明日のアイラブユー
つきの
第1話 ミコ
ミコは55歳になりました。
美しい訳でもなく、シミやシワもあって、年相応に疲れていて、年相応に見える、おばさんと呼ばれる年代です。
若い頃からお化粧が下手なのと肌が弱いせいもあって、化粧水とクリームを塗って日焼け止めをするくらい。
ミコの母がまだ生きていた頃、ロクに化粧らしい化粧もしない娘に苦笑しながら、『口紅くらい塗ればいいのに、あなたはこんなに綺麗なのに……』とよく言ってくれたものです。
母はミコを愛していたので、地味でそのままでは世の中に埋没してしまうような娘にそんな風に言い、少しでも自信をつけさせたかったのでしょう。
*
ミコはそれでも一度結婚しましたが、夫は早くに病気で亡くなってしまいました。
子供はいません。
今は両親もなく、近所の雑貨店で働きながら、一人でひっそりとアパートに暮らしています。
夫とは幼なじみで恋愛結婚だったのですが、短い結婚生活はあまり順調とはいえませんでした。
夫は気の優しい人でしたが、優しさは時に気の弱さにも繋がります。
いつの間にか夫は仕事のストレスや理不尽を、お酒で紛らすようになっていました。
酒量が増える度に
夫のお酒は絡み酒でした。
仕事の愚痴を聞いていても、気に入らない受け答えをすると怒鳴りだします。
それなら……と、ただ黙って聞いていても駄目なのです。
何で黙ってるのか、無視するのかと、それはそれでしつこく怒るのです。
何が癇に障るのか、その時によって違うので、ミコはビクビクするようになってしまいました。
イライラが募ると夫は壁を殴り、ドアを蹴り穴をあけます。
直接ミコを殴らなかったのは最後に残った夫の理性だったのかもしれません。
そんな結婚生活を終わらせたのは、夫の病気でした。
まだ30歳になったばかりだった夫に癌が見つかったのです。
進行性の癌はあっという間に夫の身体を蝕んでいきました。
何度目かの入院、そして手術と治療の甲斐もなく、夫は亡くなってしまったのでした。
ミコが32歳のことです。
*
ミコは暫くは実家で両親と暮らしていましたが、両親がいなくなってからはアパートで一人暮らしをするようになりました。
元々、内気な性格ではあったけど、それなりに友人との付き合いもしていたミコですが、夫が亡くなった後は、そんな友人たちとも少しずつ疎遠になっていきました。
人、というものに、少し疲れてしまったのかもしれません。
それでもミコはそんなに寂しいとは思いませんでした。
元々、気を遣いすぎるきらいもあって人付き合いは得意でなかったし、一人で本を読んだりして過ごす方が好きだったのです。
*
ただ、最近ふと考えることがあります。
『わたしは、焦がれるほどに、生命を捧げてもいいと思うほどに強く激しく、人を愛したことはあったのかしら』
夫のことは好きでした。
幼なじみで甘えん坊の弟のようなところがあった人でした。
確かに結婚生活は短く、あまり幸せとはいえない終わりを迎えてしまったけど、でも楽しい想い出だって沢山ありました。
好きで、ずっと一緒にいたいと願って結婚したのです。
でも……時々、わからなくなることがあるのです。
ミコは夫以外と付き合ったことがありません。
夫だけが異性で、女性の友人はいても男性の友人さえいませんでした。
それでもいいと思っていたのに、55歳になったミコは考えてしまうようになったのでした。
『わたしは誰かを自分のこと以上に深く愛したことはあるんだろうか』
と。
夫のことでもそうです。
『最期まで嫌いになり切れなかったし、家族としての愛情はあったけれど』
今では夫と暮らした日々が、まるで夢だったように思えてくるのです。
『わたしは冷たい人間なのかもしれない』
そんなことも思ったりします。
何だか、いつもどこか薄い膜の中から世界を見ているような思いが消えないのです。
幸せだと感じたことも、心引き裂かれるような気持ちになった事もあるのに。
自分を見ている、もう一人の自分がいるようなのはどうしてなのでしょう。
もう55歳のおばさんが、そんな事を考えるなんて……と自分をたしなめます。
『あんたは特別美しいわけでもお金持ちでもないのよ』
『若い娘でもない、こんな自分が誰をそんなに愛せるというの?誰から愛してもらえるというの?』
夫が逝った後の23年という過ぎ去った年月を今更ながらに思います。
ああ、わたしの人生はもうこんなところまで来てしまったのだと。
*
ミコには持病があります。
ここ10年ばかりの一人暮らしの中、いつの間にか無理を重ねていたのでしょう。
朝と晩の薬は欠かせません。
定期的に病院にも通っています。
仕事と、病院……偶に本屋さんや美術館に出かけるくらいがミコの外出の全てでした。
*
そして、それも数ヶ月前に日本を、世界を襲った新型肺炎によって、すっかり変わってしまったのです。
感染予防の為の自粛。
家にいることは苦にはならなかったけど、天気の良い日の散歩やちょっとした街歩きさえも控えなければならない日々が続きました。
仕事も自宅待機になりました。
もしかしたらお店を続けられなくなるかもしれないと聞きました。
そうなれば、新しく仕事を見つけないといけません。
そんなこれからのことも、ミコの気持ちを沈ませてしまうのでした。
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