本編3「嘔吐」
ありったけの魔力を、限界まで身体に付加させた。不器用な俺でも、あの場所へ行く事ぐらいは出来る。帰りの事は、考えなかった。
村を走り抜け、森の中を駆け抜ける。一度しか行ったことはないが、分かり易い道順は覚えていた。
目印の湖に到着する。村の人々にとっては少しばかり遠出の遊び場所だ。その湖畔を左に回ると、廃れた掘っ建て小屋が姿を現す。そこからさらに森の奥へと突き進む。
真っ直ぐ真っ直ぐ行くと、ラム洞窟に到着した。大岩の中に広がる洞窟だ。やっと半分。息が切れ始めた。僅かとも揺れぬ我が子の背中を思い出す。少しだけ、良い思い出のような気がした。
そこから左へと切り返し、また真っ直ぐと突き進む。迷子になった巨人、と呼ばれる大樹が根ざす場所を目指した。
「道に迷ったら、飛び跳ねて上から見れば良いんだよ」
我が子の言葉だ。それがどれほどに難しい事か、きっと分からなかったんだろう。
ラム洞窟から目標の大樹まで半分ほど進んだ時だった。不意に膨大な魔力に包まれ足を止めた。今まで感じたことの無いほど、巨大で濃厚な魔力。それが進む先から放たれているモノだと、不器用な俺でも分かるほどに、濃厚な魔力だった。
混乱の中真っ先に浮かんだのは、凶悪な魔獣に襲われている我が子の姿だった。
助けなければ。
気づけば、全力で走り出してた。木の枝が身体を切り刻む。それでも走った。我が子を、助けなければ。転んだ。吐いた。魔力が尽き掛けている。構うものか。
助ける。助ける。助ける。また転んだ。もう少しで大樹の根本だ。どこが痛いのかも分からない。目一杯に息を吸い込んだ。森に広がる濃厚な魔力が、口と鼻孔を通り、喉へと流し込まれた。
――あり得ない。
俺はこの魔力を、知っている。
あり得ない。
足が止まった。
森中に張り巡らされるほど巨大で、質量を感じるほど濃厚な魔力を、俺が知っているはずがない。
それでも、俺の身体は確かに知っていた。たった一人、無意識に思い浮かべている。
これは、あいつの魔力なのか?
「ウゲェエッ」
胃液が喉を焼き、口内に強い刺激を与えて、外に飛び出す。視界が滲んだ。鼻孔はジュルジュルと音を立てている。
「ウゲッ」
ビシャビシャっと、胃液が飛散する。靴が汚れた。思考だけが鮮明になっていく。
疲れた。
二度、しっかりと息をした。当初の目的を思い出す。俺がここに来たのは、あいつの正体を暴くためだ。
自慢の我が子。
魔力はすでに枯渇してしまった。気分が悪い。頭が痛い。身体が重い。もうすぐそこだ。助けてやる。自慢の我が子。殺してやる。自慢の我が子。おまえはいったい、誰なんだ?
「グギャァァアァアァアアッ」
獣らしき絶叫が耳と身体を叩いた。不思議と、恐ろしいとは感じなかった。森の中を支配しているのは、我が子の魔力だ。獣の魔力など、一切感じない。
俺は歩く。迷子になった巨人と呼ばれる、天高く伸びる大樹の根本を通り、その裏側へ。一度我が子が案内してくれた、あの場所へ。
盛大な音が鳴り響いている。重い重い、なにかしらの衝突音だ。弱った身体が、挫けそうになった。
「ウゲッ」
吐いた胃液は、そのまま足に広がった。ベチャリベチャリと鳴る俺の足音だけが、現実味を帯びている。
もうすぐそこだ。ここを曲がれば、我が子がいる。自慢の我が子が。
「グギャギャアァアッ」
「いいか、よく聞けよ、憤怒のイエローグリズリーさん。今のは
「グゥルルギャァァアッ」
「うん……いや、だからなんだって感じだよね。ああそうか、これ相手が獣だと意味ねぇな。リアクション無いとクソつまんねぇじゃん」
「ギャガッ」
「おおっ、右目焦げたまんまだっ。そろそろ魔力尽き掛けてきたんじゃないっすか、グリズリーさん」
「ガガアッ」
「はいもらったぁっ」
イエローグリズリーの巨大な右腕が、切り飛ばされた。今まで見たこともない、随分と愉快そうな笑みを浮かべる我が子の振るう剣によって。
