平和な日常って幸せだよね。7

 そして、話は冒頭へと繋がる。

 休日を借りた本に浸って過ごしたエレナは、クララに返しに行って、そのまま語り合った。そして前日にあったことなどすっかり忘れて眠りについた。それを思い出したのは次の日の朝礼後、バルドに呼ばれて行った先に、全身灰色のフェルナンの姿を見つけたときだった。


「──あの、わ、私、申し訳ございませんでした!」


 わざわざ呼び出されるなど、怒られるに決まっている。やはりその場だけ取り繕うために逃げたのが悪かっただろうか。それとも花瓶を落としたことがばれたのだろうか。怒られる前にと勢いよく頭を下げる。少し勢いが強過ぎて、ぐわんと目眩がした。


「何を謝っているのですか」


 バルドが呆れたように言う。しかしエレナには、心当たりならいくらでもあった。


「ええと、花瓶をひっくり返したことですか? あ、絨毯汚れてたとか……それとも慌てて逃げたから、それでしょうか。後は……」


 指折り数えていくエレナに、フェルナンは思わずといったように吹き出した。


「大丈夫だよ、エレナ。僕は君を怒るつもりで呼んだわけではないから」


 とりあえず怒られることはないらしい。エレナは穏やかなフェルナンにほっと息を吐いた。では、何のために呼ばれたのだろう。

 首を傾げたエレナの右手を、フェルナンが両手でがっしと掴んだ。長い前髪の隙間から、眼鏡越しに澄んだ灰色の瞳が覗く。その瞳は、まるでロマンス小説のヒーローが、ヒロインに愛を乞うような真剣さだ。エレナの心臓が、勝手に鼓動を早めた。目が逸らせない。


「──エレナ、僕の専属侍女になってほしい」


 紡がれた言葉は、ロマンスでも何でもなかった。フェルナンに逃がさないとばかりに両手で握られたエレナの右手は、ときめくような温もりよりも必死に縋り付かれた痛みを強く感じていた。


「どういうことですか!?」


 だから、不敬と言ってもいい叫びのような勢いで言葉が漏れても、それは仕方のないことだと思う。


「昨日の夜会で、僕は数年ぶりに服装を褒められた。君のお陰だ!」


 呆然としたエレナの目の前で、瞳を輝かせたフェルナンが言う。この人は何を言っているのか。エレナはただ、衣装棚から服を選んだだけである。それならデザイナーやらスタイリストやら、もっと専門家を雇えば良いではないか。そもそも、灰色以外の服を着れば良いのだ。

 それにエレナは、今のままの暮らしを気に入っている。それ以上を望んでなどいない。ただ、平和に、趣味が合う同僚と一緒に仕事ができればそれで良い。公爵の専属などなりたくもない。


「え、っと。あの、私……そんなつもりじゃなかったんです!」


 必死で否定するが、握る手の力が強まる。そして、見た目は根暗そうだが穏やかな口調だったフェルナンが、すうっと表情を消した。それはまさに次期宰相と言われるに相応しい冷たさを秘めている。


「君の意見は聞いていない。ただ、僕がそうしたいから言っているんだ。……何か不満があるかい?」


 それでもエレナも必死だ。一瞬怯んだのを隠すように、あえて胸を張った。


「何故私なのですか!? この程度、他の者でもできますよ!」


 この国では、普通、男性の主人の専属として働くのは従僕である男性だ。それをバジェステロス公爵家のフェルナンに専属侍女なんて、皆と離れてしまうに決まっている。エレナは大勢の中の一人であることに満足している。どうにか平和な日常を守りたかった。


「選ぶことはできるだろうが、私に着せることはできないだろうね」


「それは……っ」


 エレナの言葉を切って、フェルナンはまた表情を変える。そして、フェルナンはエレナに、自身の呪いについて説明しだした。全てを聞いたエレナは言葉に詰まった。服が全て灰色になってしまうとは、なんと可笑しな、しかし嫌な呪いだろう。

 呪いなどという非現実的なもの、エレナは信じていなかった。しかしフェルナンの服が不自然に全て灰色であったことは、その手入れをしていたエレナが一番良く知っている。

 エレナの背後では、使用人頭のバルドが逃がさないとばかりに目を光らせていた。


「僕の呪いに勝てるのは君だけだ。君のような女性を待っていたんだ。どうか、僕だけの侍女になってくれ!」


 瞬間、エレナの脳裏をよぎったのは、昨日読んで、クララと語り合ったロマンス小説の一節だった。


『貴女でなければ駄目なんだ。私だけのものになってくれ』


 小説ではヒロインの前でヒーローが片膝をついて愛の言葉を囁いている、大変ロマンチックな場面だった。エレナも、そんな台詞を言われてみたいと思った。

 確かに似たようなことを言われた。言われたが、これは何か重要なことが、決定的に違う。

 しかし勤める家の主人に懇願され、逃げ道も絶たれ、断ることができる人間がいるだろうか。


「──はい。承りました……」


 ああ、たった一人の、公爵の専属侍女だ。エレナは今日までの平和だった生活を諦め、嫌々ながらも頷くしかなかった。

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