弁慶のわらいどころ

Lie街

サヨナラを夜に三拍子

私私と、私の小説だから、もちろん幕を開けるのはいつだって私だ。自分の道も切り開かないのだから、私は自分で小説くらい書いても良いではないか。

狭い四畳半の部屋、食器が連なる流し場、薄い壁の向こうから聞こえる、隣人の微かな喘ぎ声。私の生活とともに染み付いてしまった、ドロドロとした空気に時折つまづき、それを口実に一日中だらりとうつ伏せになり、眠ることもよくある。これじゃいけないと、参考書を開き紙とペンを用意するが、横に書いていたはずの文字が縦書きになり、気づいた時には小説を書いている。これはもう、病とでも言うべきか?あるいは才能とでも言うべきか?どちらにせよ、どこかに応募できるほどの出来栄えでもなければ、中途半端な長さで短編にも届かないものばかりだ。そんな自堕落な自分を打破しようと、自らを奮い立たせ、休日にもかかわらずメロスのような気分で玄関を飛び出すが、そう言う日に限って数分後には雨が降っているのである。何か、目に見えない膨大な力が、私をこの狭いアパートに押さえつけているのではないかと思い、怒りの気持ちすら沸き上がってくる。どうしたものか、変わりたいのに変わらない、全部あいつのせいだ、私と一緒に暮らしていたあいつのせいだ。

あいつはビール缶だけ置いて消えた、私の片思いみたいなものだったんだ。きっと。

一年くらい付き合ってたけど、ある日、私の家にどかどかと上がり込むと、私に襲いかかってきて、キスをして服を剥がして、ストッキングを破って。あまりに激しいから、私は恥ずかしいくらいに喘いでしまって。いえ、ほとんど叫んでいたような気がする。「求められてる」「私はここよ!」って、多分そんな感じで、ただめちゃくちゃに叫んでたと思う。だけど、私の息がまだあがってるうちに、彼はビニール袋から缶ビールを一本取り出して、一気に半分くらい飲み干してから、ため息みたいにでも、はっきりと私に言ったの。「別れよ」って、あれだけ激しくした後に、もう満足って顔して、薄く笑みなんかを浮かべながら冗談みたいにそう言った。私は当然、目の前に現れた不幸に殴られて、激しく泣いた。目が腫れてもう二度と治らなくなるくらいに泣いた。そしたら、彼は涙を拭くわけでもなく、私の片手をとって缶ビールを持たせて、そのまま帰った。三拍子みたいにリズムよく、タンッタンッタンッ、って。変な人だった。もちろんそんなことは知ってた。けれど、別れ方まで変なんだから、笑えない。結局、彼がなんで別れたのか、何が理由だったのかは分からずじまい。連絡先は一応持ってるけど、連絡する勇気はない。

怒りは惨めさに変貌を遂げるころ、ちょうど今日は綺麗な満月で、薄汚れた窓を開けて空を見上げた。

月は子供の肌のように真っ白で、光を受けて光っていた。私はイルミネーションなんかよりも、この光の方がずっと綺麗だと思っている。LEDには便利さやきらびやかさはあれど、趣はない。月は美人だ、とても上品で、夜にしか恥ずかしがって顔を出さない。そういえば、あいつが来た夜もこんな満月だった…と、またあいつのことを考えている。これは私の小説だ。あいつあいつと書いていてはまるで代筆ではないか。しかし、記憶の底に張り付いて、鍋のコゲのように黒い塊となってしぶとく存在しているのだ。

月は綺麗だった。あいつも綺麗に見えた。私はもうすっかり緩くなってしまった缶ビールを飲んで呟いた。


「まずい。」

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