俺は茂みの中で、木に寄りかかりその光景を見ていた。
森の守り主と呼ばれるイエローグリズリーと戦う我が子。
頭の半分が焦げた、右腕を失ったイエローグリズリーと、僅かばかりの汗で髪が濡れているだけの我が子。
苦しそうに呻くイエローグリズリーと、はしゃぐ我が子。
「グギャアァァアアアァッ」
「はい終了っ」
首を切り落とされた瞬間、その切り口から血が噴水のように噴き出した。イエローグリズリーの身体が、ズシンと地を揺らす。我が子は腕を組み、その光景をニヤニヤと口を曲げて笑っていた。
ああ、そうか。あれは、俺の子供では無い。
少しだけ、眠い。きっと疲れているからだ。
「六歳でこれって、どんだけ強くなんだろうな」
そういって鼻で笑う、誰か。身体が重い。耳に届く声はやけに鮮明だった。
「最近成長具合がヤバいよなぁ、この身体」
開いた両手を見つめながら、自分の身体を借り物ように話す誰か。
その不可思議な言葉を、俺はすんなりと受け入れる事が出来た。
ずっと抱いてた、石の様に硬くなっていた違和感が、解かれていく。心地の良さすら、感じていた。
「日に日に強くなってんべ。あっ、あれかな? やっぱ性欲が強くなってんも関係してんのかな。やっぱり六歳ぐらいから男になるんだな。昔は全然興味出なかったのに、ここ一ヶ月くらいヤバいもんな、性欲。まだ大丈夫だけど、感覚的に意識し始めてるもんな、女の人」
気色が、悪い。
自己嫌悪は、顔を出さなかった。
「脳の何かが変わるんだろうな、六歳ぐらいで。頭ではエロい事だって分かってても、この間までは何にも感じなかったからな。まぁ、普通に考えたらそりゃそうか。めちゃくちゃセックスしたがる三歳児なんて気持ち悪いもんな。おおっ、もしかしてなんかスゲェ事気づいちゃったかもしれない」
俺の子供は、どこにいるのだろう。
妻は、どう思うのだろう。
目の前にいるあいつは、いったい誰なんだろう。
なぜ我が子の身体を、奪ったのだろう。
なんでそんな、酷い事を。ああ、酷いよ、酷すぎる。
視界が、溺れた。胸が熱くなった。これまでの六年間を思い出していた。我が子を奪われた六年間。騙され続けた六年間。どうしようもない、六年間。
「でもこれ、あと二年ぐらいしたらヤバいよな。母さんむっちゃ美人だもんな。昨日もヤバかったな。めちゃくちゃ気持ち良かったし。癖になる、ってかなってるよなぁ。しかも無料だし」
昨日の光景を思い出した。俺は正しかった。妻は、こいつに汚された。ずっと汚され続けていた。我が子の命を奪った、この誰かに。
「まだ身体が反応しないから良かったけど、さすがに母さんに反応したらダメだよなぁ。でも俺にとっては結局他人だし、正直そろそろ身体が俺の思考に追いつきそうなんだよなぁ。ヤバいよヤバいよ。あっ、そういえば父さん入って来たとき危なかったな。もう少し気づくの遅れてたらバレてたべ」
プッ。
俺は自分の口を押さえた。危うく笑ってしまうところだった。吹き出してしまうところだった。煌々とした殺意が視界を鮮明にした。殺してやる。俺は腰に差した剣を確かめた。ズシリとした胸の重みが、落ちていく。
「ていうか俺、独り言ヤバくない? マジラノベの主人公じゃん。でもあれだよな。転生すると本性隠さなきゃいけないから、本当の自分になれるのが一人きりの時だけなんだよな。だからこうやって……端から見たらかなりヤベェだろ、これ」
ゲラゲラゲラと、一人笑う誰か。
俺は剣を抜いた。
あれは、悪魔だ。我が子の身体を奪った、憎き悪魔。
俺は、茂みから出た。
「おい」
あいつが、振り向く。俺と同じ灰色の髪が靡いた。妻と同じ蒼い瞳が見開かれる。俺に似た大きな口が、パクパクと動いた。
「お前はいったい、誰なんだ?」
目の前の誰かに、俺は問いかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます