斧、汚そうなズボンに泥だらけの靴が見えて、その先には横たわる人が見えた。


 黒い髪を撫でつけ、髭をきちんと整えているその男は、恐らく位の高そうな青い上っ張りと白のタイツを履いていたが、それを自分のものと思われる血で染めていて、腹部の鮮血の量からしてもう助からないと思われた。


 3人の毛むくじゃらの男達は無言でこちらを見てきた。


 ベイクも喋らず、腰から妖精石の刀剣を抜いた。


 3人のならず者は同時に仕掛けて来た。


 ベイクは彼らが一撃を繰り出す瞬間に4回の斬撃を繰り出し、内ふたりの剣を弾き返して、戦斧を持つ者には腕を切り裂き、首を半分切り落とした。


 向かって右へ切り抜けると、真ん中の近い者の背中を十字に切り裂き、振り向いた最後の者の斬撃を弾くと空いた胴体を3度斬った。


 ベイクは3人が横たわって動かないのを確認すると、彼らの犠牲者に息があるかを確認しようとひざまづいた。


 まだ生きている。


 しかし助かるまい。


 「何かあるか。どうした」ベイクは顔を近づけて話しかけた。


 「......お車に、お嬢様がおられます。助けて」初老の男はそれきり微動だにしなくなった。


 ベイクは立ち上がり、また草を掻き分けて、駆けてひっくり返った馬車に向かった。


 中を覗くと見事に椅子が天地ひっくり返っていて、幌の天井に2人の男達が横たわっていた。やはり2人も先ほどの男と同じ立派な上っ張りとタイツを身につけていたが、片方は首の骨が折れていて、もう一方は背中を酷く傷つけられていて、真っ赤に染まり絶命していた。


 ベイクは他には何もないと思ったが、微かにうめき声がしたような気がした。はてさてその大人達を退けてみると、蠢く布が現れ、それが解き放たれると、髪がブロンドで長く、淡い桃色のドレスを着た、年が6、7つくらいの女の子が息を荒げながら現れた。


 一瞬、ブルーの目がこちらを恐怖の目で見たが、ベイクを少し見つめると徐々に眉尻が下がり、辺りを見回して、泣き始めた。


 ベイクは表に彼女を連れ出し、従者やならず者の死体が見えない所まで連れていき、落ち着くまで石に座らせた。


 「大丈夫か」ベイクは訊いた。


 少女は返事をしなかった。ただブルーの瞳を地面に向けたり、たまにベイクを見つめたりした。


 「どこから来たんだい?」


やはり返事はない。すると少女はゆっくりと指を、ベイクが向かっていた街の方へと掲げた。


 それから少しすると、ベイクは手を差し出した。「行こうか」


ベイクは手を繋ぐつもりでいたが、少女は両手を投げ出して来たので、抱き上げた。彼にはよく分からなかったが、彼女が歳の割に幼いように感じた。まあ、位の高い家の子供らしいし、そういう事もあるか。


 まあまあ重かったが、ベイクはまた轍の跡を歩いて行く。ベイクは何も話しかけなかったが、彼女はしっかりベイクにしがみついた。


 しばらく歩くと、遙か向こうから蹄が土を駆るの音がし始め、数騎の馬が近づいて来た。騎兵隊だ。彼女を連れに来たのか。


 そして騎兵隊は瞬く間にベイクと少女を取り囲んだ。


 目まで隠れるメットに鎖帷子、それに盾の紋章が入った赤い上っ張りを着た騎兵隊。彼らはベイクの周りをグルグル回りながら警戒しているようだった。


 「貴様、大人しくマリアお嬢様を離せ」騎兵の人の1人が話しかけてきた。


 ベイクは恐らくそうだろうと思い、先ほどから彼女を地面に下ろそうとしていた。騎兵隊のお迎えだと確信に満ちて分かっていた。何なら、厄介ごとになる前に彼女を下ろして草むらに隠れようとしたくらいだ。


 しかし、あまりにも彼女がしがみつく力が強すぎて、腕の中から下ろす事が出来なかった。それにその力は街に近づくたび、また騎兵が現れると更に一層強くなった。

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